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第6話:火を抱く

 ぼくの十八歳の誕生日は、村人総出で盛大に祝われた。ぼくらは七面鳥を丸ごと焼いて、とっておきの葡萄酒(ヴィーノ)の栓を抜いた。父が音頭をとる。 「メルクーリオの成人を祝って」  乾杯(チンチン)! と十二人の村人は杯を掲げた。父が手を広げた。 「おっと、大事なことをいい忘れた。クーリオも十八、ラーラは十九。夫婦の契りを結ぶには十分に大人だと思うが、どうだろう?」  最初に拍手したのはピーオだった。セレーレおばさんや、ほかの寡婦たちも賛同の拍手をした。手を叩かないのは、ぼくとヘルサとラーラばかり。みんなの祝福の言葉に、ラーラは笑顔で頬を赤らめている。いたく幸福そうだ。ああ、とぼくは思った。幼いころから予感していた、ラーラとの結婚。でも、いざそれが現実となると、はっきりと自覚した。ぼくの望みは、まるで別のところにあるのだと。  ぼんやりしているぼくの肩を、父が叩いた。父はささやく。 「おまえも、汚らわしい邪教徒とつきあうのはやめて、ティターニの血を繋ぐことに専念するんだ。大人になれ。いいな」  自分の顔が青ざめるのを感じた。ぼくときみの密会を、父は知っているのだ。あれだけ頻繁に姿をくらませば、気づかないほうがおかしかった。父は目顔で返事を要求した。ぼくはうなずくしかなかった。  葡萄酒の火照りをさましたくて、ぼくはおもてへでた。華奢な背中が石垣に座っていた。ヘルサの沈んだ横顔。ぼくは隣に腰をおろした。ヘルサはいう。 「ラーラ、結婚するの?」 「そうだよ、ぼくと夫婦になるんだよ」 「ヘルサ、ひとりぼっちになっちゃう」 「セレーレおばさんがいるだろ」 「マンマは先に死んじゃう。ヘルサ、ひとり」  ヘルサは今にも泣きだしそうだった。ぼくはヘルサの手をとって、目を覗きこんだ。 「ヘルサ、きいて。ぼくと一緒になっても、ラーラはきみの妹だよ。ぼくだってきみの友達だ。ひとりじゃない。だから、心配しなくていい」 「ほんとに?」  ぼくはうなずいた。ヘルサは歯を見せた。いつまでも小さな女の子みたいなヘルサ。正直、負担だ。けれど、この子を放りだすなんて、ラーラは絶対しないし、ぼくだってしたくなかった。ぼくは大人にならなければいけなかった。本当の意味で。ぼくは正十字架を握りしめた。  十八歳の初夏、きみとアーリと泉ですごすのも五年目。アーリは泉がお気に入りで、いつまでも泳いでいる。飛んでいるつもりなのか、ばしゃばしゃと羽ばたく。 「水鳥なんだよな。つい忘れるけど」  煙草をふかしつつ、きみは裸で草に寝ている。ぼくも裸で、皮膚の水滴が乾いていくのを感じている。 「貸店舗に入れそうなんだ、ソルボ通りの」きみは街の目抜き通りの名をあげた。「道ばたでの小ぜりあいから解放される。雨風も気にしなくていい」 「それは、おめでとう」 「店で働かないか? おまえなら勝手がわかってるし、アーリも懐いてるし」  返事に詰まった。きみの信頼を無下にするのがつらかった。 「ずっとあの村にいる気か? おまえはいますぐ、どこへでも行けるんだぞ。そのままの意味でな」  ぼくはうなずけなかった。けれど、即座に断ることもできなかった。きみは苦笑する。 「返事は今じゃなくていい。でも、前向きに考えてくれよな」  五月の光のなか、きみはくわえ煙草で目を閉じる。濃い睫毛、高い鼻、大きな唇。戡州人(カンネティアーニ)のようであり、夕州人 (セラレネーニ)のようでもある。きっと、いろんな血を受け継いでいるのだ。 「イェ、灰が落ちるよ」  うん、うん、ときみは生返事。ぼくは煙草を奪って、(サリーチェ)の幹でにじった。きみの穏やかな呼吸。眠ってしまったようだ。  きみの胸の、黥の渦巻き。大胸筋を強調する。ぼくは息詰まる思いで、そうっとふれて、渦をなぞった。迷路図を辿るように。  ひとりで外を出歩くと、パーンに襲われてしまうよ。  ピーオの本棚にあった、ファルスをみなぎらせたパーンが仙女(ニンファ)を襲う絵画。ぼくはその絵を盗み見ては、人にいえない想像をくりかえした。  黒山羊みたいなきみに出会ったとき、だから十歳のぼくは暗いよろこびを感じた。熟れた柘榴のように甘くて酸っぱい感情。それを胸に秘めて、きょうまできみに忍び会ってきた。  でも、それも終わりだ。きみはパーンではない。ただの女好きの香辛料売りなのだ。  せめて、たしかな感覚が欲しかった。何十年もの退屈な生活にも色褪せない、鮮やかな感覚が。  ぼくは黥の渦をなぞって、きみの胸、腹、そのもっと下へと手を伸ばした。きみの黒い毛、きみの大きなファルス……。 「すけべ」  目を閉じたままのきみがつぶやいた。顔が火照った。ひっこめかけた手首を、黥の手がつかむ。ぼくはきみの上に倒れた。強い腕、あたたかい胸、香辛料の匂いの染みこんだ首筋。ずっと、こんなふうに、ふれあってみたかった。きみは困った顔をする。 「どうして泣く?」  粘りの薄い涙が、きみの胸を汚した。ぼくはいう。 「もう、ここへは来ないでほしい。ぼくもきみには会いに行かない」 「なんで逃げる。襲ったのはそっちだろ」  言い訳はきかなかった。ぼくのファルスはふくらんでいた。パーンはぼくのほうだ。 「ごめん。もう放して」 「無理だ。泣いてる理由がわかんなきゃ」  きみは逆に腕に力を込める。頑として放さない。きみの黒い目の深さ。 「はっきりいえよ。正直に」  ぼくは目を伏せた。「思い出が欲しい」 「思い出なら、たくさんあるだろ」 「ずっと、一生消えないくらいの、思い出が」 「そのいいかたじゃ、わからない」  きみの怒ったような声。ぼくはとうとう口にする。 「きみが、欲しい」  黥の手がぼくを覆した。泣き笑いみたいなきみの顔。 「五年もじらしやがって」  きみはのしかかって、ぼくの口に嚙みつく。頭のなかが白熱する。火のようにぼくを翻弄するきみの舌と指。熱に浮かされて、何をされているのかわからなくなる。  ああ、神様、とぼくは口走った。きみが苦しげにいう。 「おれの名前を呼んでよ。って」  (ケーチェ)、とぼくは呼んだ。きみの本当の名前。ぼくは脚をひらいて、きみにしがみついた。引き裂かれるような痛みを、甘く感じた。この瞬間の熱に較べれば、死後の永劫の火あぶりなど、とるにたりなかった。

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