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第18話 2012年 青森
2012年の秋、俺は初めて日本の地に降り立った。飛行機の窓から見えた成田空港の滑走路は、灰色のアスファルトが終わりなく続いているように見えた。その向こうには、遠くに広がる東京の高層ビル群が薄く霞んでいた。降り立った瞬間、冷たい風が頬を撫で、秋の訪れを感じさせる。祖父が70年近く前に離れ、帰ることを願いながら叶わなかったこの国。俺が今、こうしてその地を踏みしめているのは、皮肉以外の何ものでもなかった。両親は日本料理店を営んでいたが、実際に日本に行くことは一度もなかった。俺が彼らに代わってこの土地に来ることになったのは、ある種の運命だったのかもしれないが、俺はその重みに押しつぶされそうになっていた。
俺の体は禁断症状で震えていたが、どうにか怪しまれずに入国審査を通過した。俺の外見が日本人で、日本語も話せるからか、両親の故郷である青森に帰るためだと説明すると、意外にもすんなりと通された。入国審査の冷たい空間から一歩外に出ると、どこか湿気を含んだ風が俺を迎えた。
青森へはどうやって行くか、事前に調べていた。ガイドブックとネットの情報から、成田空港から国内線で青森まで飛行機で飛ぶのが最速だということは知っていたが、飛行機はやはりチェックが厳しい。これ以上リスクを冒すわけにはいかない。俺は長距離バスを使うことにした。空港の職員に青森までの行き方を尋ねると、親切に東京駅までのバスと、そこから青森行きの夜行バスのことを教えてくれた。所要時間は約10時間。俺は空港の両替所で100ドルを日本円に替え、バスに乗り込んだ。
東京駅に降り立つと、その喧騒に圧倒された。ニューヨークのような大都会だ。駅前の高層ビルは空を突くようにそびえ、行き交う人々の波が俺を飲み込んだ。駅構内のアナウンスが絶え間なく響き渡り、俺はすぐに疲労感に襲われた。コンビニで買ったおにぎりとパンを握りしめ、次のバスに乗り込んだ。驚いたことに、コンビニの棚には見たこともない種類の食品が並んでいた。ニューヨークではこんなに多くの選択肢を目にすることはない。
バスの中で目を閉じると、心の中に浮かんでくるのは、アレンのことだった。彼は今、刑務所でどうしているのだろうか。あの冷たく暗い場所で、彼はちゃんと生きているのだろうか…。長い移動時間、俺はそのことばかりを考えていた。
次の日の朝、バスはようやく青森駅に着いた。冷たい空気が頬を刺し、周囲を見渡すと、街全体がどこか沈黙を抱えているように感じられた。しかし、祖父がかつて住んでいた青森県M市までは、まだバスでさらに数時間かかるという。青森駅のバスターミナルに向かい、再び長い旅が続くことを覚悟した。
青森駅を出発して、バスは市街地から徐々に山間部へと進んでいく。窓の外には紅葉が広がり、赤や黄色の葉が風に舞っていた。遠くには雪を頂いた山々がそびえ、秋の青森の風景がどこまでも続いていた。その美しさは、俺の心に一瞬の平穏をもたらしたが、体は依然として禁断症状で震えていた。
ようやく、バスは下山駅に到着した。周囲には人気がなく、広がる田舎の静寂が俺を包み込んだ。駅のホームには誰もおらず、俺は途方に暮れた。車での移動が当たり前のこの土地で、歩いて目的地にたどり着けるとは思えなかった。俺は震える手でポケットを探り、靴のかかとに隠し持っていたドラッグを出した。やむを得ない…。俺はその薬を飲み、意識が遠のいていった。
目を覚ますと、俺は見知らぬ車の後部座席に横たわっていた。窓の外には、見覚えのない田舎道が続いている。(一体どうなっているんだ…?)まだぼんやりとする頭で運転席を見ると、そこには若い女がハンドルを握っていた。
「…気がついた?」
女はバックミラー越しに俺を見て、優しく話しかけてきた。その瞬間、俺は不安と疑念に包まれたが、女の言葉はどこか温かさを感じさせた。
「…一体…アンタは誰で、どこに向かっているんだ?なぜ俺を運んでいるんだ?」
声がかすれるように出た。まだ完全に意識が戻っていないが、状況を理解しようと必死だった。運転席の女はバックミラー越しにチラリと俺を見て、淡々と答えた。
「あなた、住所の書かれた紙を握りしめて駅で倒れてたのよ。ここは田舎だからね、誰かに見つかるまでかなり時間がかかると思って。で、その住所が私の家の近くだったから、送ってあげようと思ったの。運が良かったわね。」
「ああ…そうか…」俺は混乱した頭を整理しながら、彼女の説明に一応納得する。だが、見ず知らずの男をこんな田舎の人が車に乗せてくれるものだろうか?それが普通なのか?日本の常識なのか?まだ疑念は残っていたが、今はそれ以上追及する余裕はなかった。
「…アンタは…誰なんだ?」俺は警戒心を解かずに尋ねた。
「私の名前は岩田小百合。医師よ。単刀直入に言うけど、あなた中毒患者よね?」小百合と名乗った女は、静かに、しかし確信を持って言い放った。その瞬間、俺は背筋が凍りつくのを感じた。クスリをやっていることが見抜かれていたのか。
「私、そういう人を放っておけないの。大丈夫、警察には通報しないから安心して。」
俺は言葉を失った。自分の状況がさらに危険に思えたが、彼女の態度には脅威や敵意は感じられなかった。車は小さな田舎道を抜け、広がる田んぼの景色の中を走っていく。道端には低い石垣が続き、時折見える木造の民家が、この土地の歴史と静けさを物語っていた。
30分ほど走った後、車は小さな診療所の前で止まった。古びた木造の建物は、どこか懐かしい感じがするも、どこか現実感がない。この場所が、俺の新たな「治療所」になるのか?
