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一哩(眼帯天使にBWV612を)
「《初恋》、島崎藤村」
氷水のカットグラスめいた声。窓辺の逆光のなか、竹宮 朋代 は姿勢よく教科書を支える。続く十六行の詩に、ぼくは耳を澄ませる。
「まだあげ初 めし前髪 の
林檎 のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛 の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅 の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情 に酌 みしかな
林檎畠の樹 の下 に
おのづからなる細道は
誰 が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ」
詩の行を、ぼくは指先でなぞった。意味はよくわからない。けれど、美しい言葉だ。竹宮の声で読むから、そう思うのかもしれなかった。光の環が黒髪にゆがんで、竹宮は着席する。その子にばかり日差しが濃く集約する。百合のような、雪のような、鏡のような光。斜め後ろの堤 香織 に、竹宮は乳色の頬を盛りあげる。白い歯。美しさを自覚する人間特有の、驕った感じのする笑いかただ。ぼくは竹宮の笑顔が嫌いだった。人形みたいに澄ましていればいいのに。竹宮の明るい瞳が、不意にぼくへ向く。ぼくは視線を教科書へ落とす。
「この《初恋》は、明治三十年に刊行された藤村の処女詩集《若菜集》に収められたものです」
ご教授ってあだ名の柳沢 享 先生は解説する。処女って単語に男子数人が色めきたったけれど、ご教授は枯木みたいにすましたもの。
「島崎藤村は《破戒》や《夜明け前》などの小説で知られた文豪ですが、若いころは詩を書いていたんですね。《若菜集》には藤村の青春が謳われています。とくに《初恋》は、作者の恋の経験を反映した作品であるといわれます。古めかしい言葉づかいがもちいられてはいますが、その初ういしい情感はみなさんにもなんとなく伝わるかと思います。それでは、この《初恋》について深く理解していきましょう」
一時間目からずっと隣の席で寝てた芝 賢治 が全身であくびした。いまは四時間目だ。シバケンには数かずの称号が贈られている。ミスター睡眠学習・居眠り番長・眠れる森の王子。在校時間の大半を冬のヤマネみたいにすごすから。こんな座り心地の悪い席で、よく熟睡できるもんだ。どの先生も注意しない。おとなしく眠っててくれるぶんには邪魔にならない。
シバケンはもちろん授業に参加することなく、シャーペンで落書きを始めた。無地のルーズリーフ、増してゆく線と線の密度。ぼくは気になった。こいつとは友達ってわけじゃない。しゃべった回数だって片手でかぞえる程度。それもこの席順になってからのことだ。
「なあ。どう?」
シバケンがシャーペンで紙を叩いた。その左耳にぶっ刺さった大型の安全ピンに、さらに四、五本のピンがじゃらじゃら。茶髪が干からびたサラダスパゲティみたい。異様に大きくて力のある目。どうしよう、感想に困る絵だったら。ぼくはこわごわ身を乗りだした。
呼吸を忘れた。刻みこむような強い線、その空恐ろしいほどの緻密さ。半裸の人物像は性別不明。睫毛の濃い左目は伏せられ、右目は白い眼帯で覆われていた。やつれた頬をつたう涙。胸のまえで組まれた両手。背に包帯の巻きついた翼二対。悲しいまでの透明感。J.S.バッハ《オルガン小曲集》のコラールがきこえてきそうだ。
「きれい」
お世辞じゃなく、ぼくはいった。シバケンは片八重歯を見せた。さらに熱心に筆を加えだす。ぼくはホッとした。
