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二哩(6/8本脚の蜘蛛)

 白い窓を、ぼくは素手でこすった。国境の長いトンネルを抜けると雪国であった……そんな小説の一節を、しきりに思いだす。関越道のトンネルをかぞえるごとに道路脇の雪がうずたかくなった。ぼくの背丈ほどの雪は排気ガスで真っ黒。その汚れた壁に、真新しい雪片が着地する。生まれ落ちることは、汚れはじめることだろうか。十三年ぶん、ぼくは汚れたのだろうか。このあいだ解散を発表したSPEEDのラヴソング、クラスの誰かのカラオケ。空元気の手拍子/合いの手。新潟行きの観光バスは無駄ににぎやか。  つぎって誰ですかぁ? ってレクリエーション係の五十嵐(いがらし)(かえで)(♂)の声。どこか人なつこいイントロは、スピッツのヒット曲だ。まえに学園ドラマの主題歌になったやつ。ぼくは立ちあがって腕を振る。 「はい、おれ」  後ろから長いコードつきのマイクが来た。この一年D組ニューイヤーカラオケ大会はひとり一曲がノルマ。じゃなきゃ歌ったりするもんか。恥ずかしい。それをわかってて杉俣(すぎまた)孝作(こうさく)椎野(しいの)(わたる)がわざと大げさに囃したてる。フゥー! 北浦、かっくいー! ぼくは拳の親指を下へ突きだし、やけくそで歌った。      ♂  肩にずしりと頭。通路側の席の清水(しみず)俊太(しゅんた)のまぬけな寝顔。六月の遠足でもこうだった。乗りものに揺られると眠けを催すたちなのかも。清水の頭をむこうへ押し戻す。やつはのんきに夢のなか。  カラオケ大会は佳境。杉俣のジャイアンばりの美声。バスのなかは暑いくらい。ミルクシャーベットを一億トンぶちまけたような外の白さが恋しくなる。ぼくはつめたい窓に肩をあずける。  目のまえに誰かの白い袖が伸びた。 「キタ、ポッキー食う?」  芝賢治だ。左耳でちゃらちゃら光る安全ピンの束、だぼだぼの白のトレーナー。やつの差しだす小袋から苺のにおい。ぼくは礼をいって一本もらう。シバケンは八重歯を見せる。あのサンクスでの夜以来、なつかれてしまった。日に一度は声をかけてきて、機嫌をうかがい、ニュースをもたらし、お菓子をよこす。ネガティヴな先入観(粗暴・狡猾・悪辣!)しかなかったせいで、ちょっとしたことでも超いいやつに思えてしまう。 「キタって歌うめえのな。てっきりCDかけてんのかとおもったわ」 「おだてても無駄だぞ。きょうこそまとめて返してもらおうか」 「だって、こづかい千円までよ」 「ちょうどいいじゃん。いままでの二十五円は戻してやるから」 「いぢめないでくんねえ? ちゃんと利子は払ってんだろ」 「利子?」 「今、食ってるやつ」  ポッキーが前歯でへし折れた。「あの飴とかガムとか利子かよ?」  天井付近のスピーカーからバグパイプの音色。ポップソングじゃない。誰が歌うんだろう。ぼくはシートに膝立ちになった。マイクはあのマドンナ竹宮朋代のところ。〽Oh Danny boy(あゝダニー坊や), the pipes(パイプが), the pipes are calling(バグパイプが呼んでいる)……とソプラノの声が清らかな雪のように降る。ぼくらはおのずと無口になる。天の賜物(たまもの)の声はまったく(よど)みがない。きいているだけで心が涼しくなる。後部座席で竹宮は体を揺らしながら拍子をとっている。かたちを変える鮮やかな唇。みんなから歓声ともため息ともつかないものが漏れる。観光バス一杯ぶんの喝采。竹宮を凝視しつづけていたと気づいて、ぼくははっとした。シバケンのやつがニヤニヤしてる。 「ありゃあホレるわ。なあ」  やつは意味ありげにいった。ぼくはきこえないふりをした。  清水が伸びをして目をこする。「……夢んなかでサラ・ブライトマンが歌ってた」      ♂ 好きな人なんていないよ掌の方位磁針は北ばかり指す      ♂  最初はグぅーっ、じゃんけんぽんっ‼︎‼︎ 八人ぶんの声。