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第96話

「今日はまだ病院から呼び出しがないね。珍しい」  改めて言ったのは、洋食屋のテーブルに着いてからだった。  あぐりはナポリタンの目玉焼きのせ、真生はハンバーグランチを食べている。 「ビールも頼もうよ」  というあぐりの言葉に真生は首を横に振った。 「後で月島まで送って行くから。月曜からまた仕事なんだろう?」  いきなり現実に引き戻された。きゅっと唇を噛みしめるあぐりである。ずっと二人きりでいられると思っていたのに。  悔し紛れに言ってしまう。 「真生さんこそ仕事は? いつもは一緒にいると必ず病院から呼び出されたのに」  真生は静かに答えた。 「病院は辞めたから」 「え、何で?」  とフォークを置いた。ちょうどナポリタンを食べ終えたところだった。珍しく真生の方が食が進まず、まだハンバーグをちまちま啄んでいる。 「ねえ、何で辞めたの?」 「海外に行くから」 「はい?」  あぐりは昨夜に続いて、またぽかんと口を開けてしまう。  真生はにわかに勢いよくランチを食べ始める。口中に物が入っていれば答えずに済むと思ったのか、 「ねえ。何なの、海外って……?」  重ねて尋ねるあぐりに構わず黙々と咀嚼している。  二人とも食事を終えて店員によって片づけられたチェックのテーブルクロスの上に食後のコーヒーが届けられた。  それに手をつけたのは真生だけである。  あぐりはまだ答えを待って真生を見つめている。視線で穴が開きそうな勢いである。  コーヒーを一口飲んで、ようやく真生が口を開いた。 「男は失恋したら海外に行くんだよ」 「はい?」  そんなの聞いたことないぞ。 「あっちゃんから何の連絡もなくて、スマホは通じなくなるし、手紙を出しても返事もない……」  と手の中のコーヒーカップを睨んでいる。 「ふられたと思った。なら……どうせ一人なら、前からやりたかったことをやろうと思った」 「ええ? だって……俺が、俺は別にふってないし」 「風邪の時、玄関で言ったじゃないか。あんなことを……だから僕は……」 「忘れたって言ったくせに」  と底意地悪く蒸し返す。  真生は答えず、あぐりが目も向けていないコーヒーを「飲んで」と示す。あぐりは真生を睨んだまま、砂糖もミルクも大量に入れてスプーンで盛大にかき回す。  真生はコーヒーカップの最後の一滴まで飲み干すとソーサーにそっと置いて、   「海外青年協力隊に産婦人科医として参加する」   「えっ? でも……えええっ?」 「海外に滞在するのは二年間だけど、事前に国内で教育期間もある。どうせならこれまで出来なかったこともやろうと思って仕事は早めに辞めた」 「な……何をやるの?」 「語学の勉強とか山行(さんこう)とか。保護猫活動も少し手伝いたいし。当分は貯金で食いつなぐ」  一人で頷く真生は、ほっとしたような顔である。  対するあぐりは、さっきからまともな言葉を発言していない。 「え? いや、だって……えええっ?」  もう何をどう考えたらよいのか見当もつかなくなっている。 「冷めるよ」  真生はまたあぐのりコーヒーを手で示す。ミルクや砂糖を入れたきりまるで手を付けていないのだ。  あぐりは一度持ち上げたコーヒーカップをがちゃりと乱暴にソーサーに置くなり、   「何だよ、それ! 二年間海外に行く!? 一緒に住むって言ったのに!!」  にわかに怒鳴りつけていた。  ようやく意味が飲み込めたら瞬時に怒りが沸き上がって来たのだ。 「出発は来年だから、今年はまだ一緒に暮らせるよ」 「……ありかよ。そんなの」  呆れて声も出ない。  驚きと怒りとその他いろいろ……怒涛のごとく押し寄せた思いを表現する言葉が見つからないのだ。一人で何度も「えええっ!?」と声を発するばかりである。  真生は黙って会計票に手を伸ばしている。時々手で目を擦っているのは、涙を堪えているらしい。そうだった。凶悪顔のくせに真生は涙もろいのだ。 「私は一人で海外に行くと決めたんだ。なのにまた、あっちゃんとこういうことに……」 「じゃあ、また別れる?」  やけくそで言った途端に、真生の目から怒涛の涙があふれ出て来た。両手で顔を覆っているが嗚咽は隠せない。  さすがに周囲の客が興味津々で様子を伺っている。  あぐりはため息まじりにポケットからスマートフォンを出して文字を打つ。  真生のポケットでスマホのバイブがぶぶぶと鳴る。  挑むように涙で濡れた目であぐりを睨むと、真生は殊更ゆっくりとスマホを出した。 〈泣くな。別れない。何年でも待つ〉  あぐりのLINEに既読がつくと同時に、真生の表情が晴れ渡った。何だか妙に忌々しい。 〝何だこの台詞は〟第三弾を発動してしまう。 〈あっちゃんのは?〉  と畳みかける。真生は、 〈愛してるの 世界一愛してるの 誰よりも愛してるの〉  と返して来る。  そして満足そうにスマホを閉じると、ハンカチを出して涙を拭くのだった。  逆にあぐりは腹立たしさが募るばかりで、 「行こう」  と真生の手にある会計票をひったくると席を立った。  

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