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第2話

 翌日の昼過ぎ、重い身体を叩き起こして指定された場所に向かう。三駅程離れた閑静な住宅街のある駅だ。  メモに『スティックだけ持って手ぶらでいけ!』とわざわざ書いてあったのでチャリを使った。荷物も無いし身体を動かさないと暗い気持ちになるからだったが、ボロボロのママチャリを漕いでいても暗い気持ちになったのであまり意味が無かった。  辿り着いたのはかなり大きな一軒家の様だが、塀が高く、外から家の様子は殆ど見えない。何やら厳重な趣きだ。同じ事務所の人と言われたからスタジオか何かを指定されたのだと思い込んでいたが、どう考えてもかなりのセレブの民家だ。大きな一軒家なので、高齢の方なのかもしれない。  不安になって社長に電話をする、何度もかけてやっと出たのは不機嫌な寝起きの声で、その家で間違いないと言って切られてしまった。説明をろくに聴いていなかった自分の責任かもしれないが、ブロック塀では無いコンクリートの外塀、アイアンで飾られた門の構えに萎縮した。とりあえずモタモタしていると約束の時間になってしまうので、決死の覚悟でインターホンを押した。  女性の朗らかな声で応答がある。 「お約束をしていた佐藤です」  人様の自宅を訪ねた時は苗字を名乗るものだと思うが、同じ事務所の人間だと苗字を言っても通じないらしい。黙り込んでいるインターホンの先に、慌てて言い直す。 「ユウと申します」 「失礼いたしました。伺っております。お入り下さい」  そう言ってしばらくすると、自動的に門が開いて行く。びくびくしながら足を進めると、その奥の玄関扉が開いて清潔なエプロン姿の素朴なご婦人が現れた。  何となく、この家のお手伝いさんの様な人なのだろうと思う。この家なら居ても不思議では無いと思う程、門を抜けて見えた家の本体は大きく立派だった。  モダンな四角い見た目で、とても格好がいい。ガレージや玄関のある面でも充分に広いが、奥に広くとっている様だ。  黒いキラキラした石で出来ている玄関で靴を脱ぎ、ふかふかとしたスリッパに履き替え、促されるままに廊下を進む。  Tシャツに短パンという出で立ちでやってきてしまった自分が急に恥ずかしくなり、居た堪れない。  何やらロマンティックな香りが玄関に満ちている、その中にチャリを飛ばした小僧が一人、居た堪れない。居た堪れない。居た堪れないのだ。  廊下の途中にある階段を降りて行くと、見慣れた風の金属製の白い扉がある。  そこが防音室である事がすぐにわかる。  自宅の地下に防音室とは、本格的にお金持ちだ。どんな素敵な紳士が出てくるのかと胸が高鳴る。少しのスケベ心もある、素敵紳士にドラムについて手取り足取り……  金属扉を開ける婦人について中に入ると、室内ではオペラか何かが流れていて、スピーカーの前にある一人がけのソファの肘置きから長いジーンズの脚と、艶々としたオニキスの様な黒髪が見える。 「坊っちゃん、お客さんがいらっしゃいましたよ」  ムクリと起き上がって背もたれから見えた顔は、想像を遥かに超える若さだった。坊っちゃんと言われているので、この家の主の息子だろうと想像する。目を細めて見つめられると、少し居心地が悪い。 「上に居ようと思ってたのに寝ちゃってた。忙しいのにすみません」 「とんでもない。それにしても、見慣れませんね」  頭を掻きむしる坊っちゃんに向けて、ふふふと笑ってから、ご婦人はお茶を用意しますねと言って出ていった。 「はじめまして、ユウと申します、今日はよろしくおねがいします」 「シンです。よろしくね」  アイロンのかけられたオックスの白いシャツにジーンズというラフながらきちんとした感じの身なりで、話し方はゆったりとしていて穏やかだ。  促されて壁際にあるテーブルセットに向かい合った。 