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第1話
安っぽい飲み物に煙草と下水の混ざった匂い、煌々と明るいステージの脇から壊れてるのでは無いかと思う程大量に吹き出すスモーク。
あまりにも目の前が真っ白で何も見えなくなったので、客席から見ていて笑いが止まらなくなる。
歓声の奥で楽器を抱えた男達が噎せているのだ。
年にニ度、事務所に所属しているバンドが殆ど総て参加するイベントもついに最後のセッションだ。今ステージに上がったは良いものの、全く始まる気配が無い。
きっと何も見えなくなっているスモークの中で、ヴォーカルは息を殺して怒り狂っているに違いない。
今回だけの特別セッションバンドのヴォーカルは我がバンドのヴォーカルだ。
全体の中頃の後半という、微妙な頃合いに自分達のバンドの出番は終わり、二度目の出番であるヴォーカルと、かつて自分達の熱狂したバンドのギターであり、この事務所の社長様であらせられる男が久しぶりにギターを持つステージだ。
客席の年齢層はいつもより高く、微妙にやり辛いライブとなったバンドマン達も憂さ晴らしの様に紛れ込み、小さめのライブハウスの客席は定員を超えぎゅうぎゅうになっている。
「スモーク多くねえか……」
社長の嗄れた低い声がマイクを通して呟かれ、歓声を誘ったかと思うと、ライブハウスのスタッフが下手から扇風機を持ち出してくるのが同時で、一気にモヤが晴れていく。
そして、下手からステージに背を向ける腰までの長髪をした誰だかわからないベーシストと、氷の女王と呼ばれる物凄い不機嫌な仏頂面のヴォーカル、そして大笑いしているどこかのバンドのドラム、最後に派手な色の現役時代に使っていたギターを持った社長が見えてくる。
そしてドラムの合図と共に始まった、懐かしい曲に鮨詰めにされていた客席は一気に揺れ動き、そして、暴れ回り始めた。
行くぞ、と、知らない誰かに背中を突き飛ばされ、後ろの方で大人しく見ようと思っていたのに、その暴力的な渦に飲み込まれて行った。
まるで洗濯機だった。
洗濯機に入ったことは無いけど。
転んだら多分死ぬに違いない。人と人がぶつかり合う度に痛そうで金玉がヒヤッとする。
殆どが社長の名を呼ぶ歓声の中に、一際でかい声で氷の女王「ジン」という名前を絶叫するのが聴こえるが、どう考えてもその絶叫の主は、我がバンドのギターでリーダーであるキヨの物で、キヨは自他共に認めるジンのガチ勢である。
自分が最高だと思うものを最高だと断言出来る人間。その中でもキヨのジン愛はとんでもなく長く、深く、重い。ジンに憧れてバンドを始めた様な奴だ。今では同じステージに立つジンを久しぶりに下から眺め、テンションが振り切ったのだろう。
ジンの透明度の高い声は、社長の出す甲高いギターにも負けない。共鳴してガラスが割れそうだ。ジンってメタルシャウト出来たんだな……
感心していると、横でヘッドバンキングしているロングヘアーが顔面に叩きつけられて、悶絶する。
痛すぎる!!
