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第8話
不自然な体勢に違和感をおぼえて目を覚ますと、イサキオスが扉から出ようとするところだった。
「ま、待てっ、イサーク、これは一体どういうことだっ」
シュジェールは裸のまま、背もたれ付きの椅子に片足を縛られて、両手も背中で戒められていた。
「おや、気づいてしまったね」
「自分だけ着替えて、僕にこんな格好をさせて一体……」
言いながら、シュジェールははっとした。服がない。剣もない。金の入った袋だけは床に落ちていたが。
そして、イサキオスの腕にはあの優雅なトーガがぐるぐると何かをくるんだように抱え込まれていた。
「イサーク、僕の服と剣を返せっ」
「これは戦利品としてもらっておくよ。かわりに私の短剣をそこに置いておいたから」
「どこにっ」
「ほら、そこに」
イサキオスの視線は窓のすぐそばだ。宝石を嵌め込んだ黄金造りの短剣までの距離はかなりある。絶句したシュジェールに、たたみかけるようにイサキオスが言った。
「ああ、最後にもうひとつだけ忠告しておこう。従者はひとりじゃなく、ふたりつけるべきだよ。彼は今、リュシアスにたらしこまれているところだ」
「な、なんだって」
「大声をあげるとひとが来るよ。心配しないでいい。頃合を見て、リュシアスに君を助け出すよう言いつけてある。中にひとが入ってくることはないから安心して。この季節だ。彼が楽しみすぎて数時間ほおっておかれても、風邪をひく心配もないだろうさ」
さしものシュジェールも言葉が出なかった。あまりのことに肩で息をついで真っ赤になって震えるだけだ。それを見たイサキオスはすました顔で笑って続けた。
「君の泣き顔は最高に可愛らしかったけど、私は君にそんな顔をさせたくて、教授の私塾で見かけてからずっとつけまわしていたのかもしれないな。今、最高に愉快な気分だよ」
「僕は今、最高に気分が悪い」
紅い唇をまげて言い放つシュジェールに、イサキオスは喉をそらせて大きく笑った。
「いいね。私の皇子様。長年の夢がかなったような素晴らしい気分だ。君の汗と涙と欲望の染みついた服はもらって帰るよ。どうしても取り返したければ、いつでもおいで」
「誰が行くもんかっ。君のような破廉恥な輩のいる国に生涯足を踏み入れる気はないね」
「それは残念だ」
そこだけは真顔で、イサキオスがこたえた。彼は皇帝の末裔らしく、最後まで尊大な態度を崩すことはなかった。
「まあ、何か困り事があったらいつでも私を頼ってきたまえ。君の『お願い』であれば、私は全精力を傾けることを約束しよう」
「僕は生涯、君に頭を下げることのないことを主に祈るね」
イサキオスが瞳を伏せて笑う。期待していた通りのこたえ。七色のイリスと呼んで愛したものが、そうそう簡単に頭をさげることなど望んでいない、そういう顔だった。
「では逆に、私からお願いをしていこうかな」
その間中、少しずつ椅子を引きずって窓際に寄っているシュジェールを楽しげに見つめながら、イサキオスが口にした。
「君がこの国の中枢に就いたら、私の国にひとり、これはと思う優秀な神学者を派遣してもらいたい」
「神学者を……」
「ああ。せっかくだからね、全学部の教授資格(リケンティア)を取っておくのも悪くない」
イサキオスはそう嘯いた。
彼はたしかに神学のみは教授資格を取っていない。だが、知識の上では『神の子』を頂点とするこの国の宗教、その歴史と教義、論理や学派、それらすべてを知り尽くしている。今さらそんなことを言い出すのは……。
シュジェールが首をかしげたので、イサキオスは言葉をついだ。
「主とやらの言う、魂などというものが本当にあるのか知りたくなったのだろうね」
その瞳はかつてないほど静かで深く、どこか少しだけさみしげに見えた。
シュジェールは今にして、イサキオスが自分を本気で愛していることに気づいた。口を開きかけたところで、イサキオスが言った。
「君は少しずつ、まずはお父上の仕事を盗みなさい。それと、仲良しの王子殿下方に交じり、王宮の奥深くに出入りすることから始めるといい。お見受けする限り、それぞれ私よりよほど付き合いやすい御仁のようだ」
「それは……」
シュジェールは口ごもる。二人の王子は親友だ。病弱な第一王子ユスタスと文武に秀でた第二王子ジルベール。幼い頃から一緒の二人を利用して宮廷の覇権をとろうとは考えない、シュジェールのひとの好さを見抜かれていた。
イサキオスが笑顔を見せる。
「さあ、そろそろ私は行く。イリスの君、最後に君の素顔を見れてよかったよ。君の鎧はもういらない。それはこうして私が抱いていこう。君はそうして裸のままに生まれたのだから、そのままで素晴らしく魅力的だ」
「って、イサキオス・ルーカス、だからって、下穿きまで剥いでもっていく奴があるか!」
イサキオスは悪びれずに、こたえた。
「それはだって、君の可愛らしい蕾を覆っているところだもの。当然もらっていくさ。それじゃ、取りに来たければいつでも迎えをよこすから」
「誰が行くもんか!」
吠えるように言うと。
「待っているよ。私の皇子様、七色のイリス」
イサキオスがくちづけを投げてよこし、出て行った。しっかりと外から錠前の閉まる音がして、シュジェールは心中で叫んだ。
(ったくもう、なんだ、なんだ、あの男は。勝手にひとりで盛り上がって、終わらせて行くなよ! これで勝ったつもりだなんて、許さないぞっ)
なんて用意周到な男だろう。あのたっぷりとしたトーガに隠してこんな縄まで用意していたのだ。
考えてみれば、朝駆けのあと厩舎から寝室へ行く間に奴隷の姿は見えなかった。食事を運んできたのは、主人のイサキオス本人だ。もうすでにあの時点で邸は引き払われていたも同然だったのだろう。
シュジェールは思いきって椅子を倒す。肩を打ったが気にしていられない。短剣のところまで這っていき、片足で柄を蹴って手にもたせる。鞘を落とし、右手に握る。
イサキオスは甘い男だ。本当にきつく縛りあげてはいない。万が一にでも、シュジェールに血を流させるのを嫌った。
深々とはいかないものの、刃先を縄にきちんとあてることができた。このまま擦り続ければ切れるだろう。
(あの様子じゃ船だな。と、すれば……)
シュジェールは王都セイラムを俯瞰した。
(間に合う!)