寝場所をめぐる壮絶なる勝ち抜き戦。二〇七号室に二つきりのシングルベッドの権利は清水と五十嵐が獲得した。敗者六人は大騒ぎしてベッドまわりに布団を雑に敷きつめた。  シバケンが浮気性の猫みたいにぶらっとでていったのを(しお)に、ルームメイトたちは別室の友達んところへ出払って、二〇七号室にはケータイをいじる沼尻(ぬまじり)(みつぐ)と、背中合わせに漫画を読む清水とぼくばかりになった。しりあがり寿による《東海道中膝栗毛》のぶっとんだパロディ(キタさんが相棒をエクスカリバーで滅多刺し!)。  現実のドアが勢いよくあいた。ノックなし。スリムな銀のケータイ片手に河合省磨が大声。 「北浦タツヤを発見。確保する!」  ぽかんとする清水と沼尻。ぼくは罵声をぶつけられたように恥ずかしかった。  河合はぶっ壊す勢いでドアをしめた。節約のためか電球の間引かれた廊下。河合の手首に蛍光イエローのG-SHOCK、ソーラー機能搭載の限定モデルは三万円近い品だ。まえに自慢された。こいつんちは十四階建てマンションの最上階で、河合の母親は上流階級を気どってた。あの母親の鼻を鳴らすようなしゃべりかたが、ぼくは嫌いだった。ネルシャツの背中がケータイにぶつぶつ(わかってる、すぐ行くから、もうちょい踏んばれ)。どう考えても、いい予感はしない。ぼくは着てるパーカーのフードを整えた。河合はあたりを素速く見やった。ぼくを人けのないほうへひっぱってゆく。  狭い階段の踊り場。河合の大づらが暑苦しく迫った。 「おまえ、むかし素手でゴキブリ退治したよな。ほら、溝下の習字箱から発生したやつ」  そういわれれば、そんなことがあった。四年一組の教室が悲鳴の渦になったんで、とっさに触角をつまんで窓から投げたんだ(もちろん、石鹸で念入りに洗った)。 「なんの話?」 「クモがでた。なんとかしてくれ」 「おまえの部屋に?」 「女子の部屋に」  あっけにとられた。当然ながら異性の部屋へは出入厳禁だ。 「女子んとこで何してたんだよ?」 「うふふなこと」  ぼくは絶句。河合はニヤッとした。 「工藤(くどう)とかと一緒にUNOやりながらくっちゃべってたら、でっかいクモでてきて、女子らパニクって半泣きなんだよ。誰も対処できないし、状況が状況でセンセ呼べないし、だから、おまえにナイナイに処理してもらいたいんだ」 「おまえとそいつがとっとと撤収して、女子に助け呼ばせたほうが早いんじゃ?」 「それじゃ、おれが薄情モンていわれちゃうだろ。んなこともわかんないの?」  バカにした話。こいつが女にいい顔するために、どうしてぼくがダシにされなきゃならない? 「たかが蜘蛛だろ。かっこつけたいんなら自力でがんばれよ。もとはといえば、おまえが女子の部屋なんか行ったのが悪いんだからさ」  河合の狭い額がしわっとちぢれた。「なんだ、北浦タツヤのくせにっ」 「フルネームで呼ぶな」  ぼくは低い声をだした。河合は(やつの母親みたいに)鼻を鳴らした。 「わかってないな、北浦タツヤ。これで断ったら悪い評判つくぞ。北浦くんはピンチの女の子を見捨てるサイテー野郎だ、って。みんな、ウワサに飢えてるからな。おれも黙っててやれる保証はないんだぜ。なあ、家の事情は隠しときたいだろ? 母親のこととかさ。どうすんのが利口か、わかるよな?」  挑む目をする河合。眼圧があがりそうな十秒と少し。先に目を逸らしたのは、ぼく。 「その蜘蛛、どのくらいの大きさ?」 「やってくれんだ?」 「恩に着ろよ」 「三、四センチ? なんか毛とか生えてて、あれってタランチュラじゃねえの」  この新潟の雪深い旅館にそんなもんいるわけないじゃん。浅はかなサッカー部員。河合はきょうも電気ポットを持参してるだろうか。 「誰かカップ麺くわなかった?」      ♂  ぼくは口笛する。