1 / 10
第1話:黒山羊
父ゆずりの水銀色の髪に、母ゆずりの西地海色の目。そして、ありあまるほどの好奇心。父が市場に行く日を見はからって、ぼくは村を抜けだした。もう半分大人だ、と思っていた。五月、ぼくは十歳で、きみにいわせれば餓鬼 だった。
ぼくの足で山村を三時間も下ったところに、メラグラナータの市場はあった。甃 につらなる露店は粗末ながら、村にない活気にあふれていた。異国の焼き菓子、山盛りの果実、色とりどりの花々、生きた牛馬、華やかな服飾、怪しげな古道具、そして大勢の人! 祭りのさなかにいるようにぼくはわくわくした。
そこいらじゅうに、グラナータ市のシンボルである柘榴 の意匠。古代十四世紀ルネサンス風の石造りの街は、実際は統暦二四四〇〇年代のレプリカだ。太古のナスル朝グラナダ王国ともエスパーニャ王国ともなんの所以 もなく、ただ初代市長の紋章が石榴 の盾で、柘榴が特産物なだけだった。
裏通りの集合住宅 、窓辺に矮牽牛花 。大柄な男がぼくにぶつかった。すみません、とぼくはわびた。男は大げさな声をあげて呻いた。もう一人の浅黒い男がいった。
「おい、バンビーノ。おれの相棒の腕がイカレちまったみたいだ。医者代かしな」
「お金は持ってません」
困惑した。本当に一奥利 も持っていなかった。
「金がない? じゃあ、体で払ってもらおうか」
二人が両側からぼくの肩をつかんだ。男たちは下卑た笑いを浮かべた。
「見ろよ、上玉だ」
「こりゃ高く売れるぜ」
こいつら、人売りだ。必死にもがいたけれど、屈強な腕はびくともしなかった。引っ立てられた先に鰐亀みたいな自動車 。格子つきに改造された窓。
「バンビーノ、息止めて目ぇつむれ」
少年の声。ぼくは素直に従った。何かがぱらぱらと振りかかった。男たちが呻いて、むせた。ぼくはこわごわ目をあけた。路地に散った真っ赤な香辛料。男たちは洟を垂らして、目もあけられない様子だ。
香辛料売りだろうか。干からびた生薬 入りの麻袋にかこまれ、黒いパンツの少年が佇んだ。それがきみだった。
「辣椒 だ。さっさと洗うんだな、瞼が蕃茄 みたいになるまえに」
くそ、おぼえてろよ、と男たちは捨てゼリフを吐き、おぼつかない足どりで逃げていった。ぼくはコッポラ帽を脱いで、肩の粉を払った。鼻がつんとして、目が潤んだ。きみの声。
「大丈夫か?」
ぼくははっとした。黒いパンツと見えたきみの足は、足首まで黒い巻き毛に覆われているのだった。腰に麻布を巻いた裸。オニキスのような黒い髪、黒い目、細い顎。黒山羊だ、と一目で思った。
母はよくいっていた。ひとりで外を出歩くと、牧羊神 に襲われてしまうよ。上半身が男、下半身が山羊の蛮神。パーンが、たまに人馬 になったり、半獣人 になったりしたけれど、おどし文句はいつも同じだった。
「きみってパーン?」
ぼくは大まじめにきいた。きみは目を丸くして、次の瞬間、大笑いした。
「まいったな」
きみは涙をふいた。そんなに笑わなくてもいいじゃないか、と思った。きみは真顔になった。
「メルクーリオ・グリエールモ・アキラーノ。早く山へ帰んな」
「どうして……」
絶句した。どうしてぼくの名を? どうして帰らなきゃいけないの? ぼくの心を読んだようにきみは言葉を重ねた。
「ここらで泰坦人 のバンビーノったら、ジョーヴェ・アキラーノの一人息子しかいない。ティターニは天然記念物だ。帰るんだ、早く。また人さらいに会いたいか」
きみの怒ったような声に驚いて、ぼくは人ごみを縫って駆けだした。ぼくの胸で銀の正十字架 が跳ねた。
山路を登りだしてから、気づいた。きみの名前をきかなかった。それどころか、お礼もいっていない。大事な売り物をだめにして助けてもらったのに。
山の中腹で、ぼくは振りかえった。五月のメラグラナータは、嵐の森のように騒々しかった。
ともだちにシェアしよう!