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「あの時もこんな風だったんだろ」
杏介が言ってきた。聞こえなくなっていた点けっぱなしのテレビの音と雨の音が少しだけ存在感を取り戻した。
「えっ?」
あの時、というのが何を指しているのか、一瞬考えて思いつく。
付き合っていた時に、俺が彼以外の相手と寝た時のことを言っているのだ。
「……それは謝ったでしょ、何で蒸し返すの」
途端に怒られた気分になってしまう。うっとりしていたのも台無しになる。
「ちょっと迫られたら弱いもんな。変わってなさすぎ……」
「い、今は杏介と付き合ってないから関係ない、だろ!」
体を起こし、強めに言い返す。この状況で杏介に言われる筋合いはないと、心の底から思う。
自分が馬鹿だった時のことは、誰しも思い出したくないものだ。そのせいで大切な人を傷付けてしまったり、関係を壊してしまったりしたなら尚さら。
あれは付き合い始めて間もない頃だった。
今なら杏介の言うことも理解できるのだが、当初は、何を怒られているのか分からなかった。
自分と寝たいと思ってくれる人が居て、それが例えば俺から見ても魅力的な体つきをした男の人で、そんな相手と寝て何がいけないのか。もちろん合意の上だし、何かが減るもんじゃないし、誰かに迷惑がかかるわけでもない。
それに、断ってしまう事で相手のプライドを傷付けたくなかったし、嫌われたくなかった。俺には俺なりの理由があった。
俺の家に来ていた杏介にそう伝えた途端に、手が飛んできた。最初に食らったのは平手打ちだ。耳が詰まったようになって、内側で耳鳴りがした。
「桃哉って、クズだったんだな」
そう言った杏介の綺麗な目の雰囲気が、いつもと変わったのが分かった。痛みよりもその恐怖があった。
「それを浮気って言うんだよ!」
服を掴んで立たされ、後ろに叩き付けられた。驚いたのと背中への衝撃に、息ができなくなった。そこにあったのはベランダに出るガラス扉で、針金入りのガラスが震えていた。
胸倉をねじ上げられたまま距離を詰められて、今度は鳩尾に膝を入れられた。呼吸が止まった。視界の端がチカチカした。扉の鍵が背中にくい込んで痛かった。
そんな露骨な暴力を受けたのは学生時代以来で、元々他人との争いを避けて生きてきた俺は、なす術 もなく殴られていた。
社会人になったばかりの、少し前まで大学生だった彼にとっては、珍しい事ではないのかも知れない。そう思っていた。
初めてインターネットを介して知り合った相手で、杏介がどんな感覚を持っているか、俺は把握し切れていなかった。浮気の基準も、男同士で付き合う事に対しての理解度みたいなものも、かなり違っていたのだ。
それ以来、時々殴られるようになった。眼鏡を外すようになったのはその時の癖だ。二年経った今でも反射的にそうしていた。
誰にでも良い顔をしようとしているのがムカつく、付き合っている意味が分からないと言って、顔や腹を殴られたり、背中やわき腹を蹴られたりもした。
殴られるのも、蹴られるのも、好きではなかった。当たり前だ。人間なんだから、動物なんだから、痛いのは嫌だ。怒られる度に一応反省はするのに、何度も同じ事をやってしまった。
寝るまでには至らなくても、杏介以外の相手と一緒に出掛けたり、飲みに行ったりしたその後に、友達以上の関係を持ってしまった。
別にそれは、モテていたワケではなかった。
もし相手にそれほど魅力を感じなくても、俺は意思が弱く、押されると断れないところがあった。流されるままに自分を押し殺してしまう事もある。
恋愛的な意味を抜きにしても、一人でも多くの人から、好意的に思ってもらいたいから。どんな関係性であれ、自分と接してくれる相手は、嫌な気持ちにさせたくない。それは自然な事だと思う。その流れで、そうなってしまっただけなのだ。
杏介の基準からすればそんな俺が悪い。当然だ。そう分かっていたから、止めさせなかった。やり返そうとも思わなかった。
気が済むまで暴力を振るって、それで許してくれるなら、別れずにいられるならそれで良かった。
優しい彼がイライラして、腹を立てているのは俺のせいなのだ。俺が分別のない、自分で考えると間違った行動に出てしまうくせに、それを止められない馬鹿だから。
もちろん普通の関係でない事は分かっていた。家庭内、配偶者間暴力というDV被害のニュースもよくやっていた。
でも、配偶者でもないし、自分に限ってそんなはずがない。むしろ、どちらかと言えばこんな俺と付き合っている杏介の方が被害者だろう、と思っていた。
ある時、蹴られた痛みが何日も引かず病院に行った。肋骨にひびが入っていた。もちろん男と付き合っていて、その彼氏に蹴られました、なんて言えないから、病院に行くまでに用意していた嘘の理由を伝えた。
家に帰ると杏介が待っていて、診察結果を伝えると、さすがにやり過ぎたと謝って、抱き締めてくれた。頭を撫でてくれた。
