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第99話
いや、話が前後した。
真生と再会してから程なく、あぐりは足軽運送を辞めた。月島の社員寮も退去してこの家に引っ越して来たのだ。同性婚はその後の話である。
真生がアラブに旅立つまでの蜜月は、千代の言葉を借りるなら〝みゃーみゃー盛 ってばかり〟なのだった。二年間離れ離れになると思えば毎晩でも抱き合わずにはいられなかった。真生が出立する日まであぐりの身体に愛の刻印が消えることはなかった。やがて黒ずんだそれが全て身体から消え去ったと気づいた時、あぐりは少しばかり涙をこぼしたものである。
日本アルプスにも連れて行ってもらった。上高地、蝶ケ岳、常念岳に一ノ沢と二泊三日、山小屋に泊まりながらの行程だった。学生時代に真生が山岳診療所でアルバイトをしていたという話も聞いた。
デスクワークばかりで身体が鈍っていたあぐりは、久しぶりの運動で息も上がりがちだった。年上の真生の方がはるかに健脚だった。
「医者は肉体労働なんだよ。特に産婦人科医はね」
得意満面で岩場をひょいひょいと上がって行くのだった。
何も遊んでばかりいたわけではない。あぐりは引っ越し会社を起業した。婆ちゃんと母親の遺産で中古の二トントラックを購入したのだ。
とりあえずこの家を事務所として、トラックは実家の月極駐車場に停めてある。当初はマンションが完成したら事務所もそちらに移転するつもりだった。
今やもうマンションは完成しているのだが、部屋はまだ何もなく単なる事務所というか休憩室に使っている。事務所移転は真生の帰国待ちである。何しろ取締役に名を連ねているのだから。
菅野老人の指導あってこその独立だった。真生や里生の優秀な頭脳が身近にあるのも助けになった。けれど取締役に名を連ねるという申し出は断っていた。迷惑をかけるのを恐れたのだ。
だが田上兄妹は例の間髪を入れぬ早業で登記を済ませ、役員に納まっていた。正直あぐりには同棲よりも何よりもこれが最も嬉しかった。
爺ちゃんと婆ちゃんが大吉運送を興したように、あぐり引越社はあぐりと真生が興した会社なのだ。やっと本当の家族になれた気がした。
いつか欅の一枚板のテーブルを注文しようと目論んでいる。そうなれば、それが置ける広さの社屋や自宅も必要になる。夢は広がるばかりである。
まほろば運輸の及川さんが社員に加わったのは、真生が旅立った後である。あぐり引越社は現行篠崎社長と及川社員の二人体制である。
そうして、あれから三年。この春アラブの某国から真生が帰って来る。
あぐりはもう足が地に付かない程の浮かれっぷりである。毎日のように仕事はもとより、真生を迎える準備にも走り回っている。猫たちも元気である。
ちなみに真柴本城市の坂上神社は今やLGBTQの聖地となっている。折にふれ訪ねてみればレインボーカラーの開運キーホルダーやお守りなども販売しているのだから、実に機を見るに敏な宮司である。
また、挙式後に何やかやとバッシングもあったが、それは覚悟の上だった。起業したばかりのあぐり引越会社に、
「ホモの引っ越し屋に頼んだら、荷物にどんな黴菌がつくか知れたもんじゃない」
などとクレーム電話や無言電話が入ったりした。だが、あぐりの予想よりは少なかったので、案外世の中は捨てたもんじゃないと思ったりした。
むしろ嬉しかったのはご祝儀をいただいたことだった。
菅野夫妻からは開業祝いをもらったばかりなのに、結婚祝いまでもらった。
「何がいいかわからないから。二人で相談して欲しい物に使ってちょうだい」
と、かなり厚みのある祝儀袋をもらったものだった。
夫人手作りの刺し子刺繍のクッションやティッシュカバーも添えられていた。かつて相談した〝恋人〟が実は同性だったと察したはずだが、特に言及はせず通常の結婚式のように祝ってくれた。
元の職場の吉田くんや杉野さん、三田村さんからもお祝いが届いた。
ちなみに叔母ちゃんと富樫のおっちゃんからは
〈開業祝と結婚祝いまとめてで悪いけど。タケ兄ちゃんと相談して作りました〉
と新しい会社の作業着が送られて来た。胸に社名の刺繍がある上着とズボン。SMLとサイズも揃い、これから何人規模の会社にするのだ? と思う程の量が段ボール箱で届いたのだった。
真生にもこの作業着を進呈したところ、満更でもない顔でそれも機内持ち込みの荷物に入れるのだった。
「そんなん航空便で送りゃいいじゃん」
「簡単にロストバゲージする国だぞ。大事な物は機内で抱いて行くに限るんだ」
って、あぐり引越社の制服がそんなに大事な物かとちょっとくすぐったく思うのだった。
アラブ某国であぐり引越社の作業着を着た真生の写真を見たかったのだが、一向に送って寄越さなかった。
届く写真は殺伐としたまるで報道写真のようなものだった。現地の難民キャンプの風景や痩せた赤ん坊の姿などである。そこで真生が働いていると思えば、あぐりは胸が潰れそうになるのだった。
ごく稀に子供達が遊んでいる写真が混じっていることがある。その子供達が縋り付いている脚や、引っ張っている腕は真生のものに違いないと推測して、じっと見つめたりする。
かの国では男性は髭を伸ばす習慣がある。真生も渡航してから一度も髭を剃っていないという。鼻の下も顎も髭で覆われたとのことだが、何度せがんでもその顔の写真は寄越さないのだった。ましてや引越会社の制服をや。
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