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三哩(掌中の雪はもとの雪に非ず)

 二重構造のガラスは、それでも曇っていた。二〇七号室の窓辺。厚手のカーテンに隠れて、ぼくは素手で結露をぬぐう。四角い闇に雪片はスローモーションになったり、逆再生のように浮きあがったり。両耳にきらめくモニク・アースのピアノ、《子供の領分》の四曲目《雪は踊っている》。繊細な雪が夜の奥底へ降りしきるようなオスティナート。やさしくて、不安で、コミカルで、きびしい。《子供の領分》のなかじゃ一番弾きにくい。こういうミディアムテンポのスタッカートって、音の粒がなかなかそろわない。あまり手首をやわらかく使うと雪が溶けてしまいそうだ。ぼくは悩みつつ架空の鍵盤を叩く。ぶるっと身震いした。  背中で揺れるカーテン。芝賢治の頭が生えた。やつの口が動く。ぼくはイヤホンを片っぽひっこ抜く。シバケンはさっきと同じ口の動きでいう。 「なぁにしてんの、キタ?」 「雪ふってんなって」  ふーん、とシバケンは九〇度開脚でしゃがむ。鬱陶しかったが、あっち行けともいえない。ぼくの腹の高さ、茶髪の分け目が黒い。いわゆるプリン状態。ぼくは手をカラメル部分に置いた。いつも清水俊太にやるように。シバケンの途惑った目。ぼくは手をフリースの腹ポケットへ戻して、MDウォークマンをもてあそぶ。 「雪の結晶って観察したことある?」 「ううん」揺れるプディングヘッド。 「昼間さ、降ってくる雪を手袋の先でつかまえたんだ。すげえちっちゃいのに、ちゃんと花のかたちしてんの。虫メガネ持ってくりゃ、もっとよく見えたのにな」  シバケンは吐息を窓にかけた。くっきり曇ったガラスに、爪で何か描く。迷いのない手つき。ギッチョなんだな、こいつ。直径十センチほどの繊細な枝ぶりの六花(りっか)。それはへりから徐々に薄くなって消えてゆく。本物のように儚い。ぼくはほうっと息をついた。 「芝は絵ぇうまくていいよな」 「意味ねえよ。それでメシ食えるわけじゃねえし」 「おまえの絵ならカネとれそうだけどな」  シバケンは照れたのか前髪をいじる。「キタは将来の夢あんの?」  ぼくは考えた。何も思いつかない。「たぶん、会社員。芝は夢あんの?」 「絵描き」 「やっぱり」 「でも、ムリだ」 「なんで」 「中学でたら働く。おれんちオヤジいねえから。オフクロはカラダ(よえ)えし。働きだしたら、絵なんか描いてらんなくなる。だから今だけは、すきなことやるって決めてんだ」  同い年の男の横顔が大人びて見えた。ぼくは自分が働いて給料をもらうところなど想像できなかった。 「なあ、キタは夢かなえろよ。会社員じゃなくてもいいから、なんか夢かなえて高いとこの空気すってきてよ。おれのぶんもさ」  こういうとき、ぼくは気の利いたことがいえない。ぼくは息を窓にかけた。人差指でマル描いて点二つ、曲線一本……アホでも描けるスマイルマーク。ぼくの画力なんてこんなもんだ。シバケンは笑った。  スマイルマークが、ゆっくりと消える。シバケンも笑みを消す。右耳に清水たちのハシャいだ声。左イヤホンで《雪は踊っている》。にぎやかな部屋なのに、そのまわりのさらに大きな静寂を感じた。ぼくらは言葉もなく、ただ降りしきる雪を見た。  単調な電子のベル。沼尻貢のケータイかと思った。どうしてでないんだ? ぼくは重たい断熱カーテンをまくった。ベッドで沼尻はケータイを手に凍ってる。ベルは袖机の平たいプッシュホンからだった。ぼくはいう。 「それって内線用だよな?」 「うん。なんだろ?」  受話器をとる沼尻。やつの顔に動揺の色。電話を叩っ切った。 「な、なんか、女が変な声だしてたっ」  再びのベル。ぼくは無言で受話器を耳に当てる。最初、泣き声と思った。女の声はしゃくりあげるふうに短く繰りかえされ、ときに高く伸びた。それが性行為のイメージと結びついたとき、心臓を殴られたかに感じた。顔が火照る。もっと下のほうへも血が行きそうになる。いや、ただの悪ふざけに決まってる。ぼくはフックスイッチを押して受話器を戻す。 「イタズラだ。気持ち悪っ」  みたびのベル。なんなんだろう、この執拗さ。旅館は貸切だ。学年の女子のしわざにはちがいないが、この部屋を狙う理由が謎だ。