「ここよ。さあ、入りましょう。」小百合はトランクから俺の荷物を下ろし、診療所の中へと促した。俺はふらふらとついていった。診察室に通されると、彼女は白衣を椅子から取り出し、肩にかけた。
「まず、今持っているドラッグを全て出してもらうわ。」小百合は静かに、しかし毅然とした声で言った。
「…」俺はためらいながらも、仕方なく靴のかかとやシャツのボタンに隠していたドラッグを全て取り出し、彼女に手渡した。彼女はそれを見て、にっこりと微笑んだ。
「これで大丈夫。あなたは今日から、ドラッグを断つまでここで暮らすのよ。大丈夫、私が治療するから安心して。」
「なんでだ?俺は見知らぬ外国人だぞ?なんでそんなに親切にしてくれる?」
俺はまだ信じられなかった。何か裏があるのではないかと疑っていた。だが、小百合は一瞬驚いた表情を見せてから、穏やかに答えた。
「あら、あなた外国人だったのね。日本語が上手だから気づかなかったわ。でも、そんなこと関係ないわ。実はね、私の夫もドラッグ中毒だったの…。」そう言って、小百合は寂しそうな笑みを浮かべた。「彼はとても優しかったの。でも、ドラッグに手を出してからすっかり変わってしまって…。私は彼を助けたくて、薬物依存症の治療を始めたの。今は…彼とはあまり会えないけれど。」
彼女の声には、深い悲しみとともに、強い決意が感じられた。俺は少しずつ心を開くしかなかった。俺の状況は彼女の夫と重なるところがあるのかもしれない。彼女は俺を助けようとしているのだ。
その日から、俺の壮絶な薬物依存症治療が始まった。診療所の小さな病室に通され、ベッドに寝かされると、小百合は丁寧に俺の手足を拘束した。これは自傷行為を防ぐためだと言っていたが、その冷たい革の感触は俺を一層不安にさせた。
昼間、小百合は外来の患者を診察しながら、俺のことも気にかけてくれた。静かな診療所には、古びた木の床が軋む音や、時折、田舎道を通る車のエンジン音が遠くで聞こえるだけだった。青森の山奥にひっそりと佇むこの場所は、まるで世界から切り離されたような孤立感があった。
禁断症状が強まるたびに、俺は目を覚ました。体中が火照り、頭の中で何かが弾けるような感覚が襲ってくる。だが、小百合の治療は的確だった。彼女が用意した薬や注射で、次第に苦しみが和らいでいくのを感じた。俺は深い呼吸を繰り返しながら、ようやく少しずつ安定してきた。
意識がはっきりするようになった頃、俺は小百合と色々なことを話すようになった。俺の過去――ニューヨークでのドラゴンタトゥーズとの栄光と挫折、そしてアレンとチャンのこと。話しているうちに、俺は久しぶりに自分を振り返り、過去に向き合うことができるようになっていた。
小百合もまた、自分の過去について語ってくれた。優しかった夫、龍二は、仕事を失ってから徐々に借金に追われ、ついにはドラッグに手を出してしまったという。最初は些細なきっかけだったが、彼の変貌はあっという間だったらしい。小百合はそんな彼を救うために、薬物依存症の治療に専念するようになったのだと言う。
「でも、私は彼を助けることができなかった…」小百合は、静かに涙を浮かべながらそう呟いた。「彼は家にほとんど帰ってこなくなって、今はどこにいるのかもわからない。でも…今、私は彼の子供を身ごもっているの。」
その言葉を聞いて、俺は言葉を失った。小百合の中には、龍二との新しい命が宿っているのだ。それでも、彼女は一人で戦っている。彼女が俺に親切にしてくれる理由がようやくわかった。彼女は、自分が救えなかった人を、今度は他人である俺を通して救おうとしているのかもしれない。
「龍二さんに赤ちゃんのことを伝えたら、きっと喜ぶよ。」俺は、何を言えばいいのか分からずにそう呟いた。
「そう思ってくれたらいいけど…」小百合は微笑んだが、その笑顔にはどこか悲しみが漂っていた。
数日が経ち、俺の薬物依存症は次第に快方に向かっていた。拘束具なしでも眠れるようになり、体の震えも少なくなってきた。ある夜、早めにベッドに入って眠りについた俺は、突然、何か口論する声で目を覚ました。診療所の静けさを破る激しい声が、診察室の方から響いていた。
「…お前、俺に黙って男を連れ込んでんだろ?」
低く荒々しい声が響く。次の瞬間、バシッと何かを叩く音が聞こえた。
「やめて!私のお腹にはあなたの赤ちゃんがいるのよ…!」
「なにぃ?本当に俺の子なのか?お前が囲ってる男との子なんじゃないのか?」
「そんなわけないじゃない…」
「嘘をつくな!殺してやる、この浮気女が…!」
「いや…やめてーっ!」
事態がただ事ではないことを察知した俺は、慌ててベッドから飛び起き、診察室へと駆け込んだ。引き戸を開けると、そこには凄惨な光景が広がっていた。ガラスの花瓶を手に持ち、震える小百合。そして、その足元には、頭から血を流して倒れている男――おそらく龍二が横たわっていた。
「…お願い、助けて…」小百合は涙に濡れた顔で、震えながら俺に懇願した。
「警察…呼ばないと」
「ダメ!警察はダメよ!私が捕まったら、このお腹の子が一人ぼっちになってしまう!」
「じゃあ…どうするんだ…?」俺は混乱しながらも、彼女の言葉に耳を傾けた。
「龍二の死体を隠して…ここから逃げるの。誰も私たちを知らない場所へ…急いで!」
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