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第5話:一瞬の夏
次の日にでもきみに会いたかったけど、ぼくはこらえた。頻繁に村を抜けだせば、父に知られてしまう。それに、ぼくだって暇じゃない。家禽の世話や、畑の手入れ、家事全般もぼくの仕事だ。でも、家鴨や七面鳥の糞を集めながら、畑の土を鋤 きかえしながら、野菜くずをじっくりと煮ながら、ぼくの心を占めていたのはきみのことばかりだった。
次にきみに会いに行ったとき、もう夏の盛りだった。店番のきみは肉桂色に日焼けして、ますます黒山羊に見えた。ぼくは笑って駆け寄った。きみは人差指を立てて、しーっという。
「かえりそうなんだ」
「何が?」
きみは笑って、半パンツから卵をだした。大きさからして鵞鳥だろうか。きみは卵をくるりと回す。わずかにひび割れて、嘴の橙色が覗いていた。ぼくは目を見ひらいた。きみは殻を剝いで、ひなの頭をだした。濡れた黄色い産毛、閉じた薄い瞼。ぼくは息を飲んだ。
「目があいたら、ぼくらを親だと思っちゃうね」
「ほんと、いいタイミングで来るよな。世話したのはおれなのに」
「ごめん」
「罰として名前を考えろ」
ぼくはしばし悩んだ。麻袋の大蒜 が目に留まった。
「アーリオ」
「大蒜 ? なら、翼 がいい。おい、アーリ」
ひなはぽやんと目をあけた。つるつるの黒褐色の瞳。ぼくときみは歓声をあげた。
ぼくはきみの店番を手伝った。アーリはきみの懐でいい子にしていた。お客さんは微笑ましげな目を向けた。
昼頃、シエッラがやってきた。
「あら、クーリオ。よかったじゃないの、イェ」
きみは気まずそうに目をそらす。シエッラはぼくにいう。
「この子ったら、ずいぶん落ちこんでたのよ。あなたに嫌われたんじゃないかって」
ぼくが来ないのを、そんなふうに思っていたのだ。ぼくはくすぐったくて笑った。きみは仏頂づらだった。
シエッラはひなを引き受けて、きみの店番を免除した。ぼくはいう。
「きょうはぼくが案内してもいい?」
ぼくの暮らす山を登って一時間、山の越のひらけた草地。信じられないほど青く透きとおった泉に、きみは黒い目を瞠る。ぼくはいう。
「ここはラーラやヘルサにも教えてない。一人になりたいときだけ来るんだ」
きみはいきなりシャツを脱いだ。肩や胸の黥の渦巻き。ぼくは驚いた。
「どうしたの?」
「こんなの、泳ぐっきゃないだろ」
きみはためらいなくパンツもおろす。見たかったはずなのにぼくは、きみの裸を正視できなかった。きみは飛びこむ。輝く水しぶき。
「来いよ、クーリオ」
きみは笑って手招きする。ぼくは正十字架をはずし、もぞもぞと服を脱いで、あらぬほうを見ながら水に入った。
きみは蛙みたいに器用に泳いだ。ぼくはそれほど得意じゃない。山にいたら泳ぐ必要なんてないんだ。ぼくのぎこちない動作を、きみは笑う。ぼくは水をかけた。きみもかけかえす。
水に頭まで沈むと、光が束になって差しこんだ。青い光のなか、きみの黒髪が水草みたいにゆらめく。きみの体を縛る黥の渦。ぞっとするほど美しい光景。なのに、きみはわざと変な顔をした。ぼくは笑って水を飲みそうになった。
長くはつかっていられなかった。ここの水は夏でもすごく冷たいんだ。唇を青くして震えながら、ぼくらは草に転がった。地べたがあたたかい。
きみは脱ぎ捨てた服を探って、煙草に火をつけた。ぼくはぼんやりと見ていた。
「吸うかい、バンビーノ?」
きみがからかうようにいった。ぼくはむっとした。
「吸う」
きみは箱ごとよこす。ぼくは一本くわえた。きみはくわえた煙草の火種を、ぼくの煙草に押しつけた。口づけするみたいな至近距離。ぼくは平静をよそおった。焦げくささとともに火が移る。喉にひりひりする薄荷の煙。でも、なんとなく気分がよくなる。箱に商品名はない。
「これって、なんてやつ?」
「隠語は好好 だ」
「ハオハオ?」
「葉っぱだよ」
「なんの?」
「大麻 」
ぼくはむせこんで、煙草を捨てた。「先にいってよ」
「知ってたら吸わなかったろ。大丈夫。ちょっとばかし陽気になるだけだ。カフェイン程度の依存性しかない。やめたきゃ、すぐにやめられる。おれがおまえに危ないもん吸わせると思うか?」
