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第17話 2023年 東京
青山の老舗ジャズクラブ『Blue Ocean』の前には、『橘葉子 15周年記念ソロライブ』と書かれたポスターが掲げられていた。
それを見つめながら、海が感嘆したように言う。
「すごいよなぁ、葵のお母さん…あの有名なジャズクラブで、しかもソロライブなんて。海外の大物アーティストも演奏するような場所だぜ」
「オレ、ちょっと緊張する…こんな場所に小学生が入っていいのかな…すごく大人の場所って感じだし…」
アキラが不安そうに葵を見上げる。
「大丈夫だよ、歓迎してくれるよ」
「光輝さんたちももうすぐ来るってさ」
空がスマホを見ながら言った。
今日は、葵の母親、葉子のジャズライブだ。葉子は葵の友人たちを招待してくれた。そして、今日は9月11日――葉子の40歳の誕生日でもある。葵はライブの最後に、サプライズで花束を渡すよう葉子のマネージャーに頼まれていた。
「あ、来た来た! こっち!」
空が光輝とタツヤを見つけて手を振った。葵はその姿に目をやり、ディーンがいないことに胸を痛める。
(ディーンさんも、あんな事件がなければ、ここでみんなと一緒に笑っていたんだろうなぁ…)
マーティンにディーンからの驚くべきメールが届いたものの、ディーンに関する手がかりは依然として掴めていなかった。
葉子からアレンに関する話を聞いて以来、葵は葉子との距離を感じるようになり、家でも顔を合わせることが少なくなった。
(でも、俺をここまで育ててくれたのは母さんなんだ)
今日はディーンやアレンのことを忘れて、葉子のライブを楽しみ、彼女を喜ばせたい――そう思った。
「葵、大丈夫か?」
空が心配そうに葵の顔を覗き込む。
「あ、ああ…大丈夫」
「じゃあ、そろそろ入ろう」
『Blue Ocean』の特徴は、舞台と客席が非常に近いことだ。ソファで食事をしながら演奏を楽しめる、そんな特別な空間。葵たちは舞台のすぐ前のボックス席に案内された。
会場の照明が落ち、舞台上に葉子が現れる。彼女は黒のカクテルドレスをまとい、髪をアップに結い上げ、その姿は一段と美しかった。
葉子の歌声が静かに響き、哀愁を帯びた低いハスキーボイスが聴衆を魅了する。観客たちは息を呑み、彼女の歌に聞き入っていた。
舞台の上の葉子は感慨深い気持ちに包まれていた。
シングルマザーとして葵を育てて16年が経った。その間、シンガーとしてのキャリアを続けるのは決して簡単ではなかった。最初は、場末のスナックやカラオケバーで歌い、観客が誰一人いないこともあった。
それでも、今、青山の老舗ジャズクラブで演奏できるまでになった。それもこれも、息子の葵の存在があったからこそ耐え抜けた。彼は私の宝物…。
「みんな、今日はありがとう。私がここまで来られたのは、支えてくれた皆さんのおかげです。さあ、次が最後の曲です。『Lover, Come Back to Me』。邦題は『恋人よ我に帰れ』。どうぞ最後まで楽しんでください。」
葉子が優雅に挨拶を終えると、軽快なジャズの名曲が流れ始めた。
♪Lover, Come Back to Me…♪
葉子が歌い上げた瞬間、会場は一斉にスタンディングオベーション。嵐のような拍手に包まれた。
葵は花束を持って舞台に上がり、葉子にそれを手渡す。葉子は涙ぐみながら花束を受け取り、ハンカチで目を押さえた。
そのとき、空の視界の片隅で何かがきらりと光った。
反射的に体が動いた瞬間――
「バン!」
銃声が響き、会場は一気にパニックに陥った。悲鳴がこだまし、観客たちが出口に殺到する中、空は自分の脇腹に鋭い痛みを感じた。手を当てると、生暖かい液体が指の間からあふれ出てきた。
彼は、葵と葉子をかばい、身を呈して銃弾を受けたのだ。
意識が遠のく直前、空は銃弾の発射元を一瞬だけ捉えた。