そんな風に、自分が悪い事をしたと思ったら謝ってくれたし、筋力のある男同士なんだから、少し力が入ってしまう事もあるだろう。
杏介に悪気はまったくないのだ。俺を傷付けたくてやっているワケじゃない、大切に思ってくれているのだと改めて実感した。
治るまでの期間は、俺の家の物なのに買い出しを手伝いに来てくれたり、湿布を貼ってくれたり、すごく優しくしてくれた。暴力も振るわれなかった。
事情を知った共通の友人から別れるように言われても、俺が杏介をフる事はありえなかった。
杏介は悪くないのだ。おかしいのは俺の方なのに、どうして周りは俺を被害者扱いして、心配して、別れさせようとしてくるのかが理解できなかった。
だから、杏介に好きな人ができればいいのにと願った。
俺だって杏介のことは好きだが、俺といると彼が悪者になってしまう。なら、早く俺をフッてくれれば、彼が悪者扱いされずに済むのに。そう思うようになっていた。
結局、杏介が翠さんと出会って、付き合って、俺をフるまでその関係は続いた。
雨の日は今でも、肋骨が痛む時がある。その度に、俺は心のどこかで、杏介を思い出していたのだ。
「……それもそうだな」
二年ぶりに俺の前に現れた彼はそう言って、俺の服を脱がせ始めた。
雨の夜は気温が低く、裸になると少しだけ肌寒い気がした。
布団に仰向けになった杏介に手を添えて跨りながら、ついつい言い訳をしてしまう。
「久しぶりだから、ちゃんとできないかも……」
杏介が見上げてくる。ゆっくりと、硬くなった杏介が入ってくる感触がある。恥ずかしかった。彼が来てから、実はこっそりと、こんな展開になる事を期待していたのを、見透かされそうで。繋がった部分から伝わってしまいそうで。
もちろん、困っているようだったから助けになりたかったのは嘘ではない。けれど一回でも肉体関係を持った相手から、風呂を貸してほしい、なんて言われたら、それだけで済むはずがないのは想像がつく。
事情を聞いて、頼る相手が他に居なかったと言うより、わざわざ俺のことを気にかけて、今の様子を見がてら、選んでくれたのだと分かった。今だけは翠さんという恋人のことを考えず、俺と寝たいと思ってくれている。
それもこれもすべて込みで、俺は杏介を受け入れた。と言うより、抱いてほしかったのだ。
自分がクズなのは理解している。でも誰かに好かれたければ、誰かに嫌われても仕方がないとも、分かってきた。
翠さんほど遠い人にまで好かれなくていい。良い人のふりをしなくていい。
ひとまず今は、目の前にいる杏介に好かれたい。何でも言うことを聞いて、不快にさせたくない。今の俺にできる、めいっぱいの事で気持ちよくなってほしい。
「気持ちよくなくなってたら、ごめん」
「なんで謝んだよ……」
少しだけ怒ったように言いながら、手を伸ばしてくる。腰に添えられる手が温かかった。手首を伝って腕を触る。二年もすれば懐かしいと感じて当然だ。運動部だった名残の、しっかりとした感触は変わっていない。
杏介と別れてからも何人かと寝たものの、その中の誰かと恋人にはなっていない。なろうとも思わなかったから、いわゆる体目当てでも、なんでも良かった。
恋人にしたいほどでなくても、体は気になる。どんな具合か試したい。どんな反応をするのか見てみたい。そんなのは、人と関わっていればよくある事だ。
自分の持っている何かが他人にとって魅力的に映るなら、求められているなら、応えた方がいい。自分も相手も良い気分になれる。だから寝るだけなのに。たとえ迫られるのに弱いのが事実だろうと、杏介を含め、人からとやかく言われる筋合いはない。
杏介の顔の両脇に手を突いて、少しずつ腰を揺らす。痛みはない。わざと背を反らせ、尻の方を見ているようにした。自分が気持ちいいかどうかより、相手からどう見えているかのほうがよっぽど気になってしまう。
「桃哉」
呼ばれて振り向くと、目が合った。贔屓目でなくともかっこいい部類に入るであろう顔と、まっすぐに見つめ合うのは恥ずかしい。つい、俯いてしまう。
「大丈夫だって」
杏介が言ってくる。
「ちゃんと、気持ちいいから」
その言葉に胸がいっぱいになってしまう。
「うん……」
短く返事をするのがやっとだった。動きを大きくする一方で、ますます顔を見られなくなる。テレビの明かりでも分かるほど自分が赤くなっている気がした。
俺が心配しなくても済むように、そんな言葉をかけてくれる相手は杏介以外居なかった。
本当の杏介は、普段の杏介は、こんなにも優しいのだ。それが証拠に、今日はまだ一度も殴られていない。
久しぶりで懐かしいのに、過去を知っているからか、おかしな感じだった。まさか自分の方が、浮気相手になるなんて思ってもみなかった。
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