「おのづからなる細道は、注釈どおり、自然にできた細い道です。かたみは注釈では記念となっていますが、思い出ぐさと訳したほうが、より趣きがあるかと思います。この林檎畑の木の下に自然とできた細い道は、だれが踏みそめた思い出として残されたのでしょうね、という問いかけであります。それを踏まえたうえで、この問いかけはだれがだれに向けて発したものだと思いますか? では、きょうは一七日なので、一たす七は八で、八番の人……北浦くん」
ご教授に指名され、内心あわてた。きいてなかった。ぼくは静かに席を立つ。ご教授の鼻のあたりを見て黙っていた。そうすればヒントをだしてもらえる。
「この詩の登場人物は、君とわれですね。君がわれにいったのか、われが君にいったのか。どちらでしょう」
「君がわれにいったんだと思います」
あてずっぽうだった。ご教授は笑う。
「ほほう。理由は?」
ぼくは考えた。どう答えればもっともらしいか。「だれが踏み固めたのかって、それは君とわれしかありえません。答えのわかりきった質問を、あえてするのは甘えた感じがします。そういうことをするのは女の子じゃないかと」
「なるほど。なかなか鋭い意見ですね。結構。座ってください」
たぶん、七十点。ぼくは着席した。黒板に要点を書きつけてからご教授はいう。
「別の意見もきいてみたいですね。北浦くんに賛成という人、反対という人は?」
窓際の席でまっすぐ手があがる。
「竹宮さん」
学年一の美少女は腰までの髪を気にしつつ立ちあがった。さっきの朗読とは打って変わって、民放アナウンサーのように歯切れよくいう。
「賛成で反対です」
「といいますと?」
「わたしも君がわれにいったんだと思いました。でも、理由は北浦くんとちがいます。これはわれが君を想っている詩であって、だから最後に、問ひたまふこそこひしけれ、っていってるのはわれでしょう。へたな推理を持ちこむまでもなく、文章の前後関係を見れば一目瞭然ですよね」
ご教授は笑った。「手きびしいなぁ。しかし、いいところに着目しましたね。そうです。問いたまうのが恋しいというのはわれですから、問いかけているのは君ですね」
竹宮は憐れむふうに笑う。眩暈がするほど癇に障った。ぼくは睨んだけれど、あの子はモナ・リザの微笑のまま。なぜ、ぼくにあんな顔をするのか。まともに口を利いたこともないのに。きっと、竹宮は人が見た目どおりだと思っているのだ。軽薄で、傲慢だ。そんな相手に目を奪われることに、そんな自分自身に、どうしようもなく腹が立つ。
なのに、ぼくは竹宮を見るのをやめられなかった。
隣の男がシャーペンを振った。シバケンは机に凭れかかりながら、ペン先をぼくへ差し向けて、それを竹宮へ向けた。そしてまた、ぼくへ向けて、意味ありげな笑みを唇に乗せた。片八重歯。ささくれた気持ちを逆撫でされて、ぼくはそっぽを向いた。
恋してるわけじゃない。見ていたいだけだ。
♂
少年のわななきやすき唇は咬みしむるためあり 林檎の香
♂
一本の蛍光灯。白じらしい光は、そこにあるものを実際よりも冷たく見せる。低い調理台のまえ、ぼくは頬の涙をこすった。薄刃包丁を閃かせ、檜 の俎 を叩く。四分の三拍子で。青い玉葱がスライスの山になる。象印の炊飯器から米の煮えるくぐもった音。やわらかに噴きあがる湯気。夜の始まりの静かなひととき。
家じゅうの電話機が鳴った、チープなJ.S.バッハ《主よ、人の望みのよろこびよ》。ティッシュでぼくは洟をぬぐって、椅子に蹴爪突きながらコードレスホンの子機をとった。
『河合 ですけど、タツヤくんはご在宅でしょうか?』
とりすました河合省磨 の声。電話にでたのを後悔するが遅い。ぼくは無愛想に返す。
