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第9話 2023年 東京
金曜日の夕方、葵は重い足取りでバイト先のライブハウス『ドラゴン』へ向かっていた。数日前、勢いで店長の龍二に告白してしまったことが頭から離れず、彼と顔を合わせることが気まずく感じていたのだ。
しかし、店の近くに差し掛かると、葵はいつもとは違う異様な雰囲気に気づいた。店の前には、鋭い目つきをしたスーツ姿の男が二人立っており、普段は滅多に姿を見せない店のオーナーの斉藤さんが彼らと何か話していた。斉藤さんは60代くらいの白髪混じりの男性で、下北沢でいくつかのライブハウスやカフェを経営しているが、『ドラゴン』の運営は店長である龍二に一任しており、自ら店に顔を出すことは滅多にない。
「斉藤さん!」
葵が声をかけると、斉藤さんは困惑した表情から、わずかに安堵の色を浮かべて葵を振り返った。
「葵くん…大変なんだよ!岩田くんが失踪した。それで警察の方が来ていてさ…それに、彼は本当は岩田龍二じゃなかったらしいんだ。僕にも全然訳がわからないんだよ…」
「はあっ?!」
葵は思わず声を上げた。混乱と驚きが交じり合った感情が、彼の表情にありありと現れていた。
「橘葵さんですね。私たちは警察です。少しお話を伺いたいのですが、よろしいですか?」
スーツ姿の男たちの一人、若く背の高い短髪の男が、ポケットから警察手帳を取り出して見せた。もう一人は中年の小太りな男で、どちらも厳しい眼差しを葵に向けていた。若い刑事の言葉は丁寧だったが、その声には圧倒的な威圧感が漂っていた。
「はい…一体何があったんですか?龍二さんは…どこに行ったんですか?」
葵は戸惑いながら尋ねた。
「この店の店長だった岩田龍二と名乗る男は、どうやら岩田龍二ではないようです。」
「それは…どういう意味ですか?」
「岩田龍二という人物は、10年前に何者かに殺害されており、昨日青森県M市でその遺体が発見されました。」
「は?!何言ってるんですか…?」
中年の刑事が、スーツのポケットから一枚の写真を取り出して見せた。それには、目つきが悪く、まるでチンピラのような風貌の若い男が写っていた。葵が知る龍二とは似ても似つかない姿だった。
「これが本当の岩田龍二だ」
「な、なんだって…?」
さらに中年の刑事はもう一枚の写真を取り出し、葵に見せた。それはライブで歌っている龍二の写真だった。
「君がよく知っている彼は、岩田龍二殺しの容疑者だ。しかし、彼の本当の名前も素性も全く分かっていない。唯一わかっているのは、年齢が40歳前後であること、そして背中にドラゴンのタトゥーが入っていることだけだ。だから、我々は彼を便宜上『ドラゴンタトゥーの男』と呼んでいる。昔そんな名前の映画があったがな。あれはドラゴンタトゥーの女だったか」
「ドラゴンのタトゥー…。」
葵は息を飲んだ。誰よりも彼が龍二の背中にそのタトゥーがあることを知っていた。龍二はいつも、Tシャツなどで背中を隠していたからだ。
「とりあえず我々と一緒に署に来てくれないか。君の知っていることを教えてほしい。」
「……。」
葵は二人の刑事と共にパトカーで警察署に向かった。ひどく落ち着かない心持ちだった。
取調べ室のような個室に案内されると、中年の刑事がボイスレコーダーを机の上に置いて言った。
「私は捜査一課の熊沢、こちらが高畑です。申し訳ないが、会話を録音させてもらうよ」
「俺が知っていることはほとんどないです。たまたまここを通りかかって、バイト募集の張り紙を見て4月から働き始めました。5年前に亡くなった奥さんがいるってことと、10歳の息子さんがいることくらいしか知りません…。」
「そうか…その妻というのが、本物の岩田龍二の妻で、岩田小百合という女性だ。息子は殺された岩田龍二と小百合の子供で岩田アキラ。小百合は医師で、青森県M市で小さな診療所を開いていた。今年に入ってその診療所の跡地にマンションが建つことになり、地盤調査の際に診療所の庭から龍二の遺体が見つかった。ドラゴンタトゥーの男は、小百合をめぐる痴情のもつれから岩田龍二を殺害し遺棄した後、小百合を連れて東京に来た。そして、彼は岩田龍二になりすまして10年間を過ごしてきたんだ」
「龍二さんが人を殺すなんて、そんな訳ないです!」
葵はその話を聞いていられず、大声で遮った。
(龍二さんが小百合さんの旦那さんを殺して、遺体を捨てた?そんなことがあるわけない!彼はそんな人じゃない!)
