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「なんも聞かないの」
二人でテレビを見ていると、タオルを肩にかけた杏介が突然聞いてきた。
相変わらず電気は点けていない。雨もまだ降っている。チャンネルは深夜バラエティーが好きだった杏介のために、映画から替えていた。
「えっ?」
ビールを持ったまま聞き返す。
「自分にヒドい事した元彼が夜中にいきなり来て、風呂貸してくれって……なんも思わないの? なに、普通に対応してんの?」
風呂上がりでさっぱりした杏介は、少し責めるように言ってくる。さっき気を遣って話しているのかバレてから、何だか気まずくて黙っていた。
「話したいことあるなら聞くよ」
そう答えると、杏介はあぐらをかいたまま頭を抱えた。
「付き合ってた時からそうだよなぁ……やっぱりそういう感じだよなぁ、お前は……」
俺に言っているのか、独り言なのか分からない風で言われ、返す言葉がない。
それから杏介は足を投げ出すように伸ばし、手を後ろに突いて、天井を見上げる。
「ケンカしたの。翠 と」
「そうなんだ」
「追い出されたワケじゃないから。自分から出てきた」
「そっか……大変だね」
何と声をかけたものか分からなくて、へらへら笑いながら曖昧に繰り返してしまう。
「付き合ってて喧嘩すると、特に一緒に住んでたりなんかすると、大変だよね。こういう時」
杏介が睨んできた。何か失言したのかも知れない。
「だから、聞かねーの?」
「何を?」
「ケンカの原因とかさ。いつから一緒に住んでるのか、とかさ」
「それって俺が聞くようなこと? 二人の問題なのに、首突っ込むなんて変だよ」
首を傾げると、杏介はさらに頭を搔いて、髪をぐちゃぐちゃにしてしまう。けれどオレンジがかったサラサラの毛は、すぐに元の形に収まる。
「なんつーかさ、お前のその……全部受け入れちゃうトコが怖いんだよ、オレ」
「はあ」
としか、返事ができなかった。
杏介が俺を怖がっているなんて予想外だ。わざと怒らせたり、怖がらせたりしようと思ってやっているつもりはもちろんない。単純に、相手がそうして欲しいと思っているだろうから、しているだけだ。
「オレのこと何にも聞かねーじゃん、マジで」
「いちいち聞かれたくない事もあるでしょ? 人間って。ただ誰かと居たいとかかも知れないじゃん」
杏介がわざとらしくため息を吐いた。膝を立てて、頬杖を突くように頭を支える。何をイライラしているのか分からない。
「確かに……オレに興味ねぇのかよって、フられた事もあるけど」
慌てて付け足した。
「そいつ分かってねーな、桃哉の良さ」
杏介が、手で口元を隠してぽつりと言った。それだけで照れてしまう。嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちだ。
「お前のその優しさにつけ込んでるオレもサイテーだけどさ」
「杏介はサイテーじゃないよ。誰かに言われたの?」
これは杏介の問題だから気になる。杏介がサイテー呼ばわりされるのは、俺も嫌だ。
「誰とかじゃなくて、世間的にっつーか……ああ、もういい!」
バラエティーも終わってしまい、通販番組が始まっていた。杏介は黙って画面を見つめている。ダイエット製品に興味が無い事くらい、二年前から体型が変わっていないのを見れば分かる。
「……何でうちに来たの?」
ようやく絞り出せた質問だった。
「いや、俺は嬉しいよ。こういう時に頼ってくれて……」
怒るなら他の人のところに行けば良かったのに、とは言わなかった。こんな相手でも頼らなきゃいけないくらい、切羽詰まっているのだ。
「友達に戻れる? 元彼としてじゃなくてさ、普通に、困ってる事があれば……」
「お前、何でそんな良い奴なの」
杏介が不意に、俺を見て言った。
「何で優しくしてくれんの。オレがお前に何したか覚えてねーの?」
「別に優しくないよ。これが普通」
不思議に思いながら言い返した。知り合いが困っているのだから、自分が協力できる事はするのが当然だ。そんなの、小学校で習う事なのに。
「そんなだから別れたのに、気になる……心配になるんだよ! お前のことが!」
大きな声を出されて、固まってしまう。肩が跳ねて、喉がすぼまる。
「変なヤツに捕まってねーかなとか、ヒモに寄生されねーかなとか……」
「そんな、心配しなくても大丈夫だよ」
無理やり笑顔を作った。引き攣っているかも知れないが、こうしていないと杏介にまた心配をかける。
「俺、そんなにモテる方じゃないし。杏介の方が優しいよね」
「優しくねーよ!」
怒鳴って、胸倉を掴んできた。殴られると思って、眼鏡を外した。この距離でなら裸眼でも表情が見える。
杏介の眉間から力が抜けた。