「おれだよ」
『オッサンくせえ声だしてんなよ。北浦シニアかと思ったじゃんか』
普段のおちゃらけた調子になる河合。ぼくは無性にいらつく。
「なんだよ? いそがしいんだけど」
『あ、そうなの。おれ、超ヒマなんだ。きいてくれよー』
この小学校入学以来の腐れ縁は、月に一、二回はこうして電話してくる。おそらくは、他の友達と連絡がつかない場合に、ぼくの存在を思いだすんだろう。ため息をついて、ぼくは子機を顎と肩に挟んだ。料理しながら適当に相槌を打つ。河合はクラスメイトの溝下 潤 の髪型(バカリズム升野っぽいおかっぱ)をけなし、数学の渡辺 茂樹 先生の口癖(ハイッここ重要!)をモノマネし、サッカー部の末次 誉 先輩(二年)の性格の悪さを愚痴り、手にいれたゲームソフト(ポケットモンスター金・銀)を自慢し、妹の蝶子 (小五)の生意気さをあげつらう。まちがっても、ぼくの近況など尋ねてはこない。返事さえすれば相手が電極つきのサボテンだって全然OKなんだろう。むなしさが合成洗剤の泡のようにぶくぶくこみあげる。ぼくは手間どりつつ鍋で玉葱を炒め、ジャガ芋と人参と牛肉をほうりこみ、酒と調味料を合わせて蓋をした。やれやれ。
『それでさー、これ、まえにいったっけ?』
ぼくは冷蔵庫のひんやりした扉に凭れた。「何」
『彼女できたんだ』
「うっそ、マジ? 誰? クソ中 の子?」
クソ中は、右近 中学校の通称だ。右近→ウンコ→クソ。
『あゝ、おまえも知ってるよ』
「まさかユキオトコ?」
一年B組の通称ユキオトコ(♀)のことはよく知らないけど、河合いわくブスらしい。
『ありえねえっしょ、あんなブタ』
「わかってる。もったいぶってねえで教えろ」
『へへっ、きいて驚くなよー』河合はとんでもないことを口走る。『あっ、めんごめんご。キャッチ入っちゃった。じゃ』
通話は容赦なく切れた。ビジートーン。
「なんなんだよ、もうっ」
ぼくは子機をワゴンに叩きつけた。冷蔵庫を乱暴に開閉 する。一リットルの牛乳パックを、じかに喉を鳴らして飲んだ。いらついたらカルシウム補給にかぎるんだ。
再び子機が光った。鳴るまえに[通話]を押す。
『もう夕飯はつくってしまったか』
湯気のような、父の声。そのセリフで察しがつく。
「肉ジャガだけど……残業なの?」
『新しいシステムが不安定でな。今夜じゅうにデバッグしておかないと、あすの仕事にさしさわる』
「午前さま?」
『そうなると思う。せっかくつくってもらったのに、ごめんな』
「いいよ。父さんはあしたにしな。寝かせたほうが芋にツユが染みるだろうし」
『そうだな。楽しみにしとこう』
じゃあ、がんばって、と子機を充電器に戻す。鍋の蓋をとると竜宮の土産のように湯気。あゝ、かんじんのジャガ芋が煮崩れてしまった。河合のせいだ。髪に片手を突っこんでくしゃくしゃにした。ため息。炊きあがりを告げる電子音。ぼくは炊飯器の保温を解除。蓋をあけて、湯気を逃がす。
おもての国道十六号線を金曜日の暴走族がかっ飛んでく。六連ホーンの調子っぱずれな《ゴッドファーザー~愛のテーマ》がわっと膨らんで、すぐ消えた。
二階建て3LDKの容積いっぱいの静寂 。
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必要とされたいきみはサンクスの押しても引いても開らく扉だ
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師走の風をユニクロのフリースジャケットはとおさない。ぼくは夜行性の鳥のように駆ける。右のペダルを踏みこみ、左のペダルを踏みこむ。右のペダルを踏みこみ、左のペダルを踏みこむ。夜の曇天の底に、マウンテンバイクの歯車とブッシュレスチェーンが鳴る。行先はない。ただ、家にいたくなかった。