《巡礼の年 第二年補遺 ヴェネツィアとナポリ》より《タランテラ》、その冒頭部のパッセージ。タランテラは南イタリア発祥の超ハイテンポの舞曲。中世ヨーロッパで社会問題化したタランティズムという舞踏病もとい集団ヒステリー(そいつは毒蜘蛛タランチュラに咬まれたせいだ! 激しく踊りつづければ汗とともに毒が抜けて治る!)と関係あるとかないとか。十九世紀を生きた作曲家がそのことを意識したかは定かじゃないが、フランツ・リストらしい超絶技巧の連打音は蜘蛛の挙動を思わせた。ぼくの頭んなかで毛むくじゃらの蜘蛛が踊る、踊る、踊る。河合の鋭い無声音。 「吹くのやめろよ。がききつけたらどうすんだ」  口笛で性別はわからない。そう思ったが、やめてやった。階段の折返しごとに、見回りの教師がいないことをたしかめた。  問題の現場は四〇八号室。河合はこんどは慎重にドアを押す。奥には男子一人と女子三人。女子の二人は知った顔、堤香織と竹宮朋代だった。竹宮の姿に動揺したが、ぼくは河合に悟られないよう無表情をとりつくろった。  二〇七と同じくらいの広さ。だが、洋間と和室に分かれたスイートルームだ。灰白色のカーペットに散乱したUNOのカード。ぼくは右手に空っぽの日清カップヌードルビッグ、左手に薄っぺらい平成十一年度自然教室のしおり。狐目の工藤(サッカー部らしくスポーツ刈り&冬でも日焼け顔)がいう。 「どうすんの、それ?」 「捕まえて外へだす」  ぼくはいった。カップのなかに捕えて、しおりを蓋にするつもりだった。堤がぼそりという。 「あんなの潰しちゃえばいいのに」 「じゃあ、おまえがやれ」  その目を見て、いいかえす。その子はうつむいた。ぼくは誰にともなく尋ねる。 「蜘蛛は?」 「あっち」  工藤が和室を指差す。うまくやっても得はない。しくじれば立場がない。そんな仕事を買ってでたのは蜘蛛のためだ。蜘蛛はただ生きているだけだ。あたたかいところで越冬しようとして迷いこんだんだろう。ぼくは半びらきの(ふすま)を押す。壁際につくねられた旅行バッグ、桃・朱・橙・茶・緑・青・紫。女子のバッグって派手。 「たぶん、そのカバンの後ろにいるよ」  教えてくれる白いセーターの女子(ぽっちゃり体型)。ぼくは屈んで、その躑躅(つつじ)色のボストンをずらす。影が動いた。鋭い八本脚の落花生。何がタランチュラだ。ただのヤチグモじゃないか。蜘蛛はおたおたしてから、トルコ石色のバックパックの陰へ。 「河合。ここの鞄、全部どかそう」  あいつはつんとした顔で、あさってのほうを向きやがる。ぼくのいうことをきくのは沽券にかかわると思ってるんだ。ったく。ぼくは工藤にいう。 「手伝ってくれる?」  うなずく、お人よしそうな狐目。ぼくのネガティヴな噂は吹きこまれてないみたいだ。  障害物を除いた八畳間で、ぼくは畳を一発踏みつけた。身じろぐ蜘蛛、鈍い反応。弱っているんだろうか。これなら運動音痴のぼくでもいけるかも。カップとしおりを構えて忍び寄る。  うまいこと蜘蛛を部屋の角っこまで誘導した。今だ。ぼくはカップを振りおろす。追いつめられた命の瞬発力。逃げた。弱っても蜘蛛だ。そんな簡単なわけがなかった。蜘蛛は上へ。ぼくは壁を打つ。蜘蛛は逸れた。押入れの襖を這う。女子の悲鳴。うるさい。ぼくは襖を叩きしめた。一人だけ女子が和室にいた。途惑った目のぽっちゃり。ぼくは顎をしゃくる。 「騒ぐならでろ」  蜘蛛は水平移動、日めくりに寄り添う。ぼくは息を殺し距離をじりじりと詰める。可能なかぎりスローに構えてカップを一気にかぶせにかかった。  だが蜘蛛は動いてしまった。カップのふちで潰れる脚。やっちまった。六本になった脚で蜘蛛は走る。狂ったように走る。節足動物に痛覚はあるだろうか。唇を嚙んだ。さんざん這いずりまわって蜘蛛は窓のレールにうずくまる。これ以上、やつを痛めつけたくはない。息を深く吸って、ゆっくりと吐いた。  ぼくの手のスピードを、蜘蛛のそれが凌いだ。