高畑という名前の若い刑事が冷ややかに言った。
「君はこの3ヶ月間の彼しか知らないだろう?奴はヤク中だったことも分かっている。半グレかチンピラの類さ。とにかく、奴は死体の発見を知って、すぐに逃げ出した。10年も一緒に暮らした息子を置いてな。」
葵はその言葉にハッと気づいた。
「そうだ!アキラくんはどうしてるんですか?彼はどうなるんですか?」
「今は家にいて、警察が見守っているが、これからのことは未定だ。アキラは東京で児童養護施設に入るか、青森に住む小百合の祖母の元に行くかだろう。」
「そんな…。」
(アキラくんは、龍二さんの本当の子供じゃなかった…?あんなに仲の良い親子だったのに…アキラくんはもうこの話を聞いてしまったんだろうか。)
「アキラくんに会わせてくれませんか?俺、一度彼と話がしたいんです。まだ10歳なんですよ…。」
熊沢刑事はしばらく考え込んでから、ゆっくりと頷いた。
「まあ、いいだろう。今から彼の家に行くから、一緒に来るといい。」
刑事たちと一緒に龍二のマンションに到着すると、テープが貼られ、警察が家中を捜索していた。リビングの椅子には光輝とアキラが座っていた。
「アキラくん!光輝さん!」
葵が声をかけると、アキラが涙目で顔を上げ、駆け寄ってきた。
「葵くん!」
「光輝さんも来てくれたんですね。」
「ああ、警察から電話があって話を聞きに来たんだ。アキラが心配でな。龍二が別人だったなんて、本当に驚いたよ。」
アキラは涙を堪えながら言った。
「パパが…人殺しなんてするわけない。オレにとっては、パパはあの人だけなんだ。」
葵はアキラをしっかりと抱きしめた。
「俺もそう思う。絶対に龍二さん…いや、ドラゴンタトゥーの男は人殺しなんかじゃない。彼がいなくなったのには理由があるはずだ。俺たちでそれを突き止めよう。」
その時、先ほどの中年の刑事がやって来て、葵たちの前に腰を下ろし、少し考え込むようにしてから口を開いた。
「さて…私たちも同じ意見だ。まずは奴がどこの誰なのか、何者なのかを突き止める必要がある。ドラゴンタトゥーの男だって人の子だ。どこかに本当の家族がいて、本当の名前があるはずだ。アキラくん、この家に家族のアルバムや古い手紙なんかはないか?」
アキラは少し考え込んでから、立ち上がり、リビングの本棚から分厚いアルバムを取り出してきた。
「アルバムならここにある。でも…オレが生まれた時からの写真ばっかりで、古い写真は見たことないんだ。パパとママが青森県から来たってことすら、今まで知らなかった…。」
彼らはリビングのテーブルを囲み、慎重にアルバムのページをめくった。そこには、アキラが生まれた時の写真や、幼少期の運動会や誕生日の写真が並んでいた。写真の中の龍二(ドラゴンタトゥーの男)と若い小百合は、いずれも笑顔で写っており、とても幸せそうで家族の温かな絆が感じられるものだった。
しかし、アキラが言った通り、東京に来る前の家族の写真は一枚も見当たらなかった。特に、小百合が亡くなった5年前からは、写真の数が極端に減っており、その後の生活の中に漂う寂しさや孤独感がひしひしと伝わってきた。龍二の真実が次第に明らかになる中で、彼がどれほどの重荷を背負っていたのかが、次第に見えてくるような気がした。
「ねぇ…青森県って方言があるよね。テレビで観たことがあるんだけど、パパもママも方言を使ってるのをオレは一度も聞いたことないんだ」
アキラがぽつりと呟いた。
「まあ、東京に10年も住んでいれば、自然に方言も抜けてしまうかもしれないけど…」
東京出身の葵にはその感覚が今ひとつピンとこなかったが、熊沢刑事はアキラの言葉に何か引っかかるものを感じたようで、考え込むように眉を寄せた。
「いや…同じ地方出身者同士なら、たとえ東京にいても方言が出るのが普通だ。小百合が青森出身なのは確かだが、ドラゴンタトゥーの男は違うのかもしれないな」
その時、家の捜索を手伝っていた高畑が、熊沢刑事に声をかけた。
「熊沢さん、奴は本当に用意周到でした。自分に関する痕跡を全て持ち去っていましたね。パソコンはもちろん、メモひとつ出てきませんでした。ただ、小百合の手がかりだけは見つけました。彼女が開業していた小さな診療所の住所に宛てた友人からの手紙がありました。小百合の母が現在も住んでいる生家も近くにあります。龍二の両親、兄弟はすでに他界していますがね。青森県M市を調査しに行く必要がありそうですね」
「俺も…俺も一緒に行かせてください!お願いします!」
葵は思わず高畑刑事に詰め寄った。切羽詰まった表情に、高畑刑事は少し驚いたように顔を赤らめ、視線を逸らしながら答えた。
「同行は無理だ。警察の捜査の邪魔になるからな。でも、住所は教えてやるから、君たちが勝手に行くのは止めはしない」