平坦な街道を東へ。十六号線を離れると灯りの少ない、保土ヶ谷の辺境だ。ヘッドライトが闇を射る。流れるネガフィルム色の街。なじみの場所が見知らぬ国に映る。父が買ってきた、あのぶ厚い児童書みたい。額に稲妻形の傷跡のあるみなしごの男の子に魔法学校の入学案内(!)が届く話。夜空を帚で飛ぶのって、こういう感じかな。
このまま、うんと遠いところへ行ってしまおうか。
あてどない衝動。けれど、スリックタイヤの摩擦力のように、もうひとりの醒めたぼくがいう。遠くへ行って、それで? 衝動まかせにした場合の諸もろの厄介ごとが浮かんできて、いっぺんに面倒くさくなった。ぼくはちっともワイルドじゃない。
開通間近の環状二号線をくぐった。白じらしい光。黄色いKの字が歩いてる、サンクスの看板。両のレバーを握ると、ブレーキシューとリムの鈍い音。
コンビニは夜のオアシスだ。カラフルな商品・ヒットチャートを飾る音楽・消えることのない光。その明るさに惹きつけられ、羽虫のように人が集まる。宵の口のコンビニは行き場のない暇人のもの。駐車場に面した雑誌コーナーで、ぼくは立ち読みした。ぶ厚いコミック誌上で伊達メガネの少年(見た目は子供、頭脳は大人!)が麻酔針で昏睡させたヘボ探偵を人形に変声機で鋭い推理を披露していた。
モーニング娘。がウォウウォウウォウウォウいってニッポンの夜はふけてゆく。
エグゾーストノイズが夜のどこかで炸裂した。五月の蠅の羽音ほどだったそれは、あっというまに火達磨の牛の咆哮ほどにふくれあがった。ガラスごしの駐車場に光線が乱れる。続々と集結するスクーターやオートバイ、ロケットカウル・三段シート・延長テールの改造も麗々しい総勢十数台。そいつに跨った夜色の特攻服の軍団。手押しのドアから何人か入店してきて、商品棚のむこうに見えなくなる。トイレかしてくださーい! ってどら声。駐車場の族がエンジンを空ぶかしし、タバコに火をつけ、PHS をいじる。低く漂う煙・特攻服の漢字の刺繍・竿に絡んだ大きな旗・三段シートの一メートル丈の背もたれ・パトランプの紫の光。まるでミニチュアの猥雑な都市のよう。ぼくは目から下をコミック誌で隠しながら眺めた。
生あたたかい何者かが背中に密着してきた。変質者だ! 恐怖で声もでない。ぼくは横っ跳びで逃げた。
知ってるツラだった。芝賢治は明るい茶髪を掻きあげて、巨峰みたいな目ん玉を剝く。その左耳で光る安全ピンの束。白の揃い のウインドブレーカーは、ポメラニアンを匿えそうにだぶだぶ。
「ごめんね。膝カックンしたくって」
ぼくは力が抜けた。「……変態かと思った」
「それ、まちがってねえし」
シバケンは目を三分の一にして笑った。ぼくは笑わなかった。
「で、どおしたよ、こんな時間に?」
べつに……と口ごもった。一年D組ヤンキー代表の男子は白いヘルメットを小脇にかかえていた。つまり、あの族とともにやってきたのだ。シバケンの目が見れない。
「なにビってんの。おれ、こわい?」
ぼくは一瞬だけ目を合わせた。シバケンは眉間の筋肉を盛りあげてみせる。ぼくはうつむいてしまう。やつは笑い声を立てた。
「おれはセンパイのケツ乗っけてもらってんの。危ない社会科見学。アレがかっけえんだよ。バックファイア。走ってっときにキルスイッチいったんオフにしてマフラーに生ガスためてからオンにすっとガスが爆発してヴォンッて火ぃでんの。他にもいろいろ技があんだけど、これからおぼえてえな。このあと朝まで走んだ」
ぼくは黙ってやつの手もとを見おろした。シバケンはメットの顎紐をもてあそんでた。
「なあ、キタもいっしょに来ねえ?」
冗談じゃない。顔をあげずに首を振った。
