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第94話
暗闇であぐりはにわかに飛び起きた。
勢い余ってベッドから床に転げ落ちた。
誰かが何か言っている。
「あっちゃん?」
と問う声が誰のものだかわからない。心臓は恐ろしいほどにどくどく高鳴っている。
「あっちゃんがいないんだよ……誰か、あっちゃんを見なかったかい?」
婆ちゃんがまた暗闇をさまよっていた。
目を覚ましても室内は真っ暗である。
「帰らなきゃ……」
動悸が治まらないまま身を起こした。
「どうした? あっちゃん」
上から伸びた手が身体に触れる。荒い鼓動を確かめるかのように掌が胸に触れている。促されてベッドに這い上がる。
気がつけば自分は本城一高の体操服を着ている。胸に「三年四組田上真生」と名札が縫い付けられているのが手触りでわかる。
一瞬、自分がどの時空間にいるのかわからなくなりまた動悸が激しくなる。
レモンメレンゲパイのあの後に戻った?
ならば今すぐ婆ちゃんを安心させに帰らなきゃ。
今ならまだ間に合うはずだ。
誰かに背後から拘束されているのを振り解こうとする。
隣室で小さくみゃおんと猫の声がした。
「お千代さんは時々寝言を言うんだよ」
ふふふと笑って身体が揺れる。
さっきからあぐりの身体を拘束しているのは真生の腕である。
そうとも。ここは真生の家だ。サザエさんちみたいな古い家。
漂っている香りは真生のヘアトニックである。あのツンツンした剛毛を整えるつもりで、後頭部だけ整えきれない整髪剤。
覚えているとも。
昭和チックな家は風呂場のタイルも懐かしい水玉模様だった。
何度も愛し合って寝落ちして、目覚めたら風呂の用意がされていた。風呂で真生に身体を洗ってもらった。
また身体中に妖艶な愛の刻印が残っていた(真生は言う程テクニックがないわけではない)。口惜しいからあぐりも真生の身体にそれを残した。あまりうまく出来なかったけど。
そうしてまた体操服を着たのだ。
寝室のシングルベッドは二人で寝るには狭すぎる。折り重なるように眠ってもちょっと寝返りを打てばすぐ床に落ちてしまう。
ねぼけて落ちたに過ぎない。
それだけのことだ。別に不吉なことなど起きていない。自分に言い聞かせながらも、小刻みに震えるのは止まらない。
「今度は誰が死ぬのかな?」
思わず口をついて出た。
真生の息使いや鼓動が背中から伝わって来るにつれ、たとえようもない不安が襲って来る。
「二人でこんなことしてて……また何か起きたらどうする?」
「何か起きたら?」
「婆ちゃんは死んだ。二人でいたから、だからきっと……」
にわかにあぐりは振り向いた。暗闇に見えるのは亡霊のような真生の影だけである。
「ねえ。今度は誰が死ぬの? 叔母ちゃん? まゆか姉ちゃん? それとも……」
真生の手があぐりの左胸をゆるゆると撫でている。砂浜に押し寄せる穏やかな波のような動きである。もしかしたら聴診器を当てるかのように掌で鼓動を聞いているのだろうか。
「名前を言って」
質問の意味がわからない。反射的に、
「真生さん?」
と答えると密着した身体が揺れる。くすくす笑っているらしい。
「私じゃない。自分の名前を言って」
「篠崎あぐり」
それだけではいけない気がして訊かれていないことまで喋る。
「あぐりっていうのは余計な子供に付ける名前なんだ。俺は末っ子でいらない子供だったんだ。だから婆ちゃんはいつも……」
「あっちゃんと呼んでいたね。だから僕も、あっちゃんと呼ぶ」
耳元でキスするように囁かれる。
見えない中で、真生の顔を見上げた。意味を知っていたから〝あっちゃん〟だったのか。
少し鼓動が落ち着いて来る。自分から真生の胸に耳を寄せる。安定した音がとくとくと体内の時を刻んでいる。
そしてまた隣室でみゃおんと猫が鳴いた。
ああ、そうだ。
猫の声が答えていたのだ。
「あっちゃんがいないんだよ。誰かあっちゃんを知らないかい?」
と暗闇に呼びかける婆ちゃんに応えたのは「みゃおん」という声だった。
「みゃうん。あぐりなら真生といるよ。みゃおみゃお」
「真生? ……ああ、田上真生さんだね。親切な産婦人科の先生なんだよ」
「さっきからみゃーみゃーと二人で盛 ってばかりだよ。うるさくてかなわない」
婆ちゃんに何を告げ口しているんだ!?
と飛び起きようとしてベッドから転げ落ちたのだ。
あぐりはようやく口許が緩んだ。
「じゃあ、大丈夫だね。あの親切なお医者さんと一緒にいるなら、あっちゃんは大丈夫だよ」
とぼとぼと歩いて行く婆ちゃんの前を、牡丹灯籠の明りが照らしている。
それを持っているのは頭の上に尖った耳が突き出している人間……いや、猫だったのかも知れない。
あれはお千代さんだったのだろうか。
「婆ちゃんは、お千代さんと一緒だから大丈夫なんだ」
誰にともなく言うとまるで猫のようにすりすりと真生の肩口に額をこすりつけた。
頭の上から爽やかで懐かしい香りが漂って来る。暗闇に身を包む体温は田上真生に違いない。
そして身体に回された手を掴んで指をもてあそぶ。それを玩具のように握り締めたまま、再び眠りに落ちた。
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