「社長にアドバイスをもらってこいと言われてお邪魔しました」 「聴いてるけど、アドバイスって何言えばいいんだろうねぇ」  聴かれても困る。 「俺、人に教わった事が無いんです。見様見真似の限界の様な気が……部活以外でバンド組んだのも初めてだし……」 「俺も教えた事が無い。とりあえず叩いてみようよ」  防音室の中にはパールのドラムセットがある。 「お二人ともお茶位飲んでからになさいませ」  勢い良く二人で立ち上がった所で、ちょうど部屋に入ってきたお手伝いの女性に止められてすぐに座り直す。  華やかな紅茶の香りが立ち込めて、脳が落ち着いて思いの外緊張していた事に気が付く。日東紅茶愛飲者としては、良い香り過ぎて酔っぱらいそうで、本当に同じ紅茶なのか疑わしく思う。実家でたまーにお客様から頂く高級なお茶の味だ。  シンは柔らかそうな唇で薄いティーカップからお茶を啜る。卵の様な輪郭でスッキリとした丁寧な作りの顔だ。  純粋に美形だ。  社長の美形採用センスは最高に良いと思っている。  ユリさんの事も『あの美人姉ちゃん』と表現するので、美形基準が似ているのだ。 「シンさんはドラムを何年やってるんですか?」  黙ってお茶を飲むのは気が引けて訊ねてみる。 「何年だろうな、気付いたらやってたから少なく見積もって二十年位なのかな……もっとあるか……」  少なく見積もって俺の3倍以上だった。 「バンドはやってないんですか」 「社長は何も話してないんだね」 「昨日ちょっと二人とも酔ってて、話してたかもしれないけど何も聴いてなかったんです……」 「バンドはやってないよ。たまに呼ばれるとやるけど、JAZZバーとかでおっさん達と遊んでる位」  落ち着いて部屋の中を観察してみると、隅の方に小さな子ども用の、しかし質の良さそうなドラムセットやギターやベースが飾る様に置いてある。当然ながら大人用の楽器も、グランドピアノも並んでいる。  楽器に恵まれた幼少期を過ごしたのがよくわかる。音楽は殊更に環境が現れる様に思われて、羨ましくなる。  一杯のお茶を飲み干した所で、ドラムセットへ向かう。 「いつもやってる基礎練習を見せてよ」  シングル、ダブル、チェンジアップ等……ウォーミングアップとしても、持っている基礎の教本にも、ネットで調べても載っている事をそのままやっていく。自宅でもパットを使って出来る物ばかり。残念ながらまだ電子ドラムは手に入れていない。 「次は自分のバンドで叩いてるやつ」  真面目な顔で観察され、少し緊張する。 「うん、君は相当真面目なんだね。とりあえず椅子低くないかな、んで近い気がする、君の腕と脚は自分で思ってるより長いと思うよ。あと、ラジオ体操やろう」  シンはピアノの蓋を開けて弾き始めてしまった。  ちゃんちゃららちゃんちゃららちゃちゃちゃちゃちゃちゃ……  この音を聴くと日本人なら身体が勝手に動くように、幼少期に洗脳教育されるラジオ体操である。スタッカートが軽やかに美しい……凄い才能だ……  第二まで終えても終わらず、噂に聴いただけの第三が始まる。 「流石に、第三は出来ませんよ」  慌てて静止する。 「第三はドラマーには必須科目だぞ〜」  そして、わざわざパソコンを起動させて第三を始めてしまった。初見なりに頑張ったが、全くついていけない。確かに腕の体操がメインで複雑に肩周りを動かす。 「ドラムは肩と腕の緊張は大敵だと思うんだよね」  シンは普段からやっているのか、完璧にこなしていく。通しでやると結構体力を使ってスッキリする事がわかった。  そして、言われるがままにセッティングを変えてもう一度叩いてみる。打ちにくい。力が入らない。途方にくれる。 「ちょい変わって」  シンがドラムを叩くと少し怖かった。  叩く度に綺麗にスティックの残像が見える。  その直後に部屋の空気全てを振動させて音が聴こえてきて、産毛という産毛を揺らす。  人間は音という振動を全身で聴いている事を確信した。  