「そっか、残念」
ハスキーな声は心からがっかりしてきこえた。沈黙。やつのノーブランドのスニーカーは動かない。それ以上、話すべきことは、ぼくらにはないはずだった。気まずい何秒か。ぼくは口をひらかなかった。
「そんじゃあね」
シバケンは胸の前で手を小さく振って離れてゆく。よかった。
外じゃ特攻服がオートバイのシートに立ちあがっていた。竿が二メートルはある旗を軽がると振りまわす。舞を舞うかのようだ。白い広い布が優雅に宙を泳ぐ。横濱悪童連盟 堕天、そう筆文字で大書きしてあった。狭い駐車場で繰りひろげられる異様な劇を、ぼくは飽かず見つめた。そこだけ時間の流れかたが異なって、すべてに微妙なスローモーションがかかっている気がした。
「おい、キタ」
われに返った。シバケンが戻っていた。メットを顎紐を垂らしてかぶり、両手をポケットに突っこんで八重歯を剝きだす。強化プラスチックの額に小池組って印字。
「カネ貸してくんねえ?」
反射的にぼくはジーンズの尻の財布をさわった。先月の小遣いの残り、千円札一枚と小銭たくさん。声が裏返らないようにいう。
「おれと芝はしゃべったの五回だけだよな」
「これで六回ね」
「カネ貸したり借りたりする仲じゃないと思うんだけど」
「そうカタいことゆわずにさぁ」
「悪いけど貸せない」
声がうわずった。こいつは怒るにちがいない。いざとなったら店員に助けを求めよう。シバケンはいやに整った眉尻をさげた。剃ってるんだろうか。
「キンキューなんだよ」
「何が」
「くわしいこたぁゆえねえけど」
「じゃ貸せない」
シバケンは長く唸って、片手を膝に置く。なんだか、ぼくが無理難題をふっかけてる気がしてしまう。男の笑い声、通路の先で族四人が仁王立ち。三人の特攻服は黒で、一人だけが白――白いやつがアタマだろう。シバケンは連中をうかがう。白い特攻服(悪行上等/絶命上等って刺繍)のロン毛がひっぱたく手真似。シバケンはあわててぼくに向きなおる。悪いやつらが後輩の度胸試しにカツアゲをそそのかす。ありそうなことだ。シバケンはうわ目づかい、丸さのくきやかな目に睫毛の長い影。
「おれさぁ、ほんとに困ってんだけどさぁ、それでも貸してくんねえの?」
切実な口ぶりで頼ってくる男に、同情の念が起きた。もし拒否すれば、シバケンの立場はまずくなるのかもしれなかった。
「返すって約束できる?」
シバケンは目を輝かせて、姿勢を正した。「うん。利子つけるし」
ぼくは尻ポケットからスヌーピーの財布を抜いた。皺の多い夏目漱石を差しだす。
「利子はいいよ。これしか貸せない」
シバケンは表彰状のように両手で受けとって、はにかんだ純情そうな笑みを浮かべた。族たちが散ってゆく。シバケンはポケットから手をだした。
「あげる」
たたんだ紙きれ。シバケンはきびすを返して、ドアを押した。外の集団にまぎれる。四つ折りのそれを、ぼくは広げた。あの眼帯の天使の絵。縦横の折り目が十字架みたい。
裏にも何か描かれている。シンプルな、しかし写実的な少年の横顔。←キタ、と走り書き。実物よりも二割増しイイ男に描いてある気がした。
♂
ごく薄いページを剝いでSEXとEVERGREENに傍線を引け
♂
シバケンの寝顔は、しかめつらのヤマネみたい。キャーキャーいってる小泉 沙織 と大久保 弥生 。一時間目の教室は開栓したてのペプシコーラのはじけ具合。チャランポランな海老原 晋 先生の授業だから、なおさら。エビセンは先生五年目の、まだ大学生みたいな英語教師。イワトビペンギン風ソフトモヒカンは、生徒指導主任に顰蹙 を買ってるらしいが、柳に風だ。エビセンはなぜか自宅のテレビをめぐる電気屋との攻防について熱心にしゃべってる。お得意の脱線。ぼくは頬づえ、ため息。