きみはいたずらっぽく笑った。悪意はなかったのだろうけど、ぼくは腹が立った。
「高揚感をもたらすテトラヒドロカンナビノールには副作用がある。常用すればIQが下がるし、幻覚や妄想なんかの精神障害を引き起こしやすくなる。医療行為以外は使うべきじゃないよ」
きみは驚いたみたいだった。「へえ、詳しいんだな」
「ピーオの本に書いてあった」
「インサンも麻 を吸ってた。これとちがう、もっと原始的な種 だ。油をつくったり、縄を綯 ったり。生活の糧だ。そのあたりは一大生産地だった。でも、今はもう」
「ないの?」
「おれたちの故郷自体がない。インサナバードっていう高原だった」
「シュエロンじゃなく?」
「それは国が勝手につけた名前。ギガントマキアーのために、国はインサナバードを兵器の実験場にした。おれたちごと消すつもりだったのさ。知ってるか? 太陽の表面温度の五十倍の熱で、一瞬で人間が蒸発するんだ」
想像もつかなかった。ぼくはいう。
「なんていっていいのかわからないけど、すごく理不尽でひどいことが起きたんだってことはわかるよ」
きみはさみしげに笑って、煙を吐いた。
「今は地図から抹消されて、人は立ち入れない。おれたちの祖 は大陸中に散った。烏 夜里 と名乗ってるけど、おれの名前、本当はケーチェってんだ。インサンの言葉で夜って意味。冬の長い夜に生まれたから。おまえには特別に教えてやる」
故郷を偲んでの行為だったのだ。きみの煙が鼻をくすぐった。
「アーリもつれてくりゃよかったな」
「こんどはそうしよう。きっとよろこぶよ」
ぼくはいった。夏の雲と空がまぶしかった。幸せな気分なのは、きっとハオハオのせいだ。
きみはがばりと半身を起こした。「なあ。そのラウラやエルサって子、可愛い?」
「ラーラとヘルサだよ。可愛い……んじゃ、ないかな。たぶん」
ぼくはしどろもどろにいった。きみは前のめりになる。
「紹介してくれよ」
ぼくはためらった。父は異人 を憎んでいる。村人を山に閉じこめて、街と交流させないようにしているのはそのせいだ。きみを村につれていったら、父は怒りのあまり卒倒するだろう。
「父が許さないよ」
「その子らにだけこっそり会うのは?」
「まあ、それならなんとか。二人が黙っててくれればだけど」
「じゃ決まりだ」
きみは煙草をにじって、いそいそと服を着こむ。ぼくはきみを置いて家に帰りたくなった。
「ねえ、ラーラ。大事な話があるんだ」
まずラーラを説得するのが先だった。妹のいうことなら、ヘルサはきいてくれるはずだから。水車小屋の脇、ラーラは洗濯物を石に叩きつけていた。ヘルサも濯ぐのを手伝っている。ラーラはなぜか頬を赤らめて、白エプロンで手をふいた。
「何?」
「約束してくれる? 誰にもいわないって」
ラーラとヘルサは似かよった顔を見合わせて、同時にうなずいた。ぼくはラーラに耳打ちした。ええっ、とラーラは叫んだ。ヘルサがいう。
「大事な話、ヘルサもききたい」
「クーリオ、あんた正気?」
「ラーラが嫌なら、無理強いはしないよ。でも、悪いやつじゃないから」
「ねえ、ヘルサにも教えてよ」
ヘルサは妹のブラウスの袖を引っぱった。ラーラは思案顔で唸っていたけれど、結局はうなずいた。ぼくに負けず劣らず、ラーラも好奇心は旺盛なのだ。ラーラは姉の手を握って、目を覗きこむ。よくきいてね、の合図だ。
「ヘルサ。クーリオの友達が来てるんだって。村の外の人。ほかの人にはいっちゃだめだよ。とくにジョーヴェおじさんには。クーリオが怒られちゃうから。その人が、わたしたちに会いたいんだって。ヘルサはどうしたい?」
ヘルサはぽかんとしていた。この子の頭の歯車が動きだすには、少しばかり時間がかかるのだ。ヘルサは目を輝かせた。
「ヘルサ、会う」
ぼくは二人を村はずれの森に案内した。きみの黥に、足の毛深さに、姉妹は目をまん丸くした。きみがいう。
「チャオ、お嬢さん方 。ぼくはイェ」
緊張のあまりか、ラーラは固まっていた。ヘルサは何度もまばたきして、きみが幻じゃないことを確かめようとしていた。きみはいう。
「きみたち双子? いや、三つ子?」