生で聴いてみると、ドラムは凄い楽器だ。  その一言に尽きる。  しかし、当のシンの雰囲気は緩い。 「わかったかな」 「わからん。です」 「ですよね……君は打てば打つほど力むんだね、一度出してしまった音を気にし過ぎるのかもしれない。それだとズレていくんじゃないかな。昔、ドラムってわざわざ妙に力が入りにくい様なセッティングをするんだなあと思ったことがあったんだ。それが今しっくり来た」 「力み過ぎの自覚はあります……」 「跳ねっ返るままにほったらかして次々やっていく。そうじゃないと間に合わない」  指摘された事を考えて、なるべく弱くスネアだけを叩いてみるが、弱々しくなっただけだった。 「よし、そんなわけで一緒にピアノをひこう」  また唐突にグランドピアノに向かってしまった。  シンはかなりのマイペースだ。 「ピアノの中は弦なんだけど、中にハンマーがあって本当は打楽器なんだ。そして、音が指先の力だけで繊細に変化する、とっても人間に対して忠誠心のある素直で気難しい楽器だと思うんだ。俺はこういう乗りこなした時にこそ美しい物って大好きなんだよね。そして打てば響く単純さは可愛らしい」  本当はピアノの方が好きなのかと思う程ピアノを褒めちぎっている。その言い方にはピアノに対する深い敬意を感じる。  そして忠誠心は大切な事だと、同意するように深く頷く。  この人は、ユリさんと気が合いそうだ、と、邪な事を考えて顔がにやにやしてしまう。 「よく映画で見るやつをやろう。連弾」  それは恋人ならロマンティックに、大人と子どもならじんわり温かくなる定番のシーン。同じ椅子に男二人がぎゅうぎゅうに座り、適当に鍵盤を軽く押すと、シンが美しい音を出してくれる。 「跳ねっ返りを指先と耳で感じて。強すぎると音がへそを曲げる。へそを曲げてるのも可愛いけどね……」  柔らかくて深い、尊い想い出みたいな音だ。  ピアノの音をまず知る為の様に端から一つ一つとリズムを変えずに押していく、それに合わせてシンがメロディを作っていく、総ての鍵盤を押した所で、気に入った音でリズムを刻む、身体が絡まったりしながら、リズムとメロディ、単音と和音が混ざる。  気を抜くと鋭い音になったり籠もった音になる、低い音と高い音で打ち方が違う、シンのメロディに喰われる時がある、喰われたら喰い返してみようと思うとまた喰い替えされる。  意地悪だなぁとシンを見ると涼しい顔で顎を上げて見下されて、意地になる。  指10本は使えないが、頭の中で和音は覚えたので、和音で攻撃すると、シンは嬉しそうに笑って動きが激しくなる、負けない。  音は途方もないものだ。    どの位遊んでいたのか、二人が揃って終わりに向かうとき、最大の盛り上がりの為に、何が何でも打ってとにかく音を出して、そして、終わってしまう。  寂しい。  演奏の終わりはとても寂しい。  泣きそうになる程寂しい。  けど、気持ちが良い。  椅子から転がり落ちて床に寝そべる。  今まで使ったことの無い筋肉が痛い。  上から覗き込まれて急に恥ずかしくなり、Tシャツを捲り上げて顔を隠した。 「わかった事があります。音が飲まれても飲み返せば良い、メンバーにもっと来いって言われるのは、もっと自分が気持ち良くなろうとしていいって事だったのかもしれない。皆俺より経験あるし、上手いから、多分大丈夫」  返事が無いので、どんな顔をしているのか不安になって、Tシャツを下げてみる。  柔らかい笑顔で、明らかに良い反応で、嬉しくなって飛び付きたくなるのを我慢して、ゴロゴロと転がった。  この感覚は、褒められるとか許されるとか、そういう報酬の類ではなくて、共感された喜びだ。  褒められて嬉しいのではなくて、同じ感性である事を知れたのが嬉しい。  ユリに褒められて嬉しいのも同じだ。    

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