「それじゃあ、我々は署に戻る。何かあったら連絡をくれ。」
熊沢刑事は名刺をテーブルの上に置き、高畑刑事と共にその場を去っていった。
刑事たちが去った後、葵は慌てて空に電話をかけた。
「空、大変なことが起こった…龍二さんが消えたんだ。…うん、詳しくは会って話すよ。今、俺たちは龍二さんのマンションにいる。住所を送るからすぐに来てくれ」
電話を切ると、葵はアキラに向かい合った。
「アキラくん…もしよかったら、しばらく俺の家に来ないか?俺、母さんと二人暮らしなんだ。母さんも、君が来たらきっと大喜びすると思うよ」
アキラは少し戸惑いながらも言葉を探すように答えた。
「…でも…」
「それか、俺がここで一緒に暮らしてもいい。ちょうど明日から夏休みだし、学校もないから…」
葵の優しい提案に、アキラは少しだけ表情を和らげて言った。
「葵くん、ありがとう…」
「金の心配はしなくていい。家賃は龍二…いや、ドラゴンタトゥーの男が、今年いっぱい前払いしていったらしいからさ」
光輝も口を挟んで、力強く言った。
「さて、これからどうするかだな…俺も、ドラゴンタトゥーの男が殺人犯とは到底思えない。だから、警察が見つける前に俺たちで彼を見つけ出そう。手がかりは青森県M市にあるらしい…」
その時、インターホンが鳴り響いた。
「空だ!」
葵が振り返ると、空が顔を蒼白にして息を切らしながら部屋に飛び込んできた。
「龍二さんが…失踪したって?」
空の問いに、葵はうなずき、これまで警察から聞いた経緯を簡潔に説明した。
「それじゃ…全部計画の上だったのか…」
空は呆然とした表情で、その場に立ち尽くしていたが、ふと何かを思い出したようにポケットに手を入れた。
「これは…?」
「俺…葵には隠してたんだけど…実は月曜日に『ドラゴン』で龍二さんに会ったんだ。その時、この手紙を葵に渡してくれって頼まれたんだ」
葵は緊張感に包まれたまま、空から手渡された封筒を慎重に開け、中の手紙を取り出した。手紙は手書きではなく、パソコンで印刷されたものだった。
葵くんへ。
君を傷つけてしまったこと、本当にごめん。君の言葉は嬉しかったし、もし俺が君に釣り合う人間だったら、君の気持ちを受け入れられたかもしれない。だけど、俺は君に相応しくない人間なんだ。
どうしてもやらなければならない仕事ができてしまった。だから、しばらく姿を消すことになる。
もう一通の手紙と鍵は、アキラに渡してほしい。
それから…これだけは言っておいた方がいいだろう。俺は多分、君の父親を知っている。
(龍二さんが…俺の父親を知ってる?)
葵は思いがけない内容に心が揺さぶられ、しばらくの間、手紙を握りしめたままその場に立ち尽くしていた。
「葵、手紙には何て書いてあった?」
空の声でハッと我に返り、もう一通の手紙を取り出した。
「これ…こっちの手紙はアキラくんにって…」
葵は震える手でアキラに手紙を手渡した。アキラが恐る恐る封を開き、その場にいる全員が一緒にその手紙を読んだ。
アキラへ。
もう知っているかもしれないが、君と俺は血が繋がった親子じゃない。でも…君は俺にとって本当の息子だった。君がいたから、俺はこれまで生きてこられた。本当にありがとう。
この鍵は、下北沢にある世田谷トランクルームの鍵だ。少しばかり俺のものを残してある。全て片付いたら、必ず会いに行く。
パパより
「パパぁっ…」
アキラはその場に崩れ落ち、泣き始めた。わずか5歳で母を亡くし、10歳で父親だと思っていた男が殺人容疑者となり、追われる身になってしまうとは…アキラの悲痛な状況に、その場にいた者は皆、胸が締め付けられる思いだった。
しばらくしてから、冷静さを取り戻した光輝が、静かに沈黙を破った。
「ドラゴンタトゥーの男は、こうなることを予見して全て準備していたんだな…しかしどうやって警察がここに来ることを知ったんだろう…もしかしたら彼には協力者がいるのかもしれない。とにかく、まずこの手紙にあるトランクルームに行ってみようか」
一同は、アキラの家から徒歩10分ほどの場所にある世田谷トランクルームに向かった。
そのトランクルームはビルの3階にあり、広いフロアにずらりと南京錠のかかったロッカーが並んでいた。
「3301…ここだ」
葵が鍵に書かれた番号と一致するロッカーを見つけ、慎重に鍵を差し込んだ。ガチャッという音がして、ロッカーの扉が開いた。中には黒いボストンバッグが一つ置かれていた。
空がボストンバッグを取り出し、慎重にチャックを開ける。
「!!」
一同は息を飲んだ。そのバッグの中には、ぎっしりと詰まった札束が収められていた…。
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