何を血迷ったのか、ぼくに飛びついてきた。右手にささやかな六つの爪の感触。パーカーの袖を這いあがる。とっさに道具を捨てた。掌でふわりと蜘蛛を覆う。  ぽっちゃりはまだそこにいた。 「窓あけて」  ぽっちゃりは声もなく駆けた。障子をひき、錠を解いて、ガラス戸をあけ放つ。蛍光灯に浮かびあがる雪のつぶて、襲いかかる氷点下の空気。こんな寒さへ放したら、きっとすぐ死んでしまう。でも、この場でぼくが叩き殺すよりは、外で凍え死ぬほうがマシだろう。せめて春の土に還れる。左手の封をのける。動きだした蜘蛛を後押しした。ごめん。  六本脚のヤチグモは脚を広げ、冷たい闇の底へ消えた。 「ふーん、やるじゃん」  少年アニメのヒロイン風の甘い声。ぼくよりも十センチはチビのぽっちゃり。白いセーターがワンピースになりそう。清潔な髪は短いしっぽ。丸っこい顔に平凡な配置の目鼻。美人じゃない。でも、なんとなくチャーミングだ。雪ん子って感じ。 「かわいそうなことした」  ぼくの言葉に、雪ん子は不思議そうにした。どうせ、わかっちゃもらえまい。ぼくは口を結んで窓をしめた。  紅梅色のヱ(がすみ)の襖をひらくと、迫る河合の図体。 「どうなった?」 「窓から捨てた」  竹宮たちが漏らす安堵の声。だが、きびしい面持ちを崩さない河合。 「うん、マジ」  受けあってくれる雪ん子。ようやく河合は納得したらしい。ぼくが仕事をごまかしてバックレるとでも思ったのか。もう八年近いつきあいになるのに、こいつはそんなこともわからないのだ。わかる気もないのだろう。ぼくはカップをゴミ箱へほうって、出口のノブに手をかけた。 「おい、これ持ってけよ」  河合が山吹色の袋を突きつける。ポテトチップス。コンソメ味は嫌いだった。 「いらない」 「なんだよ、せっかくやるっつってんのにっ」  ブチキレる河合。思いどおりにならないと、すぐこうだ。河合はぼくに恩を着るつもりなどなく、スナック菓子ひとつですませたいのだ。むなしさが募った。 「そんなに怒んなくてもいいじゃん。おかげで、わたしたち安眠できるんだから」  凛としたソプラノ。見なくてもわかる、竹宮だ。ぼくは無地の壁紙のざらつきを眺めた。河合のがさつな声。 「アーンド、こいつつれてきた、おれのおかげね。そこ重要だから」 「ちゃんとわかってる。ありがと、ショー」  ショー。その親密な響きに、ぼくは学年一の美少女を見た。カラータイツの極端に長い膝下。タイトミニの広い骨盤。オフショルダーニットの胸は姫林檎ほど。きょうは長い髪をサイドで一本に束ねていた。そのきれいな顔に、見たことのない不安げな色があった。  その子のまろやかな肩を、河合がひきよせた。ぼくを一瞥し笑う。優越感。竹宮はまんざらでもなさげ。深い失望を感じた。よりによって、なんで河合なんだろう。二人の背後で工藤がケッて表情。同感。やってらんねえ。ぼくはドアをあけた。 「北浦くん。また虫がでたら、お願い」  たわむれのように竹宮がいった。癇に障った。ぼくは自分とそう背のちがわない女子を睨んだ。 「もうでないことを祈ってる」  そのセリフは思うより、ずっといやみに響いてしまった。竹宮の自慢のスマイルがこわばる。ぼくは背を向けた。河合の声が追いかけてくる。 「センセにつかまっても、ここでのこというんじゃないぞ。おまえも共犯だからな」  返事の代わりに、ぼくはドアを鋭くしめた。ため息。ほの明るい廊下に女子の一団、ぼくを見て変な顔。ぼくはなるったけ堂々と歩いた。《タランテラ》のコーダを口笛して。あの蜘蛛は助けちゃくれないだろうな、ぼくがもし犍陀多(かんだた)のように地獄へ落ちても。ぼくは階段をリズミカルにくだった。      ♂ あおによし奈落の途中あああああああああああああくびのありす

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