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第97話
洋食屋を出て車に乗ると、真柴川元町の元・大吉運送を目指す。あぐりの実家である。
秘密を打ち明け涙を流してよほど安堵したのだろう、真生は車の揺れに合わせてとろとろ眠りかけている。
ハンドルを握ったあぐりは、それさえ気に入らず強引に尋ねてしまう。
「ねえ! さんこうって何?」
「んん?」
「さっき言ったじゃん。語学の勉強とかさんこうとかって……」
半分瞼の落ちかけた真生が呟いた。
「山行 ……登山のこと」
「登山? 山登り? 真生さんが?」
思わず顔を真横に向けてしまう。人気のない田舎道で幸いだった。
「だから四駆に乗ってる。この車なら登山口まで楽に走って行けるし」
あっと手にしたハンドルを見る。確かにこの車なら荒れた山道でも威力を発揮しそうである。
そう言えば、家の玄関にはザックやヘルメットが置いてあった。
「……海外に行く前に……日本アルプスを縦走する」
既に山の景色を眺めているかのような微笑みを浮かべてまた目を閉じる真生である。
「そんなの聞いてない!!」
何故かまた大声を出してしまう。
もう何をどう考えたものやら、心の中の収集がつかない。
真生が山登りをするなんて全然知らなかった。自分は田上真生のことをまだ何も知らないではないか。身体を重ねただけですっかり知った気になって。なのに海外に行ってしまうなんて。
何だよそれは!?
すやすやと穏やかな寝息を聞かせる真生が、この上もなく憎らしく見える。
月極駐車場の看板の先に灰色のシートが見える。以前の仮囲いとは異なり防音効果のあるシートが、鉄骨で形作られたマンションを覆っている。
黙って風景を見ながら通り過ぎ、人気のない道で車をUターンさせる。改めて実家の前で停車すると、助手席の真生越しに防音シートを眺めた。
日曜日なので工事は休みだった。周囲には人影もない。まるでゾンビに襲われて人類が死に絶えた田舎町で建設途中のまま打ち棄てられたビルのようだった。
「家は全部なくなったんだな」
居眠りをしていると思った真生が言った。あぐりと同じく窓の外を見つめている。
「大吉運送があれば、海外に送る荷物も頼みたかったんだけど……」
「もともと海外便はやってないよ。兄貴もそこまでは考えなかったみたいだな」
と仏頂面のあぐりである。
そして灰色のシートでしかないマンション用地の一角を指差した。
「ここは八階建てマンションになる。大吉マンションだってさ。あそこ……婆ちゃんが死んだ場所は、マンションの玄関になるから、花壇を作ってたくさん花を植えるんだって」
婆ちゃんの終焉の地はとりもなおさず二人のファーストキスの場所である。
そんなことを思っていると、シートベルトを外した真生がこちらに身を乗り出した。
「追悼のキス……なんて言葉はあったかな?」
言いながらあぐりの頬に手を添える。
同じことを考えていたらしい。
少しばかり感激して瞼を閉じるあぐりである。
ただその前に、バックミラーで前後左右を確認することは忘れなかった。まるでドライバー査定の調査員が同乗しているかのように。もちろんゾンビによって人類が死に絶えた真柴の田舎道には人も車も気配はない。
真生の口づけは、あの時のようにふっと唇が触れるだけの軽いご挨拶だった。
額と額をくっつけて瞼を開くと、凶悪顔がほんのりと目尻を下げて微笑んでいる。
あぐりも真生のツンツンした髪に手を触れて本格的に口づけをしようとしたのだが、にわかに奇妙なことが起きた。
いきなり視界がぼやけたのだ。
顔が熱くなり、両目からは涙が迸っている。
「えっ!?」
と驚いた声はあぐりのものか真生のものかわからない。
キスどころではない。あぐりは手を束ねて呆然としている。
目から噴き出す涙はまるでゲリラ豪雨である。顔をびしょびしょに濡らして号泣している。身を震わせ嗚咽も激しくなるばかりである。
この事態には覚えがある。
あの家の玄関で風邪をひいた真生に抱かれて号泣した。あの時と同じである。
そうして、あの時のように自分でも意味不明な絶叫をしているのだった。
「行っちゃやだぁぁ!! 行かないでぇぇ!!」
そう言ったはずの言葉は単に、
「いっじゃやだぁぁいがないでえぇぇ」
と駄々っ子のようである。声と共に涎まで撒き散らしているのは正に赤ん坊である。
じたばたと身をよじって泣き叫ぶ言葉は、思っていても言ってはいけないと理性が抑えていたものだった。いきなり心が弾け飛んだ。
「外国なんか行くな!! 山行なんかしないでいい!! 真生はずっと一緒でなきゃいやだあ!!」
もっともそれが言葉として伝わったかどうかはわからない。単なる絶叫に過ぎなかったのだから。
気がつけば頭から肩から真生の腕に抱きかかえられている。
しまいには嗚咽が過ぎて息が苦しくなっている。全身がぶるぶる震える。抱かれた腕にそっと背中をさすられて、
「息を吐いて。吐いて……吸ってばかりいないで」
指示されるままに、あがあがと口を動かすばかりである。
泣いて震えてあぐりはただ真生の腕の中にいた。
婆ちゃんの墓参りは、また今度行くことになった。
「いつだって行けるよ。ずっと一緒にいるんだから」
と穏やかに言う真生が車のハンドルを握っている。大人びた声のわりには真生とて泣き腫らした目をしているのだが。
助手席のあぐりはティッシュの箱を抱えて、まだ涙や鼻水を垂れ流しては身を震わせている。
車は真柴本城の田園地帯を抜けて首都高速道路に入ろうとしている。
後になって考えてもみれば、あぐりはこれまで感情のままに泣き喚いたことはないのだった。婆ちゃんが死んだ時だって涙ひとつこぼさなかった。
あの玄関で風邪の真生と再会するまでは。
真生の存在こそが感情の表出を助けてくれたのだ。
あぐりは何故だかずっと感情が鈍麻していた。いつからかなのかもわからない。母親が亡くなってからか。父親がパラグアイ(海外!)に行ってからか。
それとも性自認と関係があるのか。知ったこっちゃない。
ただ、だからこそ死にたかったのだろう。
ならば真生と別れてはいけない。
感情を蘇らせてくれた真生がいなくなれば、再び心の見えない闇に沈んで死を願ってしまう。
といったことはもっと後、真生が海外に渡ってから理解した事実だが。
ランドローバーで都心に向かっている今、泣き疲れたあぐりはただ「まお」と「ちゅき」を小声で繰り返すだけの赤ん坊と化している。
飽きもせずにそれに「うん」「好き」などと応えて真生は、しまいにはこう言うのだった。
「真生のまは、待っててのま」
「……真生のまは……待ってるのま」
そう言ってあぐりは、ようやくにっこりと笑った。
泣きながら産婦人科医に取り上げられた赤ん坊が、生まれて初めて笑うかのように。
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