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第4話:悪いこと

 メラグラナータの裏通り、立ちはだかる白シャツの男。 「やあ、バンビーノ。いいしのぎがあるんだ」 「ごめん、急ぐんだ」 「悪い話じゃない。二人でちょいと金持ちのばあさんをたらしこんで……」  男が肩に手をかけた。ぼくは黙ってしゃがむ。男はよろめく。ぼくは兎のように駆けだした。足の速さなら人に負けない。男はすぐに諦めたようだ。ぼくはほっと息をついて、早足に歩いた。  石壁に柘榴の実。先週と同じ場所で、きみは店びらきしていた。ぼくはためらった。どう話しかけようか。きみはぼくを知っているふうだったけど、ぼくはきみをよく知らないのだ。きみは気づいているはずなのに、ぼくに見向きもしなかった。赤いオート三輪の荷台から、黙々と麻袋をおろす。大きな袋は甃に置き、小さな袋は台に陳列する。(いれずみ)の腕の筋肉の浅い影。ぼくは意を決した。 「手伝ってもいいかな」  きみは初めて気づいたような顔をした。「悪いけど、手はたりてる」 「だめ?」 「ほんとはたりないけど、雇う余裕がない」  ぼくは噴きだす。「お金はいらないよ」 「そんなだからつけこまれるんだ、バンビーノ」 「きょうはつけこませなかった。変な男に絡まれたけど、ちゃんと逃げた」  きみは笑い声を立てた。犬歯がちょっと尖っている。「きょうだけ特別に雇ってやる」 「やった」  ぼくは小躍りしたいくらいだった。  生薬(エルベ)の袋はずっしりと重かった。でも、ぼくだって畑仕事で鍛えている。へまはしなかった。赤・黄・橙・茶・黒・白・緑の香辛料は、五十種類ほどあるだろうか。 「なんて呼ぶ。メロ? エリオ?」 「クーリオ。きみはイェだろ。名字は?」 「ないよ」 「ほんと?」 「お役所が納得しないから、一応の名字はつけたけど、本当はないんだ」 「そうなんだ。イェは藩族(パンズ)だろう」 「藩族じゃない。おれたち自身がそう名乗ったことはないよ。国が勝手につけた」 「ほんとは何というの?」 「って意味だよ。でも、いいよ。もう滅んだから」 「きみがここにいる」 「言葉や文化の話だ」 「でも、伝統的な黥をしてる」 「これは大人のしるしだ」  きみは腕の黒い渦をさすった。黥は半袖のなかへ続いている。胸や背中にもあるのだろう。 「十八なの?」 「十六」 「ぼくより三つ上なだけじゃないか」 「精神的には大人だ。おまえよりはずっとな」  きみは口をゆがめた。少し悔しかったけど、そのとおりだろうから反論しなかった。  お客さんに乞われ、きみは桂皮(カッネーラ)肉荳蒄(ナッメグ)を包む。肉荳蒄の入れすぎは味を損なうから、玉葱(チポーラ)を併用するようきみは助言する。きみは一〇〇奥利(オリオーネ)札を受けとって、ぼくに六〇奥利の釣銭を頼む。ぼくは硬貨をかぞえ手渡した。きみはいう。 「早いじゃないか」 「計算は得意だよ。おじいさんに教わったから」 「おまえのノンノ?」 「ううん。村の長老みたいな人」  ぼくはピーオの話をした。ギガントマキアーに参加した元軍医で、藩族のことを教わったことも。きみはうなずいた。 「おまえの先生か。村には何人いるんだ?」  ぼくは指を折った。「子供はぼくを入れて三人、女の人が七人、男は父とピーオだけ。十二人だ。小さな村だよ」  ぼくはシスネロス姉妹の話をした。しっかり者のラーラと、小さな女の子みたいなヘルサ。きみはうなずいた。ぼくはいう。 「ぼくが話してばかりだ。きみの話がききたい」 「あら。お友達かい、イェ?」  黒髪の背の高い女、きみに拳骨をくらわせた人だった。ぼくは緊張する。 「クーリオです。