でも、シバくんてアレなんだよ、と大久保。アレって? と小泉。もうヴァージンじゃないらしいよ、と大久保。うっそだぁ、と小泉。
非常ベルがびりびりと空気を疼かせた。みんな平然としたもの。三日に一回は鳴り響くベルに、そもそも非常って語を冠するべきか疑問だ。たび重なるイタズラに有効な対策もなく、とりあえず消防に通報が行かないようにしたって話。廊下いっぱいに反響するベルは、まるで金属製のアブラゼミ。引戸をスライドさせ、廊下をうかがうエビセン。犯人でも見かけたのだろうか。ちょっと九十七ページの例題やって静かにしてて、といい残してでていってしまう。指定のページに英作文の例題。
フラッシュ! 小泉がシバケンに使い捨てカメラを向けていた。フラッシュ・フラッシュ・フラッシュ! フィルムを巻きあげ、何度もシャッターボタンを押す。小泉はくすくす笑いっぱなし。あたしのぶんも焼き増ししてよ、と大久保。雪見だいふくおごってね、と小泉。ぼくはあきれはてて見てた。
真冬の機械仕掛の蝉。バカ笑いする男子/立ち歩く女子。周囲のにぎやかさに動じず、シバケンはすこやかな寝息。ヴェリーキュートなしかめつらで。ぼくは破れたアルミ風船みたいにため息をついた。
わたしは彼が窓を割ったと知っています。
I know that he broke the window.
♂
まのびしたチャイムに、教室の音が爆発する――おしゃべり・笑い・咳・机と椅子の脚のチャンバラ・上履きのゴムの摩擦・戸の開閉 ・何かの電子音。D組の男子たちは隣の教室へ移動しはじめ、C組の女子たちがウチの教室へなだれこんでくる。着替えのためだ。体育の授業は隣りあった二クラスの男女別。
ぼくもロッカーの体操着袋をひっぱりだす。廊下へでようとして、ふりかえった。シバケンはまだ机で丸くなってる。女子の混雑率一〇〇%のさなかへ、ぼくは足早に戻った。眠る男の肩を揺する。
「おい、芝。芝っ。起きろって、しーばっ」
その睫毛が震える。うぉっぷ! とシバケンの叫び。やつは椅子を大きく鳴らし、その場に直立不動。うぉっぷ? ぼくも女子たちも一時停止。
シバケンはあたりをきょろきょろする。ソプラノとアルトの笑い声が炸裂した。さんざめく女子の群れから、ぼくはつい竹宮を探す。あの子は肩を震わせている。きらきらした目と粒のそろった前歯。腹が立つ。シバケンは赤面。
「あっ、タイクだっけ?」
「そうだよ。早くしないと痴漢あつかいされんぞ、二人とも」
笑い声を背に浴びて、ぼくとシバケンは教室から逃げた。北向きの廊下は極寒だ。C組へ急ぐぼくを尻目に、シバケンは階段をおりてゆく。
「どこ行くの」
五段下で笑うシバケン。「保健室」
「具合悪いの?」
「ゆうべオールだったし、マラソンめんどいもん」
シバケンは小さくあくび。こいつの授業態度の不まじめさには今さら驚かない。ぼくは勇気をふりしぼる。
「それで、千円は、いつ返してくれる」
シバケンは背を向けかけている。「すぐじゃなきゃだめ?」
「今すぐとはいわないけど、早いほうが」
「おれ、ビンボーなんだ。分割払いでいい?」
「いいけど」
「じゃ、行っきまーす」
いきなりシバケンはアンダースローで硬貨を投げる。あせった。それはきれいに弧を描く。ぼくは発止と受け止めた。
「ナイスキャーッチ!」
あいつは叫んで、手すりのむこうへ消えた。ったく、投げ返すやつがあるかよ。硬貨に体温のなごり。そっと手をひらいて、ぼくは凍った。窓からの光を受けて真新しく光る硬貨、そのおもてに平等院鳳凰堂――十円玉だった。
♂
光る風 光る踊り場 光る脚 光るアンダースローの姿勢
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