たしかにぼくら三人の髪は水銀色だけど、三つ子ほど似ていない。きみはおどけた顔をしてみせる。ヘルサは小さな子のようにきゃっきゃと笑った。ラーラは緊張が解けたみたいだ。
「ラーラです。こっちは姉のヘルサ」
きみはラーラと握手した。ヘルサともした。平等にあつかわれて、ヘルサは満足げだ。
「なんで手に絵が描いてあるの?」
ヘルサはきみの黥を塗ってあると思ったようだ。ぼくとラーラは噴きだした。きみはいう。
「これは針で煤 を皮膚の下に植えてあるんだよ」
「痛そう。なんで?」
「うん、すごく痛かった。けど、これが大人になったしるしなんだ。ぼくの故郷ではね」
ラーラがぼくに耳打ちした。「悪い人じゃなさそう。ヘルサが平気でいるもの」
ぼくら四人は地べたに車座になった。メラグラナータの話、オリントポスの話、きみの故郷の話、姉妹の母親の話、ぼくの父や亡き母の話。夏の空がいつまでも明るいもんだから、ぼくらはうっかりしていた。
「何をしている」
男の怒声に、ぼくら四人は凍った。父は正十字架を掲げて、つかつかと寄ってきた。きみに液体をぶちまける。聖水だ。
「去れ、悪魔 。ここはティターニの聖域だぞ」
ぼくは腕を広げ立ちあがった。「やめてよ。イェは友達なんだ」
「ずいぶんな歓迎だな」
きみは力なく腰をあげ、両手で髪を掻きあげた。口を皮肉にゆがめる。
「心配しなくても、二度と来ないさ。ここがどういう場所か、よくわかったからな」
きみは背を向けて、森をずんずん歩いていく。ぼくは追いかけた。ラーラや父の声がしたけど、構わなかった。
ぼくらは森を抜けて山路を下った。ごめん、とぼくはいった。きみはいう。
「やっぱり、街の女の子とはちがうな。身持ちが堅そうだ。まあ、男でさえ、こんだけお堅いもんな」
「そういういいかた、好きじゃない」
「ああ、悪い。そういうのは、なしなんだったな」
きみの声に他意はなさそうだった。ぼくは黙って早足に歩いた。きみも何もいわなかった。
矢車菊 色の宵闇、市場の明かりは余剰在庫のダイヤモンドみたいに見えた。きみはいう。
「あとは一人で行ける。早く帰んな、バンビーノ」
「バンビーノはやめてよ」
「女と接吻 もしたことないやつぁ、バンビーノで十分だ」
泣きたくなった。きっと、きみは女の子と口づけしたことも、抱きあったこともあるのだ。それでも、きみは地獄の業火に焼かれたりはしないのだろう。ぼくとは別の世界の人……。
黥の手が、ぼくの頬をなぞる。やさしい指先。濃さを増す青のなか、きみの目の不思議な深さ。ぼくはぽうっと見とれた。きみの目が笑う。
「また泳ぎたい。アーリをつれていく。水曜の午後にあそこで待ってろよ」
ぼくが返事をしないうちに、きみは峠路を駆けおりていった。
ぼくはぼんやりとしながら、自分の頬にふれた。きみの指の湿っぽさが残っていた。
約束どおり、ひなのアーリを伴ったきみと泉で落ちあった。数日でひなはずいぶん鳥らしくなり、きみの新鮮な生薬 をたらふく平らげた。アーリは気ままにちょろちょろして、でもきみのそばを離れなかった。
夏のあいだ、ほぼ毎日、ぼくらは泉で会った。水に潜って、人にはできない話をして、ハオハオを吸って、まどろんだ。きみの裸も、さすがに見慣れた。きみのファルスは大きかった。アーリはあっというまに成鳥になった(牡だった)。
秋になると、ぼくらはメラグラナータで会った。次の季節も、その次の季節も。ぼくはすっかり香辛料屋の店番に慣れて、きみと同じくらい街に詳しくなった。
きみに女の子の影を感じることがあった。きみは悟らせないつもりだったろうけど、わかりやすかった。きみの爪がきちんと切られている時期は、つきあってる子がいるのだ。ぼくは気づかないふりをした。何もいわなくても、きみはぼくとの約束を優先してくれたから。
夏が来たら、またぼくらはアーリと一緒に泉で泳いだ。次の年も、その次の年も。こんな日々が、永遠に続けばいいと思った。でも、この世に決して永遠なんてないこともわかっていた。
五月、ぼくは十八歳になった。きみは二十一歳になっていた。
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