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特にする事もないまま、夜中まで起きていた。
眠れなかった、と言ったほうが正しいかも知れない。梅雨入りしたばかりの時期で、雨の中どこへ行く気にもなれず、休みの日でも一日中家にいた。体力と時間を、持てあましていたのだ。低気圧のせいか、昔ひびが入った肋骨が少しだけ痛かった。
テレビを観ても似たりよったりの深夜バラエティーばかりで、仕方なく、ザッピング中に見つけた古い映画を観ていた。何十年と昔の、ゴールデンタイムに流しても視聴率の取れなさそうな内容の洋画だ。
電気も点けず、暗い部屋の方が、暗いシーンがよく見えた。窓の外には雨の音と、たまに車がマンションの前の道路を走り抜ける音が聞こえていた。
飲んでいた缶ビールが空になり、冷蔵庫に行こうと立ち上がった。コマーシャルまで待てなかった。
その時、インターホンが鳴った。
暗い部屋で、自分以外に誰もいない中に突然響くような音。心臓が止まるかと思ったし、怖かった。常識的に考えて、他人を訪ねてくる時間ではないからだ。全身が熱くなり、呼吸が早くなる。すぐには対応できなかった。
隣の人が苦情を入れに来るほどではないはずだが、ひとまずゆっくり屈んで、リモコンでテレビの音量を下げた。雨の音が大きくなる。
もし騒音の苦情なら手遅れなのに、息を殺して、就寝中を装う。玄関の方を見る。
また、インターホンが鳴った。
酔っ払って帰ってきた、同じ階の住人が部屋を間違えているのかも知れない。あるいは頭がおかしい人かも知れない。もしかしたらずっと昔に、この部屋に住んでいた人を殺した犯罪者で、また襲いに来たのかも知れない。
二十八歳。ひとり暮らしの会社員男性。勤務態度は真面目で、他人と争うような性格には見えない。同じマンションの住人とは、すれ違ったら挨拶をする程度。定期的に訪ねてくるような友人も、恋人も居ない。ペットも飼っていない。
もし、そんな俺が殺されていたら、いつ誰が見つけてくれるんだろう。
色々な可能性を考える。ますます応対したくなくなる。
けれど、この部屋には自分しか居ない。インターホンを無視して、寝たふりや、居留守を続けられる気はしない。
朝になって、家から出ようとした時にまだ待っていた誰かに襲われたらどうしよう。今にも扉を拳でドンドン叩かれて、大声で叫ばれたらどうしよう。
不安な想像というのはどんどん膨らみ、広がるもので、それを無くすためにも、ドアスコープから外を確認する必要があった。いざとなったら、通報する。
スマートフォンを握って、裸足のまま、フローリングの廊下をなるべく足音を殺して歩く。三和土のサンダルを踏み、ドアが動かないよう壁に手を突いてスコープを覗いた。
元彼がいた。
全身びしょ濡れで、心細そうな顔で立っていた。
どうしたらいいか分からなくなった。さっきとは別の感情で、心臓が痛いほどに激しく鳴る。思わずドアに背中を向けた。ずり落ちてきた眼鏡を上げる。
「なんで……」
一人、呟いてしまう。顔も体も熱くなっていた。信じられなかった。
二年前に別れた、正確にはフられた相手だ。彼が俺を訪ねてくる理由が見つからない。しかもこんな時間に、雨の中を、傘もささずに。
居留守を使う事はできなくなった。
だけど、今すぐ出るのも少し躊躇う。横になっていたから髪型も変な形だし、服装だってくたびれたTシャツと、ゴムの緩くなってきたパンツだ。
せめてもの抵抗として、急いで部屋に戻ってジャージの下を穿き、少しでもマシなTシャツに着替えた。スマートフォンはローテーブルに置いておく。
またインターホンが鳴る。髪を手櫛で整えながら、慌てて迎えに出た。
扉を開けると、鉄骨マンションの廊下に滞った冷たい空気と湿気った匂いがした。
「杏介 、だよね?」
二年ぶりとは言え、元彼を見間違えるはずがない。変わったのは髪色くらいだ。ましてやこの家に俺が住んでいる事を分かって、訪ねてくる相手なんて限られてくる。
でもそれ以外に言葉が見つからなかった。
「ど、どうしたの……」
声が震えて、詰まってしまう。
