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第3話:山村

 村に大人の男は父のジョーヴェと、もう一人おじいさんがいるだけだった。エスクーラピオ・ロッシニョーリという大仰な名前の老人は、もっぱらピーオと呼ばれた。  小屋の窓ごし、おじいさんの生薬(エルベ)の菜園に蝶が舞う。まるで魔女の庭だった。ぼくは母菊(カモミーラ)茶をすすった。枯草みたいな味だ。 「ピーオ。足に黒い毛が生えてて、体に渦巻みたいな(いれずみ)をしてる種族ってわかる?」 「ああ、知っている。待ちなさい」  ピーオは老眼鏡を押しあげつつ、よろよろと席を立った。村の最年長のおじいさんは元軍医で、とても博識だ。オリントポスの外のことは、みんなこの人に教わった。  壁一面の古びた背表紙、ピーオは一冊を抜いた。黄ばんだページに、三つの世界地図。五億年前の一続きの盤古大陸(ヴェリョパンゲア)、二億五千万年前の大西洋に隔てられた分離大陸(トルンゲア)、そして現在の再び大集結した新超大陸(ノヴォパンゲア)――つまり、アニュージア共和連邦だ。北の主大陸と、南の副大陸が、かろうじて細くつながっている。ピーオは震える指を主大陸に置く。 「ごらん、このペーデ半島。ここがわしらの村。前にも教えたな?」  セラレーネ州の最北端。膝を曲げた長靴みたいな半島が、北極海にせりだしている。ぼくらの山村は西地海寄り、太腿のつけねあたりだ。 「うん、大昔はイターリアっていったんでしょう?」 「そうとも、よくおぼえてたな。この主大陸の、ずっと東」ピーオは指を北東へずらした。東岸の内陸を示す。「ここがカンネティア州。かつては支那(チーナ)という大国が牛耳っていた。そのカンネティアの、この高原が雪絨(シュエロン)。ここにいたのが藩族(パンズ)だ」  パンズ。ぼくは自然とパーンを思い浮かべた。山羊の蛮神。おじいさんはもう一冊を抜きだした。(ページ)に白黒の写真、渦巻きの黥に毛深い足の男女。まちがいなかった。 「こういう人を、街で見かけたんだ。藩族の子孫なのかな」 「うん、おそらく末裔だろうな。ギガントマキアーで故郷を追われたんだろう。あそこは酷いことになったから」  おじいさんはそれ以上は語らなかった。戦争の話はあまりしたがらないのだ。  統暦二四七五四年、今は第七文明期だという。かつての百年(ティターノ)戦争(マキアー)大国(ギガント)衝突(マキアー)で文明は崩壊しかけたが、世界情報記録機関(レジストリ・アカシチー)に第五、第六文明期の叡智が蓄えられている(ぼくら一般市民が閲覧できるのは、ごく一部の情報だけだが)。おかげでぼくらは洞窟で生肉をかじらなくていいものの、SFのような目覚ましいテクノロジーは持つことを許されない。この地球(テッラ)にこれ以上の負担をかけないこと。それがアニュージア共和連邦の各州知事の一致した方針だった。  ぼくは藩族の写真に見入った。特徴を撮影するためだろう。男女は乳房も股間もむきだしだった。腕や胸や背中は黥に彩られ、腰から下は黒々と豊かな毛に覆われていた。 「なんで下半身だけ毛が濃いんだろう?」 「始祖の神がそういう姿だったからだと彼らはいっている。先祖が上半身だけ湖につかって漁をしていたからだ、ともな。この毛の濃さが好色さに結びつけられて、国に迫害されもした。実際、性におおらかな民族だったそうだよ。今はわからないが」  ぼくはまた写真に見入った。男の毛むくじゃらの下半身の大きな陰茎(ファルス)……。 「しかし、異人(パガーニ)とはいえ、姦淫は罪だ。男女の婚姻の(もと)に、子をなすためにのみ。それが正しいんだ。わかるだろう、クーリオ?」  ピーオは敬虔な信徒だった。ぼくはうなずいた。まるで別のことを思いながら。  村の教会の色彩玻璃(ヴィトラーテ)の光、壇上で父が説教する。われわれティターニだけが主の正しい教えを受け継ぎ、護りつづけているのである、と。(オールモ)のベンチ、七人の寡婦たちとピーオはしんときいている。ヘルサは退屈して舟を漕いでいる。姉を起こそうとラーラはこっそり肩をゆする。ぼくは微笑ましく姉妹を見ている。父の説教は続く。最後の日にわれわれだけが本当の天国へ行ける、すべての不信心者と無神論者と邪教徒は裁きを受けるのだ、と。ぼくは胸の正十字架を握る。ぼくも裁きを受けるのだろうか?

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