ようやく手の縄を切ると足を結んでいたそれも乱暴に切り取って、シュジェールは袋をつかんで窓に走り寄る。
三階――だが、この高さだ。軒をつたっておりれば余裕だ。が、まずは服を手に入れないとならない。
(酔った学生が裸で歩くなんてこの街じゃ珍しくないが、僕は面がわれてるからな)
ベルガルド侯爵令息が素っ裸でいるわけにはいかない。下手をすれば、王宮に出入りすることだってできなくなる。
シュジェールは短剣を口に咥え軒先におり、二階へと伝う柱をすべっておりる。それから、開いた窓に転がり込んだ。
「あっ」
叫び声がした。シュジェールは相手がひとりとわかると、素早く背後にまわって短剣を喉に押し当てた。
「声を出すな」
「っ……」
亜麻色の長い髪が小刻みに揺れていた。
(震えてる、女じゃないよな?)
シュジェールの考えはすぐに打ち消された。大学構内に娼婦以外の女がいるはずはないのだ。来ている服はどこから見ても医学部の学生が実験で使う灰色の長衣だ。
シュジェールは用心しながら銅貨をひとつ、男の細い手に握らせた。
「服を脱げ」
「い、いやです。私は……女みたいに見えますが」
「いいから、脱いでよ! 僕が着るんだから」
「は?」
「その服をよこせって言ってるんだよ。充分足りるだろ?」
「でも、これを脱いだら今度は私が……」
「だからお金を払ってるんじゃないかっ。もっと要るならそう言えってば、払うから」
細身の男は彼の剣幕におされて服を脱いだ。それを脱いだからといって、シュジェールのように真っ裸にはならない。
「後ろを向くなよ」
シュジェールは薬品塗れの服を素早く頭からかぶった。靴も欲しいところだが、大きさがあうかあやしい。もう一枚、今度は銀貨を握らせて言った。
「決して口外するんじゃない。いいな」
「はい。ですがこれはいただきすぎです。貴方様はいったい」
「追求するな!」
シュジェールは乱暴な口調で言って、その部屋を走って抜け出した。
(調子の狂う奴だなあ。まあ、いいや。それより、馬だ)
素足で走るなど初めてのことだが今、そんなことに構っていられなかった。矢のように走る少年に、学生たちが目を見開いている。
(ちぇ、ベルガルド侯爵家ご令息ともあろうものが、追いつめられた兎みたいに裸足で学内を走るなんて)
厩舎まで来ると、気に入りの葦毛馬がいない。その背後の小屋をのぞく。ここでよく、娼婦を呼んで抱き合うものがいるのを知っている。
「リュシアス、よくも僕の従者をたぶらかして……」
あとは続かなかった。着衣のリュシアスの下で、彼の従者は半裸で身をくねらしていたのだ。
「さすが、お早いことですね」
リュシアスは涼やかな美貌のまま、振り返る。が、従者から身体を離そうとはしない。
「僕の馬をどこに隠したっ」
「馬飼いをやって、貴方の邸に帰させました」
「何だって」
「馬があれば、すぐにも追いついてしまうではありませんか」
リュシアスが少しだけ息を乱しながら微笑んだ。従者のひときわ高い嬌声が耳につく。リュシアスの名前をうわ言のように熱っぽく呼んでいた。
「我が殿はここを出て行く姿をお見せしたくないくらい、貴方に思いを残しておいでです」
その言葉に眉をひそめると、リュシアスはようやく立ち上がった。
はっとして、身をひく。執事のリュシアスのもうひとつの顔はやはり暗殺者なのだ。それは、彼の身ごなしで察していた。
「そう、それでいいのです。私はこの愛らしい青年に夢中になりすぎて貴方を取り逃しました。さあ、行ってください。我が殿は、貴方を本当に大事に思っているのです」
シュジェールは唇をかんだ。リュシアスにまで足止めを頼む男、イサキオス。その執事は行ってくださいと言うだけで、どこへとも言わず、手助けもしない。
(ああ、腹の立つ!)
シュジェールは厩舎から離れ、またもや走りだす。一歩、大学から出るとそこはもうセイリア河のそばだ。シュジェールは堤防をかけおりて、渡し守に声をかける。
「大きな船は出て行かなかったかい? 竜骨のある、帆柱のついた立派な船だ」
「今さっき出て行きましたがね。黒人の乗った船でしょう?」
「ありがとう!」
間違いない。シュジェールは渡し守に礼を言って、身を翻す。
行き先は、すぐそこの水運業組合の出張所だ。
(僕を侮るなよ。吠え面かくな、イサーク!)
シュジェールは、水面の向こうをひたと睨んだ。
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