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〇哩(ぼくらに翼がないわけじゃない)
ぼくはだれで、ここはどこか?
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制服は捩 れた翼 横浜で一番空に近い学校
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廊下のむこうで吹奏楽部の誰かがフレーズを練習してる。ガーシュウィン《ラプソディ・イン・ブルー》の、あのグリッサンド。吃 りがちなクラリネット。そこはかとなく、けだるい黄昏れ。ピカソの青の時代みたい。十二月の完全下校時刻は五時。ぼくはショルダーバックを襷 にして、ナイキを履いて昇降口をでた。ラプソディのピアノソロを口笛して。
暮れ残る青天井の底、横浜ランドマークタワーはスマートな巨人みたい。巨人に中低層ビル群が傅 き、送電線が空をスライスし、バイパスと野球場が存在を主張し、家いえは不ぞろいな玩具めき、冬木立がモザイク処理のようにけぶり、収穫後の菜畑に土嚢 が捨ててあり、錆のフェンスがこの道に沿う。この道は海抜八〇メートル。スポーツウェアの一団が校の外周を回ってる。真冬に半袖のあいつら、どうかしてる。筋肉軍団は東へ/ぼくは西へ。コンクリート造の無線中継塔、航空障害灯の赤がアダージョで瞬く。
かすかな声。反射的にぼくは足を止めた。車の途切れた道路、歩道の此岸にも彼岸にも誰もいない。気のせい……いや、まただ。くぐもった呻きのような。いいしれない不穏さを感じた。どうやら塔と林の隙間じみた脇道から。ぼくは方向転換し、車道を横切った。気配を殺して。
脇道の夕闇はひときわ濃かった。コンクリ舗装の無数のOリング。無線中継塔のフェンス沿いに車が二台、黒のワゴン/白のセダン。その車間の死角に、もつれるように三人。一人は裾をボンレス提灯のように改造したスクールズボン――ボンタンだっけ?――にスカジャン。もう一人もボンタンにスカジャン。あとの一人は標準的なズボンにブレザー、ただし学校指定品じゃない細 タイ着用。ネクタイのやつを中心に肩を組んだふうな格好。友情を高めあってるんじゃなさそう。ネクタイは必死な目をして全身でもがいてる。
般若の面を背負 った一人がネクタイの髪をつかんでフェンスに躙 る。舞う鷹を胸に置いたもう一人がネクタイの腹を殴る。続けざまに、ふたつ、みっつ、よっつ……と鈍い音。表現しがたい呻きをあげるネクタイ。容赦ない一方的なリンチ。
ぼくの選択肢は三つ。①仲裁にはいる。②先生に知らせる。③見なかったことにする。①は、ありえない。②か、③か。どっちつかずのまま、ぼくは一歩あとずさる。
スニーカーの踵で小枝が鳴った。スカジャン二人が鋭くふりかえる。げっ。
「……っんだ、おめえ」
般若の声は遠雷の低さ。ぼくはすくんだ。般若はさっとぼくの退路をふさぐ。わなわなと震えだす足。跳ねあがる心拍数。脳味噌はフル回転。ぼくは人差指をネクタイへ。
「こいつのおじいさんが危篤なんですっ」
自分の声を別の誰かがいったかにきいた。図らずも選択肢①。驚いたつらのネクタイ。状況の読めないマヌケじゃありませんように。
あゞ? と凄む般若。静かに睨む鷹。どっちもバカみたいに庇の長いリーゼント。この手の不良って昭和の絶滅種だと思いこんでた、この中学に来るまでは。それとも、ここってジュラシックパークなのか。胸の鼓動がYOSHIKIのバスドラムのよう。だが、頭はクールだ。ぼくは顎をひいて太い声をだす。
「こいつのおじいさん、心臓病で入院してんです、横浜市大病院に。さっき容態が急変して、おれ、こいつのこと探してたとこなんです。急がなきゃ死に目に会えないかも。きょうは、もう勘弁してやってくださいっ」
でっちあげの口実は、つっこまれたらすぐボロがでそう。さあ、たたみかけるんだ、北浦 竜也 ! ネクタイを押さえている鷹に、ぼくは鋭角のお辞儀。