声にならない声を上げていると、ふっと後ろから男の肩に担ぎ上げられ、急に持ち上げられて視界が揺れる。ベースのリョウに肩車されていた。
助かったと思ったのも束の間で、そのまま投げ出され人の頭上に投げだされる。
「ふざけんなあああああああああ」
絶叫しながらゴロゴロと転がされ、ジンの目の前を陣取り死守しているキヨを視界の端に捉えたかと思うと、ステージの下手側に落とされる。
モタモタしていられないのですぐ再び客席に逃げるように飛び込む。
まるで楽しむ気満々の様に見えただろう。
そして最後尾まで戻された時には後に続いて何人かが人の上に漕ぎ出していった。
その場で痛みは感じなかったが、後の打ち上げで痣だらけの身体を目の当たりにしていると、急に痛みを感じ始めた。
打ち上げの開始からずっと隣に居る一番仲の良い女性が痣を指で突いてくる。
「ユリさん、それ凄い痛いです。」
痛いと告げると余計に突いてくる。
首筋がゾクゾクして、ぶるりと震える。
全く不本意な怪我は不愉快なだけだが、誰かに痛みを与えられたとき、急に嫌な思い出から快楽に変わる。その事をユリはよく知っている。うっとり顔にならない程度にささやかな遊びをして疲労を癒やした。
「おいユウ。お前まだドラム悩んでんなぁ」
先程まで遠くに居たのに、ドカドカ足音を立てて隣にやってきた、通常より更に嗄れた声の社長に指摘され、癒やされていた気持ちが金髪男の足の臭いで急に現実に引き戻され、冷静になる。
きちんと自覚している事を改めて言われて気分が落ち込む。
バンドの中で一人だけ経験が浅く、レベルが低い。ドラムのレベルが低いと、イコールで総ての演奏レベルが下る。どんなに他が上手い人達の演奏も、ドラムが悪ければ最悪だ。
何度脱退した方がバンドの為だと思ったか、そして言われたかわからない。その度に脱退は認めないと、メンバーに聴き流される、その意味がわからずに、ライブのスケジュールが次々に決まる中で今辞めたら迷惑だから、ドラマーは少ないし、サポートだってすぐには見つからないから、練習すればなんとかなる、自分に言い聞かせるが、少しずつ上手くなっているのでは遅いと更に焦る。
悩んでんいる、なんて生易しい物では無いかもしれない、才能が無いのかもしれない、下手くそ野郎と自分を罵る事に忙しい。右にも左にも前にも後ろにも行けない時、人の思考は停止する。
先程まで普通に過ごしていた事が、笑顔だった事が急に罪の様に感じられて、ドロリとした気持ちが胸から湧き上がり、息を詰まらせて手が痺れてくる。
ユリはこういう時、黙って余計な事を言わず顔にも出さずに、ただ肩同士を触れさせてくれる。
「おいユウ、俺は金を稼ぎたい。それは自分の為じゃねえ。俺が良いと思う音楽を聴きたいからだ」
その言い回しではシンプルに自分の為じゃねえか……? と、つい心がツッコミを入れるが、旧世代のギタリストの日本語に突っ込みを入れるのは野暮だ。
酔っぱらいの言う事ははよくわからないが、この人が言っている本質は良い音楽を作る為にお金を稼ぐ必要がある、お金の為に音楽をやるのでは無く音楽の為にお金が要るという事なのはわかっている。社長は気持ちよさそうに説教まじりにずっと一人で喋り続ける。そして、一際声が大きくなった。
「というわけで、俺はお前等に稼いでもらわないと困る」
ご尤もである。
「だから、お前は明日ここに行ってこい」
テーブルにバンッとメモを叩きつける。
酔っぱらいの言う事は支離滅裂で長い、その上に今現在の俺の脳みそが過度のネガティブに飲み込まれてあまり聴いていなかったが、社長が席を離れてからユリが要約して教えてくれた。
それは、ドラムのアドバイスを貰いに自分の知り合い、正確には事務所の立ち上げから所属はしているが姿を見せたことの無いドラマーに会いに行け。
という事だった。
「もう良いかな、そろそろ終電だから帰るわね」
そう言ってさっさと立ち上がって歩いていくユリの後を必死で追い掛ける様にして店を飛び出す。
「ちゃんと最後まで居ないといけないんじゃないの? ちゃんと自分の居場所なんでしょう」
「……今日は無理」
「それもそうね」
珍しく、哀れみを込めた目を向けられた。終電と言って出た癖にタクシーに乗るユリに同乗させてもらい、ユリの自宅前で別れた。
二人の家はかなり近い。
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