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第98話 エピローグ
エピローグ
誰かが胸に乗って軽く頬を叩いている。伸びた爪が少しちくちくする。たぶん黒猫ロブだろう。そろそろ爪を切ってやらなければ。
「朝……朝飯?」
そっと目を開け、艶やかな黒い毛並みを撫でてやる。
細く開いた襖から薄明りが入って来る。八畳間の障子に明け方の光が届いているのだろう。けれど温もりはなく、漏れてくるのは冬の冷気である。
寝室にはツインベッドを並べてある。シングルベッドに二人で寝て何度か落ちた結果の選択である。ダブルベッドではどちらも落ち着いて眠れないからツインにした。
ロブはあぐりのベッドから隣のベッドに歩いて行く。今はマットレスだけの真生のベッドである。
間もなく海外青年協力隊の任務を終えて、真生がアラブ某国から戻って来る。それまでに布団を干して、ベッドを整えておかねば。
起き上がって着替えると、襖を開けて隣室に行く。八畳間の床がぼんやり温もっているのは、タイマーでホットカーペットが点いているからである。それでも空気は冷たいのでエアコンも入れた。
猫たちの朝食を用意する。三毛猫千代と黒猫ロブ。
一時この家で暮らしていた額に〆印の傷があるトラ猫は、真生が海外に出立すると同時に家には現れなくなった。三田村さんが言うには空き地の餌場には現れているから、またどこか別の家で世話になっているに違いない。
猫たちが食事をしている間、廊下の隅にある猫トイレの掃除をする。
と、八畳間でカタンと音がした。
食事を終えたロブが、棚に飛び乗って写真立てを倒したのだ。
猫はどんな狭い場所でも器用に物を倒さずに歩いて行ける。なのにこの写真立てだけは毎日のように倒している。よほど気に入らないのか。
あぐりもロブの意見に異論はない。
写真立てには真生とあぐりのツーショット写真が飾ってある。
神社の社殿を背景に撮った結婚式の写真である。
だが、どちらかと言えば盃事に臨むヤクザの記念写真に見える。黒紋付の羽織袴を着た二人の男がカメラを睨みつけているのだ。とても華燭の典とは思えない。
もともと真生は凶悪顔で無駄な愛想笑いをしないし、あぐりが仏頂面なのはこの事態をあまり喜んでいなかったからである。
そんな写真は引き出しの中にしまってしまいたいのが本音である。
けれど、それをアラブにいる真生にうっかり告げたところが、
〈へえ。そうなんだ。あっちゃんは二人の写真を飾りたくないのか〉
と、嫌味たっぷりのメッセージが返って来た。
ただでさえ政情不安な国で働いているのだ。真生がいるのは戦火から逃げて来た難民が暮らすキャンプなのだ。無駄なストレスは与えたくない。
〈飾るよ。ちゃんと。猫たちが倒さないように気をつけるよ〉
飾っている証拠写真まで送ったのだった。
以来、いかにロブに倒されようとも写真立てをしまうことはなくなった。今やこれを飾っておかないと不吉な気さえするのだった。
真生が旅立つ前に、坂上神社で同性結婚式を執り行ったのだ。大安吉日、午後の挙式だった。午前中は里生と刈谷医師が二人で白無垢を着て挙式をあげた。
ビアンとゲイの同性結婚式、しかも双子である。
マスコミが雲霞のごとく押し寄せた。というか、宮司のミソッチが嬉々としてSNSで拡散したのだ。そりゃあ大騒ぎだった。
スポークスパーソンとしてマスコミ対応をしたのは里生だった。真生も刈谷医師も言動が率直過ぎて剣呑なことを言い出しかねないし、逆にあぐりは人前で話すことなど出来やしない。
そもそもあぐりはこんな珍しいことはしたくなかったのだ。真生のように性的少数者としての意識は高くなかったし。
けれど双子に揃って説得されたのだ。
万が一にも真生が海外で亡くなった場合、同棲を始めたばかりのあぐりは、この家に住めなくなるかも知れないと。
「遺書は書いて里生に預けてある。この家も遺産も全てあっちゃんに譲るってね。でも……親父がどう動くかわからない」
と真生が言えば、里生も頷くのだった。
「だから結婚式をするんだよ。日本の法律では同性婚の効力なんてないに等しい。けど大勢の目に触れるお披露目は案外人の心に残るんだ。結果、抑止力になる……と」
口の達者な兄妹に説得されて、あぐりは渋々頷いたのだった。
「遺産なんか別にいらない」
かろうじて反論したのはそれだけである。
全くの本音だった。あぐりが欲しいのは真生本人なのだ。その命が奪われた後に、このサザエさんちやランドローバーや蓄財などを貰っても何になろう。
「真生がどうしても結婚式をしたいなら、つきあってやってもいいよ。ただし、絶対に生きて日本に帰って来ることが条件だからね」
口をへの字に結んで言ったものだった。
その集大成が、ヤクザの盃事のような写真なのだった。同じものを真生は機内持ち込み用の荷物に詰め込んだものである。
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