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第100話
猫らの世話を終えて、自分も卵かけご飯の朝食を済ませると出勤である。
あぐり引越社の制服に着替えて、書類を詰めたバックを持ってランドローバーに乗り込む。ここから真柴川元町に移動して月極駐車場に停めてあるトラックに乗り込むのだ。
事務所を本格的に移転すれば、朝のこの動きもかなり楽になるはずである。
あの日、車中で真生と追悼のキスをして、身も世もなく泣きじゃくった工事現場が今や立派な新築マンションになっている。全館既に満室である。
館内の整備には専門のメンテナンス会社が入っているが、エントランスの花壇だけは季節ごとに富樫のおっちゃんと叔母ちゃんが花の植え替えや手入れにやって来ている。
本城国分寺町から真柴川元に向かうのは田園地帯にまっすぐ敷き延べられた一本道である。田畑はまだ冬枯れの色だが、じき新緑が芽吹くはずである。
その中をシルバーメタリックの四輪駆動車が軽快に疾走する。
腹に響くエンジン音はあぐりの身体を細胞の隅々に到るまで起こして回る。
点けっ放しのラジオから早朝の落語番組が流れて来た。起業以来ラジオで聞くのはニュースばかりになっていた。たまに落語が流れて来てもまるでBGMのようだった。寄席やホール落語も行っている暇はない。
「餡子にしろ。蜜なんかで着物を汚したら、おっかあに叱られる」
「蜜がいい! みーつー!!」
だが今朝は珍しく落語家の声に耳をそばだてた。「初天神」である。
あぐりは一人で「あっ?」と小さく声を上げた。閃いたのだ。
帰国が近づくにつれ、真生から謎のLINEが届くようになっていた。
〈二人きり重要。OK?〉
という暗号である。
日本に帰ったら、あれを食べたい、あそこに行きたい等いろいろな希望が送られて来るのだが、その後に必ずこの一文が添えられているのだ。
OK? と問われているのだからOKと返せばいいのだろうが、その内容がわからない。
何か昔の暗号だろうが、まるで記憶にない。
黒猫が疑問符を抱え込んでいるスタンプを送ったところが、
〈へえ。あっちゃんは覚えてないんだ。ふーん〉
と不満そうな返事が返って来た。
これ以上、問えば怒らせる。思い出すしかない。
けれど一向に思いつかなかった。
真生と出会ってから怒涛の勢いで様々な出来事が起きていた。記憶は留まることなく流れ去っている。一体いつどこで何を示した暗号だったか。
古いスマートフォンはとっくに処分したから手がかりは何もない。
にわかにその手掛かりが閃いた気がするのだ。
だが、道の先に月極駐車場の看板が見えたので緩くブレーキを踏んだ。スピードを落として駐車場に回り込むと、あぐり引越社のスペースに車を停めた。
隣の区画には横腹に〝AGURI引越社〟とペイントされた二トントラックが待っている。
「ええと?」
呟きながら荷物を持ってランドローバーを降りる。
隣のマンションエントランスにはキャベツいや葉ボタンが盛大に花開いている。間もなく叔母ちゃんと富樫のおっちゃんが春らしい花に植え替えることだろう。
荷物をマンション内の事務所に放り込んで、トラックに戻る頃には閃きも完全に消え失せていた。
〈二人きり重要。OK?〉
何か「初天神」や落語に関することだったか?
トラックのコックピットに乗り込んで、あぐりは無意味にステアリングを撫でながら首をかしげた。
記憶の糸口はついそこに見えるのに、どうしても引き出せない。
これはもう二人が出会った頃のことから順繰りに思い出すしかあるまい。
トラックのエンジンをかける。ランドローバーのエンジンに起こされた全身の細胞どもが、いよいよ活性化する重低音が響く。
あれは確か遅い夏だった……。
柿の木で蝉が一匹鳴いている。夏もじき終わる。
〈了〉
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