杏介は、濡れて貼り付いた前髪の隙間から見てきた。色素の薄い茶色の瞳や長い睫毛まで濡れていて、泣いているみたいに見えた。
「……風呂貸して」
小さめの唇が動いて、確かにそう言った。
風呂掃除を、普段からきちんとしておけば良かったと思った。
一人暮らしだから毎日、シャワーで済ませてしまっている。たまに湯船に浸かろうとしても、単身者向けの狭い風呂ではリラックスするのもなかなか難しいものだ。結局はすぐに上がってしまうのも、もったいない気がしていた。
でも寒いだろうし、杏介には湯を張りながら入ってもらう事にした。玄関から浴室まではすぐだ。
浴室に入ってから服を脱いでもらい、ドアを少しだけ開けて受け取った。裸は見ないようにする。
服はぐっしょりと重くなって冷たかった。そのまま洗濯機に入れて、一旦リビングに戻り、外に着て行けるようなきれいなTシャツと、持っている中で一番新しいスウェットを用意する。バスタオルも綺麗にたたんだ。
持っていくと、湯を張る水流の音が止まっていた。浴室の薄い扉越しに、中に向かって声をかける。
「タオルと着替え、置いとくから使って」
サイズがほとんど同じだから、付き合っていた時も不便はしなかった。
「あと、服、勝手に洗濯しちゃうね。乾燥機もあるから」
そう声をかけても、返事が無かった。シャワーの音もしない。
「大丈夫?」
「……うん」
ようやく声が響いた。
「あの、ゆっくりして良いからね。どうせ俺も眠れなかったし、明日休みだし」
なるべく気を遣わせないように言って、リビングに戻ろうとした。
「桃哉 」
浴室の中から呼びかけられ、足を止めて振り向く。
「何?」
「……いて欲しい」
耳を疑った。
「えっ……ここに?」
聞き返すと、
「うん。入らないで、いいから……」
低い声がまた反響する。
杏介は四歳下だが、あまり年下らしい態度は取って来なかった。俺が頼りないせいなのか、甘えられたり、頼られたりした記憶もほとんどなかったので驚いてしまった。
浴室のドアに凭れるように、背中を向けて座る。
「ここでいい?」
「うん」
オレンジの光に照らされた自分の影を見る。まだ、髪型の癖が直らない。顔を触ると、髭も伸びている。濃い体質でもないから、毎日やると肌を傷めると聞いてから、週末には剃らなくなった。
こんな事が起こるなら、普段からきちんとしておけば良かった。
杏介が上がってくる前に、リビングの掃除もしたくなる。髪の毛や下の毛が落ちているかも知れないと思うと、電気を点けたくなかった。
梅雨になってから窓もあまり開けていないし、空気がよどんでいるかも知れない。自分の家のにおいはなかなか自分では分からない。
せっかく訪ねてきた相手をもてなせるほど、冷蔵庫の中身も充実していない。出せるのはビールとつまみくらいで、杏介が好きだった物は久しく買っていない。
「お腹すいてる? 何か、買ってこようか」
「いい。そこに居ろって言ったじゃん」
杏介が少し強めに言った。
座り直して、何とか間をもたせようと話題を探す。
「あ、そのシャンプー、女物だけど、そういうんじゃなくて……福引の景品で貰ったやつでさ」
「…………」
「そこのスーパーなんだけど、普通に買い物してるだけでも券配ってるみたいでさ。貰ったらやらなきゃ損な気がするんだよね」
ぎこちなくなっているのが分かる。杏介の返事も待たずに、喋り続ける。
「どうせ売れ残った在庫処分のためでしょ。別に使わなくても良いんだけど……ほら、もったいないから」
言い訳をするようになっていた。自分から好きでそんな商品を使っているわけじゃない。そんな奴だと思われたくない。杏介には、ちょっとでもよく思われたい。
だけど今度は、ケチケチしてみすぼらしく思われてしまうんじゃないかと気になってくる。
「最近梅雨入りしたでしょ。雨ばっかりでさ、シャンプーのためだけに買い出しとか面倒で──」
「もういーよ、桃哉」
杏介が少し大きな声で止めてきた。うんざりしたような態度だ。
「分かってるから……余計な気、遣わなくて」
また失敗した、と思った。
結局何をする事もできず、杏介が体を流して上がるまで、そこに座っていた。
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