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第2話:きみの名

 十三歳になった五月、ぼくは兎のように落ちつかなかった。こんどからは、父同伴だが堂々と市場へ行ける。あれから何度かこっそりと街へ下りたが、きみには一度も再会できなかった。 「クーリオ、何かいいことあったみたいね」  村の教会の裏手、セレーレおばさんがいった。この教会広場を中心に正十字路が伸び、煉瓦小屋が建並ぶ。ぼくらの住むオリントポスは、大国(ギガント)衝突(マキアー)のさなかに開拓された村だ。だが、往年のにぎわいは見る影もなく、寡婦の住まいが数世帯ばかり。この村でぼくは最年少だった。みんなぼくを息子か孫のように可愛がってくれる。 「うん、ちょっとね」  ぼくは含み笑いして、手斧を振りろす。薪が真っ二つになる。異人(パガーニ)の少年に会えるかもしれないから……なんていったら、どんな顔をされるか。おばさんの心臓が止まってしまうかもしれない。  女の子の金切り声。ああ、ヘルサが癇癪を起しているにちがいない。ぼくは斧を切株に打ちこんで、声のほうへ駆けた。  十字路の東、ヘルサ・シスネロスは顔を真っ赤にして泣き喚いていた。体は十五歳だけれど、気持ちは五歳のまま。年子の妹のラーラはあきれ顔で、だがヘルサの手を握って根気強くいいきかせる。 「ヘルサ。泣いてちゃわかんないよ。ラーラに話してごらん。何が嫌なの」 「……クーリオのパーパ」 「おじさんが、どうして嫌なの」 「……ラーラにはにこにこするのに、ヘルサにはイヤな顔するの」  ヘルサはわんわん泣いた。幼子のように悪意に敏感なのだ。ラーラとぼくはため息をついた。ラーラはいう。 「ヘルサ、きいて。おじさんはヘルサが好きじゃないかもしれない。人が何人もいたら、なかには自分を嫌う人がいるのはしょうがないことなの。でもね、反対に好きになってくれる人もいる。ラーラはヘルサが大好きよ」  ラーラの横顔は、大人の女性のように強かった。ぼくはうなずく。 「ぼくもヘルサが好きだよ。ごめんね。父さんに文句いっておくから、泣かないで」  ヘルサは泣き顔のまま、にこっと歯を見せた。  この村に若者はヘルサとラーラとぼくしかいなかった。誰かが決めたわけではないけれど、たぶん、近い将来、ぼくはラーラと結婚することになるだろう。ティターニの血を絶やさないために。ラーラのことは好きだ。けれど、それは姉を慕うような気持ちだった。恋ではない。  そうだ、ぼくは恋を知りたいんだ。薪をたずさえて家へ急ぎながら、唐突に気がついた。  よく晴れた朝、父のジョーヴェとともにぼくは下界へおりた。メラグラナータの市場は、三年前と変わらないにぎわいだ。ぼくはそわそわと露店に目を走らせる。香辛料を売る少年はいなかった。 「人が多くてびっくりしただろう。あまり口をきくなよ。罪深い邪教徒(サタニースタ)ばかりだ」  父はコッポラ帽をかぶりなおし、水銀色のひげを掻いた。ティターニには絶対神の信仰があった。その神を、ぼくは心から信じることができなかった。ぼくらの信じる神が正しいなら、なぜぼくらティターニは滅びようとしているのか。しかし、真っ向から否定することもできなかった。枕辺で母におとぎ話のようにきかされた、神の罰。永劫の地獄の業火。ぼくはつい胸の正十字架を握りしめた。 「きょうは何を?」 「まずはこいつを売るところからだ」  父は背中のかごをゆらした。まるまる太った牝の鵞鳥が、ゲーと鳴いた。  父が(おとな)ったのは家畜問屋だった。樽みたいに肥えたおかみは、毛づやが悪い、嘴が曲がってると難癖つけて値切った。九〇〇奥利(オリオーネ)にしかならなかった。