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第1話:黒山羊

 父ゆずりの水銀色の髪に、母ゆずりの西地海色の目。そして、ありあまるほどの好奇心。父が市場に行く日を見はからって、ぼくは村を抜けだした。もう半分大人だ、と思っていた。五月、ぼくは十歳で、きみにいわせれば餓鬼(バンビーノ)だった。  ぼくの足で山村を三時間も下ったところに、メラグラナータの市場はあった。(いしだたみ)につらなる露店は粗末ながら、村にない活気にあふれていた。異国の焼き菓子、山盛りの果実、色とりどりの花々、生きた牛馬、華やかな服飾、怪しげな古道具、そして大勢の人! 祭りのさなかにいるようにぼくはわくわくした。  そこいらじゅうに、グラナータ市のシンボルである柘榴(メラグラーナ)の意匠。古代十四世紀ルネサンス風の石造りの街は、実際は統暦二四四〇〇年代のレプリカだ。太古のナスル朝グラナダ王国ともエスパーニャ王国ともなんの所以(ゆえん)もなく、ただ初代市長の紋章が石榴(メラ・グラナータ)の盾で、柘榴が特産物なだけだった。  裏通りの集合住宅(アパルタメント)、窓辺に矮牽牛花(ペトゥーニア)。大柄な男がぼくにぶつかった。すみません、とぼくはわびた。男は大げさな声をあげて呻いた。もう一人の浅黒い男がいった。 「おい、バンビーノ。おれの相棒の腕がイカレちまったみたいだ。医者代かしな」 「お金は持ってません」  困惑した。本当に一奥利(オリオーネ)も持っていなかった。 「金がない? じゃあ、体で払ってもらおうか」  二人が両側からぼくの肩をつかんだ。男たちは下卑た笑いを浮かべた。 「見ろよ、上玉だ」 「こりゃ高く売れるぜ」  こいつら、人売りだ。必死にもがいたけれど、屈強な腕はびくともしなかった。引っ立てられた先に鰐亀みたいな自動車(マッキナ)。格子つきに改造された窓。 「バンビーノ、息止めて目ぇつむれ」  少年の声。ぼくは素直に従った。何かがぱらぱらと振りかかった。男たちが呻いて、むせた。ぼくはこわごわ目をあけた。路地に散った真っ赤な香辛料。男たちは洟を垂らして、目もあけられない様子だ。  香辛料売りだろうか。干からびた生薬(エルベ)入りの麻袋にかこまれ、黒いパンツの少年が佇んだ。それがきみだった。 「辣椒(チーリ)だ。さっさと洗うんだな、瞼が蕃茄(ポモドーロ)みたいになるまえに」  くそ、おぼえてろよ、と男たちは捨てゼリフを吐き、おぼつかない足どりで逃げていった。ぼくはコッポラ帽を脱いで、肩の粉を払った。鼻がつんとして、目が潤んだ。きみの声。 「大丈夫か?」  ぼくははっとした。黒いパンツと見えたきみの足は、足首まで黒い巻き毛に覆われているのだった。腰に麻布を巻いた裸。オニキスのような黒い髪、黒い目、細い顎。黒山羊だ、と一目で思った。  母はよくいっていた。ひとりで外を出歩くと、牧羊神(パーン)に襲われてしまうよ。上半身が男、下半身が山羊の蛮神。パーンが、たまに人馬(センタウロ)になったり、半獣人(サティロ)になったりしたけれど、おどし文句はいつも同じだった。 「きみってパーン?」  ぼくは大まじめにきいた。きみは目を丸くして、次の瞬間、大笑いした。 「まいったな」  きみは涙をふいた。そんなに笑わなくてもいいじゃないか、と思った。きみは真顔になった。 「メルクーリオ・グリエールモ・アキラーノ。早く山へ帰んな」 「どうして……」  絶句した。どうしてぼくの名を? どうして帰らなきゃいけないの? ぼくの心を読んだようにきみは言葉を重ねた。 「ここらで泰坦人(ティターニ)のバンビーノったら、ジョーヴェ・アキラーノの一人息子しかいない。ティターニは天然記念物だ。帰るんだ、早く。また人さらいに会いたいか」  きみの怒ったような声に驚いて、ぼくは人ごみを縫って駆けだした。ぼくの胸で銀の正十字架(ロサーリオ)が跳ねた。  山路を登りだしてから、気づいた。きみの名前をきかなかった。それどころか、お礼もいっていない。大事な売り物をだめにして助けてもらったのに。  山の中腹で、ぼくは振りかえった。五月のメラグラナータは、嵐の森のように騒々しかった。

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