はじめまして。イェのお母さんですか?」 「そう。わたしは山嵐(シャンラン)。シエッラでいいよ。イェ、あんたにもこんなまともなお友達がいたのね」  シエッラは大きく笑った。黥の手でかごのお札を何枚かつかんで、きみに渡した。 「それで遊んどいで。悪いことは教えるんじゃないよ」  おおざっぱな感じはするけど、気はいい人みたいだ。ぼくはお礼をいった。きみはにやりとする。 「おまえのおかげで儲かった」  ぼくらは走って街へくりだした。きみはブロンズの柘榴を蹴っ飛ばした。  きみは硝子瓶の飲み物を買った。泡がしゅわしゅわとはじけて、歯にしみるほど甘酸っぱい。ぼくはびっくりした。 「何これ?」 「柘榴曹達(シードロ・ディ・メログラーノ)。知らないのか?」  きみはあたりまえみたいに飲んだ。きっと、この街ではありふれたものなんだろう。しゅわしゅわが鼻の奥に痛かったけど、ぼくは最後の一滴まで飲みほした。  きみは麵麭(パーネ)を買った。ぱりぱりの生地に、扁豆(レンティッチア)のペーストが入っていて、いろんな旨味が凝縮されて、ほっぺたが落ちそうだ。ぼくは感動した。きみはいう。 「うちの香辛料だよ。なあ、旦那(シニョーレ)」  露店のおじさんがウィンクした。  きみは煙草をくわえて、燐寸で火をつけた。薄荷(メントーロ)のいい匂い。ぼくはいう。 「未成年なのに」 「吸うぶんにはお咎めはないよ。十八歳未満じゃ買えないってだけだ」 「どうやって買ったの?」 「うちの自家製。吸うか?」  きみは吸いさしを差しだす。ぼくはためらいつつ受けとった。悪いことをするんだってことと、きみがくわえたものに口をつけるんだってことにどきどきしていた。このくらいなら、地獄の業火に焼かれたりはしないはずだ。ぼくは唇にはさんで、思いきり吸った。  薄荷の煙はひりひりと辛かった。ぼくは涙目。きみは笑い声を立てる。 「バンビーノには早かったな」  きみは吸いさしを奪って、ふかしてみせる。悔しいけれど、様になっていた。  きみは街のあらゆることを知っていて、ぼくがいちいち驚いたり感激したりするのをおもしろがった。なんだかふわふわと幸せで、ぼくは家に帰りたくなかった。北緯五十度の初夏、日暮れは遅い。時間帯はとうにだったけど、まだまだ明るい。 「最後はあそこにしよう」  場末の通り、街にそぐわない猥雑な建物に、鉄のポールに絡まる裸の女のポスター。脱衣劇場(ストリップ・クラブ)だ。きみはにやにやする。 「女陰(ヴァルヴァ)が見られるぞ」  ぼくは首を振った。「だめだ」 「なんで」 「姦淫は、みだりに性的なものは禁じられてるんだ。ティターニの神の御名において」 「みだりに性的」きみは鸚鵡返しにした。「見るだけだぞ?」 「だから、それがみだりなんだよ。男女の婚姻の下に、子をなすためにのみ……それが正しいってぼくは教わった。背けば地獄行きだ」 「なら、この街の連中はみんな地獄行きだな」  きみは口をゆがめた。ぼくは正十字架を握りしめて、黙って首を振った。涙で日差しがにじんだ。きみはため息をつく。 「わかったよ、はなしにしよう」  きみは背を向けて歩きだす。ぼくはしょぼくれてついていった。きみに嫌われたかもしれない。  辿りついたのは街のはずれ、オリントポスへの山口だった。ああ、きみは送ってくれたのだ。ぼくは望みを込めて振りかえった。 「きょうはありがとう。また会いに来てもいいかな」 「いちいちきくなよ。来たきゃ来りゃいいだろ」  きみはいった。ぼくは安心して笑った。きみもあきれたふうに笑って、手を振った。

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