「お願いします」
鷹の表情に変化なし。沈黙を了承ととって、ぼくはネクタイの腕をつかんだ。
「ありがとうございます。行こう」
鷹がネクタイを突き飛ばす。肩にぶち当たる図体。太い首にキスしかけた。ネクタイが鷹にかかっていく。その手首をがっちり押さえて、ぼくは威喝 い男を無理やり牽引した。立ちはだかる般若。
「ざけんな。誰がいいっつった」
「勘弁してやってくださいっ!」
かわそうとするぼくを体で阻む般若。見のがす気はない、と目で告げている。後ろから詰め寄ってくる鷹。くそ、こうなりゃ、あの手だ。ぼくは腰を落とし、般若のボンタンを指差す。
「あっ、チャック全開!」
般若の目に動揺。ぼくは猛ダッシュ/ネクタイは下段蹴り。すっ転ぶリーゼント。!? って思う。ぼくはもうスピードに乗っている。ネクタイの腕を握りしめて。
「てめえら、おちょくってんじゃねえぞ、くぉらぁー!!!」
轟く般若の声、ティラノサウルスの迫力。ぼくは全力疾走(ただし五〇メートル走八秒台)。ぼくらが学校に飛びこむのが先か、やつらに半殺しにされるのが先か。ぼくはちらと振りかえる。迫りくるリーゼントの影ふたつ。
ネクタイが手を振り払った。
ぼくはバランスを失った。
あ、転ぶ。
前腕をガッとつかまれた。痛いほどの握力。なびくナロータイの剣先。ギアチェンジしたような加速。速い。速い。速すぎる。跳ねるショルダーバッグ。青い風景がクイックモーションで後ろへ。飛ぶ。飛ぶ。すっ飛ぶ。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。ネクタイは正門まえを素どおり。外周を走る男子たちを牛蒡 抜き。大根畑のまえを掠める。急角度の坂を駆けおりる。東へ。校舎から爆発する吹部の合奏、《ラプソディ・イン・ブルー》。でたらめに高低差の激しい街の底へ突っこんでゆく一瞬、夜のランドマークタワーのきらめきが目を撃った。
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近いようでとおい(だれかに似てるんだ)横浜ランドマークタワーは
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般若の悪態が常に数メートル後ろから。ネクタイに手をひかれ、ぼくは黄昏れの住宅地をジグザグ抜け、水曜日のラッシュの跨道橋 を(プワアアアアアアアンッ! とクラクションを浴び)突っ切る。だらだら坂を加速度的にくだり、赤信号の横断歩道を三歩で渡る。見慣れない街なみの光がいやに鮮やか。ネクタイの進路に迷いはない。ぼくの息はもうあがってた。かつて体感したことのない走力を一〇分は保ってる。フル稼働の足が、もつれ、そうになる。数センチ横を車体が風を切ってゆく。踏切の警報音。
いきなり見知った景色。いなげやのレモン色の看板が照る。屋上駐車場の出庫のブザーが鳴って、回転灯がオレンジ色を撒き散らす。突き当たりの踏切を一〇両編成が減速してゆく。車体の貼りテープの赤。そのてまえを右に曲がれば、相鉄線星川駅。ネクタイは右へ進んだ。まさか……って思った。
星川駅改札口って表示板の折返し階段を、あいつは駆けあがった。その低い段差で、ぼくは蹴爪突 く。
「……シャーッ、コラッ」
般若の息も絶えだえの声。鷹もしっかりついてきてた。ネクタイが無言でぼくをひっ立てる。
揚げ油のにおい。南口のマクドナルドに短い行列。帰宅ラッシュが始まってる。四つの自動改札が人を吐く。その冬服を縫って、ネクタイは改札口へ。あいつは強く握っていたぼくの右手首を、ようやく離した。やつは改札ゲートに両手をかけて、オリンピックの平行棒の演技みたいに跳び越えた。あゝ、やっぱり。
改札機が黒い片翼をひらく、警告音。ぼくは足を止めた。後ろで般若と鷹が人にぶつかった。切符を買う余裕などない。むこう側で、あいつは手を大きく振るった。
「Come !」
その声はクリアに届いた。ぼくはあいつを真似て、跳んだ。