そこには、サングラスをかけた金髪の男が拳銃を構えて立っており、その男を後ろから羽交い締めにして止めようとしているのはディーン坂本だった。次の瞬間、涙を流して大声で叫ぶ葵の顔が目の前に迫ってきたが、空の耳にはもう何も聞こえなかった。葵が何かを叫んでいるのは分かるが、その声は遠く、ぼんやりとしていた。ただ、彼が自分の名前を呼んでいるのだろうと感じた。
(ああ…俺は葵を守れたんだ…よかった…)
すべてが一瞬の出来事だった。
拳銃を持った男が、ゆっくりと葉子に向かって歩み寄ってくる。その瞬間、ディーンが後ろから男の動きを封じようとしたが、わずかに間に合わなかった。銃声が響き、銃弾は葉子と葵の前に飛び出した空の脇腹に命中した。空はその場に崩れ落ち、会場は悲鳴に包まれた。
「くそっ!離せよ、ディーン!なんで邪魔をする?!あの女は…チャンを殺した犯人なんだぞ!」
男がディーンの腕からもがきながら叫んだ。
「嫌だ!俺はお前を人殺しにはさせない!あの女はお前の息子の母親なんだぞ!!」
ディーンの言葉に、アレンは驚愕の表情でその場にへたり込んだ。
「とにかく、救急車だ!俺が呼ぶ!」
光輝が叫び、海も空のそばに駆け寄って涙を流していた。
観客たちが出口に殺到していく騒々しさとは対照的に、舞台の上は静寂に包まれていた。
「俺に…息子がいたって…?」
アレンは銃を持ったまま、ゆっくりと葉子と葵に近づいた。
葉子はアレンを見て、ついに堪えきれずその場に泣き崩れた。
「ごめんなさい…ごめんなさい、アレン…。私は…あなたが狂おしいほど好きだった…。CBGBのライブがあった夜、私はクラブのトイレであなたに媚薬を飲ませて、たった一度だけ関係を持ったの。それで私は妊娠した…でも、あなたは私のことなんて覚えてすらいなかった。あなたの心は常にチャンと共にあることを知っていたから、彼さえいなければ私にもチャンスがあると思った…。フラットからセントラルパークへ行く彼を追いかけて…アレンの子供を妊娠しているって告げて、別れてほしいって頼んだの。すると彼は、穏やかに微笑んで『分かった』って言ったの。その瞬間、私は彼が生きている限り絶対にアレンの心は手に入らないと思って…持っていたナイフで彼を刺したの。彼は、自分を刺した私に向かって、アレンを守ってやってくれって…微笑みながら言ったのよ…」
(母さんが…チャンを殺した…?)
葵は信じられない思いで葉子の告白を聞いていた。
「私はその場から逃げ出したわ。公園の池にナイフを捨てて、飛行機に乗って日本に帰ったの。その後、毎晩、毎晩チャンの幻影に苦しめられた。アレンがドラッグに溺れて、バンドが解散したことも知っていたわ。私は取り返しのつかないことをしてしまった…。だから、残りの人生は、この子を育てることに捧げようと思った。それが少しでも、彼への償いになるのなら…」
葉子の言葉に、アレンは呆然としたまま、葉子と葵の顔を見つめ続けた。それから、血を流して倒れている空を見た。場には重い沈黙が漂った。
アレンは銃を持ったまま崩れ落ちた。その隣にいたディーンが静かに口を開いた。
「そうだ、あんたは取り返しのつかないことをしてしまった。でもアレン、お前も同じだ。お前が撃ったのは、葵にとっての『チャン』だ。お前は葵を自分と同じ道に引きずり込むつもりか?もしそうなれば、葵は一生を復讐に捧げることになる。憎しみは憎しみを生むだけだ。チャンはそんなことを望んではいなかったはずだ」
その時、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
救急隊員と警察が到着し、その場にいた全員が警察に連行されることになった。
葵はストレッチャーに乗せられた空のそばに座り、海と共に救急車に乗り込んだ。サイレンの音が響く中、葵の心はただ祈りに満たされていた。
(お願いだ…どうか空を助けてくれ…)
ずっと隣で笑ってくれていた空。どんなわがままにも付き合ってくれた空。もし空がいなくなったら、俺はどうなってしまうんだろう。最も大切な存在に、今になって気づくなんて。
手術は成功したが、空は目を覚まさなかった。意識不明のまま、眠り続けていた。
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