ぼくはがっかりした。村のみんなで一生懸命世話したのに。父の悪態。 「まったく、これだから邪教徒の女は。その服も小さいな。新しいのを買ってやる」  ぼくは自分の体を見おろした。生成りのシャツと、藍の褪せたサロペッテ。シャツはくたびれて、デニムの裾は短い。でも、村のみんなの服はもっと粗末だ。ぼくは首を振る。 「まだ着られます」 「おまえはゆくゆくオリントポスの(おさ)になる男だぞ。格好くらいはぱりっとしないとな」  露店に吊るされた服を、父はあさった。ぼくも適当に一枚を手にした。白いドレスだった。薔薇(ローザ)模様のレエスは古びてはいるが、精緻な細工だ。花嫁が着そうだ。父も同じことを思ったようだ。 「ラーラに着せたいな。あの子の花嫁姿はきれいだろうな」  まちがってもヘルサのことはいわないのだ。ぼくの気持ちは沈んでいった。  用事がすんだころ、父とぼくの手荷物は、ちょっとした行商人のようだった。 「ほかに見たいものはあるか」  父はいった。ぼくはつぶやく。 「香辛料がほしい」 「香辛料?」 「辛いものが好きなんです。胡椒(ペーペ)とか辣椒(チーリ)とか」 「ほう、それは初耳だ」  父は意外そうだった。  中央広場が騒々しかった。数十人の輪、野次を飛ばす男たち。ぼくははっとした。父は眉をひそめる。 「賭博か喧嘩だ。行こう、クーリオ。われわれの見るものではな……」  父の言葉は耳に入らなかった。ぼくは駆けだしていた。人垣に割りこんで、ぼくは衆目を集めるものの正体を目撃する。 「生意気いうな、ここはおれの場所だぞ」  商人(あきんど)らしき中年男が、瘦身の少年の襟をつかんだ。ぼくの胸は高鳴った。黒山羊みたいなきみだった。きみの腕に、三年前はなかった(いれずみ)の渦。きみの黒い目が、ぼくを捉えた。瞬間、きみはにやりと笑った。  きみは後ろ手に麻袋の薑黄(クークマ)をつかみ、男の顔に浴びせた。黄色い煙幕。わっと男は目を押さえ、くしゃみを連発した。野次馬がどっと喝采する。 「いいぞ、若造(ラガッチーノ)」 「もっとやれ」  中年男は真っ赤な(デーモネ)みたいになって、目をつむったまま、めくらめっぽう殴りかかった。きみは涼しい顔でかわして、男の尻を蹴った。  男は頭から薑黄の袋に突っこんだ。真っ黄色の涙と洟を垂らし、男は死ぬんじゃないかというほどむせこんだ。野次馬の大爆笑。男のほうに非があったのかもしれないが、ぼくは少し気の毒になった。 「何やってんだい、(イェ)。売り物を台なしにして」  どすのきいた女の声。黒髪の背の高い女が拳骨を見舞った。痛っ(アーヒャ)! ときみは頭をかかえてうずくまる。野次馬がどっと笑った。ぼくはぽかんとした。咳きこむ男の背をさすり、黒髪の女はいう。 「うちの子が悪かったね。イェ、そこの井戸につれてってやんな」 「なんでおれが」 「自分の始末は、自分でつけな」  きみは不服顔だったが、男を手助けして場を離れた。女は手を二度叩いた。その手にも黒い黥。 「はい、見世物はおしまい。お客じゃないなら散んな」  野次馬はてんでばらばらになった。歌劇場の石壁に樹木の浮彫(リリェーヴォ)、裂けた柘榴の実。ぼくの肩を抱いて、父がささやく。 「見たか、あのおぞましい黥と毛むくじゃらの足。まるで悪魔(サータノ)じゃないか。さあ、帰るんだ、クーリオ」  ぼくはうなずいて、後ろ髪ひかれつつ歩きだす。できれば、きみと言葉を交わしたかったのだけど。  でも、ひとつだけわかった。きみはイェというのだ。なんだか山羊の鳴き声みたいな名前だ。ぼくはひそかに微笑んだ。

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