「お前ホント、バカじゃねーの……」
少し裏返った声で言われる。怒りを通り越して呆れてしまったようだった。
手を離し、投げ捨てるようにされた。顔を背けてしまった杏介が小さく続ける。
「朝には出ていくから」
俺は座り直して、持っていた眼鏡をかけ直す。
「そうだね、その方がいい。翠さんも心配する。こんなんでも、一応、元彼だし……」
「……お前が翠に気遣ってんじゃねーよ」
かすれた声で言われ、
「ごめん」
また反射的に謝っていた。
確かに、杏介の目の前にいる俺が杏介以外の人の心配をしているのは、嫌かも知れない。お門違いかも知れない。翠さんは杏介の彼氏で、俺にとっては赤の他人だ。
「じゃあ、好きなだけ居ていいよ」
俺が気にかけるべきなのは杏介の方なのだ。
「平日は仕事だけどさ、朝起こしちゃうかも知れないけど、すぐ二度寝すればいいし。服も好きなの着て。何でも、杏介のやりやすいようにして」
別れてからしばらく経っていて、彼の好きなチューハイも、朝に食べる食パンも置いていない。明日、杏介より早く起きて買ってくればいい。梅雨入りしたばかりで雨続きだろうと、買い出しならできる。
自分の事となると億劫で憂鬱なのに、誰かの為なら結構できてしまえるものだ。
「冷蔵庫にあるものも、期限切れてないか確認してから──」
「そうじゃねーって言ってんだろ」
杏介はまだ不機嫌なままだ。優しい時は優しいけれど、こういう時の杏介は俺のやる事なす事全部が気に入らないみたいだった。
「分かんないよ。これ以上、これ以外……どうしたらいいの、俺」
思わず聞いてしまった。どうすれば杏介に気に入ってもらえるのか、まったく分からなかった。
付き合っていた頃もそんな時があったと思い出す。俺は何かと杏介の機嫌を損ねてばかりだった。良かれと思ってしている行動が裏目に出て、彼をイラつかせてしまうのだ。
「桃哉が決めろよ。お前の家なんだぞ」
そう言われてますます困ってしまう。
確かに俺の家だ。けれど俺がどうしたいかなんて、杏介にとってはどうでもいいはずなのに。
分からない。杏介が訪ねて来たんだから、杏介のことなんだから、杏介が決めればいいのに。
「今すぐって言うなら出ていくし……もし月曜までって言うなら、それまで居させてもらうし」
あーもうなに言ってんだオレ、とまた頭を抱えてしまう。何か言わないと。相手がなるべく嫌な思いをしないようなことを。気を遣わせずに済むことを。
黙り込むと、雨の音が聞こえた。
「……じゃあ、雨が止むまで」
「梅雨入りしたばっかだろうが……」
彼の機嫌は、もう俺にはどうにもしてあげられそうになかった。
二人して床に座り直した時、なぜか俺は正座になっていた。杏介がまたビールを飲み始めたので、タイミングを見計らい、腰を浮かす。
「あ、お客さん用の布団、敷くね。歯ブラシも新しいの出すから、くつろいでて……」
立ち上がろうとしたところでTシャツを引っ張られた。バランスを崩して、杏介に寄りかかるように倒れてしまう。
瞬間、杏介の手にあるビールがこぼれていないか気になった。
「わっ、ごめ──」
ひとまず謝ろうとしたが、できなかった。杏介にキスされていた。
最初は間の悪い場所にぶつかってしまったのかと思ったが、杏介は明らかにわざと俺にキスして来ていた。
「待って、ごめん、今の事故!」
慌てて大声で言い、体を離して立ち上がろうとする。無かった事にしてほしかった。俺が悪いから。
別れただけならまだしも、杏介にはもう新しい彼氏が居る。翠さんに申し訳なくなる。
だが杏介は俺の肩に手をかけて、強く引き寄せてきた。
「事故なもんか」
まっすぐに俺を見る杏介の眼に、テレビの光が透ける。付き合っていた時から、もっと言えば初めて見た時から、この目が印象的で好きだった。
「でも……」
俺は情けなくおろおろするばかりで、言葉が出せない。杏介が抱き締めてくる。首の後ろを掴むようにして、もう一度キスされる。
一瞬だけ顔を離し、さっと眼鏡を取り払われた。さっきよりも全身が熱く、心臓が早くなる。唇が痺れる。彼がその気なのが伝わってきたから。
「こんなの、翠さんに悪いよ……」
胸を押して遠ざけようとした。
杏介は離してくれない。
「オレたち二人の問題じゃん。桃哉には関係ねーんだろ」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
説得したいのに、まるで意味のある会話ができなかった。俺は迫られると弱い。それを、彼はよく知っている。
「いいから」
言いくるめられて、またキスをされてしまう。今度は乱暴に投げ捨てるんじゃなく優しく押し倒されて、もう言い返せなかった。
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