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第7話:事件

 薫衣草(ラヴァンダ)色の夜空。ぼくが戻ったとき、村に篝火(かがりび)松明(たいまつ)が見えた。非常事態が起きたのだ。  村の十字路中心の教会広場、篝火の(もと)に寡婦たち。ぼくはいう。 「何があったんです」  セレーレおばさんは数時間で老婆のようにやつれていた。 「ヘルサがいないの、どこにも。ジョーヴェやピーオが探しているのだけど」 「ラーラは?」 「ピーオと一緒よ。あの人、足が悪いから」 「ぼくも探します」  ぼくは:榛(ノッチョーラ)の枝を折って、白樺(ベトゥーラ)の皮を巻きつけた。白樺は脂がいっぱいだ。篝火に突っこめば、立派な明かりになる。  ヘルサが妹や母親のいいつけに背くことなんてない。ぼくみたいに勝手に街へ行ったりはしない。山のどこかにいるはず。村からそう遠くないところに。きっと、黒酸塊(カッシス)でも採っていて迷子になったんだ。そうにちがいない。どうして、こんなに不安になるんだろう。きみに抱かれた痛みが残っていた。ぼくは頭を振って、森へ向かった。  子供のころ三人でよく冒険した森。いつかきみとぼくら三人とで日暮れまで話しこんだ。松明の火に、木々の影が化物のように滑る。ぼくはヘルサの名をくりかえし呼んだ。  何かを踏みつけた。土色のモカシン。ヘルサの靴だった。ぼくは松明を高く掲げる。  窪地に影。岩? いや、あれは……。 「ヘルサ!」  ぼくは駆け寄った。散らばった衣服。ヘルサは、ほとんど裸だった。紫に腫れあがった顔。首に食いこんだ正十字架の紐。 「ヘルサ……?」  死んでいるんじゃないかと思った。ぼくはヘルサの肩をゆすった。  ヘルサは、息を吹きかえした。そして、ぼくを見るや、金切り声をあげた。この世の終わりのような絶叫だった。  部屋から出てきて、ピーオは首を振った。 「だめだ。まるで言葉を忘れてしまったみたいだ。セレーレとラーラしか受けつけない」  セレーレの小屋の居間、ぼくと父は顔を見あわせた。卓のランプに、ピーオの顔の陰が濃い。 「いいにくいんだが、股から血を流していた。誰かに性的に暴行されたようだ」 「そんな」  ぼくは言葉が見つからなかった。幼子みたいなヘルサ。自分が何をされているのかもわからなかったにちがいない。そのうえ殺されかけたのだ。平常心を失っても無理はなかった。 「誰がそんなむごいことを」 「ここに男はわしとおまえとジョーヴェだけだ。身内のしわざと思いたくないが……」  ピーオは苦い顔をした。客観的に見て、最も怪しいのはぼくだ。ずっと村を留守にして、一番にヘルサを見つけたのだから。父がいう。 「馬鹿な。われわれのはずがない。邪教徒のしわざだ。あの黥の男」 「ちがう。イェはずっとぼくと泉にいたし、別れたあとはまっすぐ街へ行った」  考えるよりも先にぼくは口走った。父は鼻を鳴らす。 「証明できるのか。街へ帰ったと見せかけて戻ってきたのかもしれない」 「イェはそんなことをするやつじゃない。ヘルサにだって親切にしていた」  ぼくと父は睨みあった。ぼくはピーオにいう。 「犯行時刻はわからないんですか?」 「顔の鬱血具合から見て、数時間は経っている。夕方の犯行だろう。正確にはヘルサの話をきかんとなんともいえんが」 「警察へ届けても、あの子は証言できまいよ。これはわれわれの胸にとどめて……」 「いえ、警察に届けましょう。犯人をはっきりさせたほうがいい」  ぼくはいった。きみとぼくにはアリバイがある。誰にせよ女を犯して殺そうとする凶悪犯を野放しにするわけにいかない。ピーオもうなずく。 「ああ、人の命の懸かったことだからな。はっきりさせよう。異存ないな、ジョーヴェ?」  父はこわい顔で黙っていた。警察関係者とはいえ、異人(パガーニ)を村に入れたくないのだろう。 「これはヘルサだけの問題じゃない。ラーラや、ほかの女たちも危ないんです。父さん、きっと神は許したまいましょう」  ぼくはいった。父は鈍い動きでうなずいた。  街の警察の評判は決してよくなかった。汚職に賄賂、違法捜査のうわさ。だが、今は彼らを頼るしかない。夜明けとともに、ぼくと父はグラナータ警察署へ出向いた。  父とは別に、待合室のようなところでぼくは話した。そもそものオリントポスの成り立ちと信仰のこと、犯行時刻にぼくはきみと泉で過ごしていたこと、ヘルサを発見したときの状況、元軍医のピーオの見解、ヘルサが証言するのは難しいかもしれないこと。コルンボという刑事は、予想よりは親身に話をきいてくれた。 「じゃあ、その子はきみの義理の姉になるんだね」 「そうです。それ以前に、ぼくの大事な友達です。ずっと一緒に育ったんだ」  ヘルサの紫色の顔が浮かんだ。気持ちが(たかぶ)って、ぼくは袖で目を擦った。証言を電子デバイスで書きとめる相棒に、刑事はうなずいた。そのうなずきがなんなのかはわからなかった。  十数名の警察関係者が山に登った。森で物証を拾い、村人一人ずつに話をきいた。だが、婦人警官が手を尽くしたが、やはりヘルサはしゃべれなかったようだ。殺人未遂はともかく、強姦の立件は難しいかもしれないとのことだった。 「犯人はわかっている。あの邪教徒だ」  村の十字路の北端で、父はいった。署でもそう証言したのだろうか。ぼくはいう。 「夕方、イェはぼくと一緒でした。犯人のわけがない」 「おまえはあの邪教徒をかばってるんだろう」 「ぼくは事実をいっているだけだ。犯人はイェじゃない」  コルンボ警部がたずねた。「そのイェとは?」 「香辛料売りのウー・イェリです」 「住所は?」 「わかりません。ただ、近々、ソルボ通りの貸店舗に入るとはいっていた」  警部は手帳に書きとめた。「まあ、調べればすぐにわかりますがね」 「おぞましい黥の男だ。見ればわかる」  父はイェの犯行だと頑なに信じこんでいるようだ。ぼくは警部にいう。 「とにかく、ぼくとイェはその時間、山の越の泉にいたんです。アーリをつれて」 「アーリ?」 「彼の飼ってる鵞鳥です。夏はいつもそこで泳ぐんだ。イェにきけば、ちゃんとわかります」

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