狭い構内の雑踏、ネクタイの背中を追った。あいつは三、四番線の階段を一つ飛ばしでおりてった。ぼくは慎重に、だがハイピッチでステップを踏む。あいつは階段なかばから跳躍し、プラットフォームにしなやかに着地。客たちの瞠目。階段上から般若が喚く。
横浜行きの電車――相鉄九〇〇〇系は扉をとじかけた。ネクタイは突進した。扉に挟まれながら、強引に乗りこむ。駆けこみはおやめください、と男声のアナウンス。車掌はいったん扉をひらいた。そこへぼくも続く。階段からどたどたと般若と鷹。こっちへ向かってくる。あとは扉がしまればパーフェクト。
だが、扉はひらかれた。車掌はあの二人がぼくらの仲間と思ったのかもしれない。迫りくる般若と鷹のゆがんだ顔。
ぼくはショルダーバッグを振りまわした。底襠 が般若の鼻を掠める。やつはのけぞって鷹を巻き添えにした。車掌は察したのだろうか。空気漏れの音とともに断固と扉がしまった。般若が扉を足蹴にする。蹴らないでください、電車から離れてください、とアナウンス。電車がよっこらしょと動きだす。外のリーゼントコンビが遠くなる。中指をおっ立てた般若と、なぜか笑ってる鷹。
煌々たる車内は、ほぼ満席。ぼくは反対側の扉に凭れた。背中にアルミ合金とガラスがひんやり。腋の下は汗ばんでいる。ネクタイは座席横のポールを握ってすっくと立った。このあいだ保健室で身長測定したら、ちょうど一六〇センチだった。中一としては小さくないはず。ネクタイはさらに十センチはでかい。ぼくは苦しいほど喘 いでいたけれど、むこうはかすかに深い息をしているばかり。逆さのコントラバスめいた胸、よじれたナロータイ。ぼくは唾を飲みこんで、息を整える。
「おれを、捨ててきゃ、もっと、簡単だった、のに」
同級生だと思ったから、ため口を利いた。その長方形の顔は、いつか図書室で見かけたような。その瞳はスモークガラスめいた暗いグレーで、その頬は白かった。口のはたに光る血。その色の薄い唇は硬く結ばれたまま。ぼくは心地が悪くなった。
「なんか、いえよ」
やつの目はダーティー・ハリーみたいに鋭くなった。
「おれの祖父は死んだよ、ヴェトナムで、一九七二年に」
その声はコントラバスの低音に似ていた。あいつは無表情に凝視した。ぼくがどう反応するか試しているふうだ。死・ヴェトナム・七二年……きっと、戦争のことだ。でも、ヴェトナム戦争のことなんて何も知らない。喉が干からびて、ぼくは咳きこんだ。
「助けたなんて思うなよ」
そのセリフの意味がとれず、ぼくはまばたきした。
あいつはナロータイを解いた。夜の窓を鏡に、ものの五秒で締めなおす。大人みたいで格好いい。あいつは片手をズボンのポケットにかけて、体ごとそっぽを向いた。電車は次の天王町 駅でわずかに減速し、そのまま通りすぎた。快速か。横浜駅まで密室だ。ぼくは気の利いたことをいおうとした。あいつは歩きだした。ぼくは扉から背中を離す。あいつは首だけで振りかえった。
「ついてくんな」
きっぱりとした拒絶に、ぼくは立ちすくんだ。あいつは隣の車両へ失せた。
ぼくは背中を扉に預け、片頬を窓につける。宵闇はインディゴブルー。頭んなかに《ラプソディ・イン・ブルー》のピアノの連打音。相鉄線はゆるやかに東へ。保土 ヶ谷 と西 (方角じゃなく地名)の区境 か。錯綜し走る架線のむこう、きらびやかなランドマークタワー。頭のスリット状照明と、無数の窓あかり。低地からの建物ごしだと、ほんとのすぐそこみたい。
あいつの言葉の意味を考えた。あいつがぼくを助けたつもりじゃないってことか、ぼくがあいつを助けたなんて思いあがるなってことか、その両方か。
右手首を握りしめられていた感触は、なかなか消えなかった。
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童貞の胸の潮騒 横浜の海を持たない区域を跳べば
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