陰湿なベルはやまない。 「しつけえな」杉俣孝作がいった。「電話線ぬいちゃう?」  シバケンが受話器をとった。冷静な顔つき。やつはやおらジーンズの股間を揉む。あぁん、あはぁん、とエロい声をだしかえす。シバケンのオナニーショー! どっと六人の爆笑。ぼくも噴きだした。相手はどんな顔をしているやら。想像すると腹の底から笑えた。  あ、切れた、とシバケン。つまらなそうに受話器をほうった。 「最っ高。エロシバ、ナイス!」  杉俣が親指を立てた。シバケンはピースで応じた。それきり電話は沈黙した。エロパワーでイタ電を撃退したことで、あいつは一躍ヒーロー。やつにはまたひとつ新たな称号が贈られた。  。      ♂ はかなさをきそいあいつつふるものをうけとめるのみ ふたり黙して      ♂  消灯時刻を大きく回った。間接照明のクリーム色の光に、ぼくらの影が怪物じみる。八人はシーツに半身を起こしていた。  みんな、週何日オナニーしてる?  オカズとやりかたは?  一日の最高記録は何発?  きわどいアンケートに、黙りこくる沼尻。杉俣がしつこくきいて、未経験なことを白状させた。沼尻が無邪気な質問。連中はこぞって手淫と射精の快感について語りだす、得意満面で。ベッド脇の布団で、ぼくは醒めた気分だった。父の部屋で、ぼくが団鬼六を見つけたのは小三。けれど、そんなことをひけらかす気などない。ぼくの口は重かった。  最も出口寄りで、シバケンはみんなを退屈な日曜日のテレビみたいに眺めた。ふっと口をゆがめる。大人の苦笑。ぽくは例の噂を思いだした。 「なあ、芝。童貞じゃないって、マジなの?」  シバケンはぽかんとしてから、薄く笑った。「そおだよ」  えっ、と誰かがいったきり、オナニー談議がやむ。面々に走る驚愕。疑わしげに五十嵐楓がいう。 「いつ、誰と、したんだよ?」 「ききたい?」  シバケンは問いかえした。余裕の態度。あゝ、マジなんだな、とぼくは思った。 「き、ききたいっ」  みんなの総意を代表して椎野亘がいった。 「夏の終業式のあと。ヨイチんち団地で、たまり場なんだ」  シバケンは活きいきと話しはじめた。ぼくはあんまりきかないようにしてたけど、要約するとこういう感じだ。 ・団地の部屋にはシバケン、髙梨(たかなし)与一(よいち)とミズノ、師岡(もろおか)キミコ先輩(三年生)がいた。 ・髙梨とミズノがどこかへ行った。二人はつきあっている。 ・シバケンが仰向けになって漫画雑誌を読んでいたら、師岡先輩が腰に跨ってきた。 ・シバケンと師岡先輩は対面座位でセックスした(シバケン風にいうなら、ズッコンバッカンした)。 ・最高に興奮したセックスだった。 ・ほかのやつにはナイショね、と師岡先輩は口止めした。 「でも、じつはニオイでバレてて、あとでヨイチにめちゃくちゃ怒らいた。おれんちはラブホじゃねんだよ、ダァホッ! って。そんだけ」  シバケンが話し終えても、しばらく誰も口を利かなかった。鼓膜を衝く雪の夜の静寂。みな一様にショックを受けた顔。ぼくだってそうだ。どうしてシバケンが天野(あまの)克浪(かつろう)や髙梨与一の班ではなくこっちの部屋に来たのか不思議だったんだ。このメンツのほうがそっちの経験値は低そうで、自慢が効果的だと踏んだにちがいない。ぼくなんか女の子と手をつないだことすらない。他のやつらだって、きっと似たようなもんだ。 「そんなにいいんだ? オナニーより?」  いち早く立ちなおって沼尻がきいた。こわいもの知らず。シバケンがニヤニヤと応じる。 「セックスのほがぜんぜんコーフン度やばい」 「タイメンザイってどういうの?」  まじめな顔で楠本(くすもと)素直(すなお)がきいた。シバケンは掛布団を蹴飛ばした。手招き。 「ちょっと、誰かひとり来てよ」  誰も立候補しない。シバケンは小走りに清水のベッドへ乗った。何!? って清水は這って逃げを打つ。だが、清水は推定四十キロ未満。子猫みたいに持ちあげられてしまう。清水を正面から跨がせてシバケンは腰をゆっさゆっさ。 「こおゆうカッコで、ズッコンバッカンすんのが、対面座位」  ちょっと、よせよ、と手を突っ張る清水。清水をひょいっと裏返すシバケン。演舞のような手際のよさ。こんどは背中から揺さぶる。リズミカルに軋むベッド。壁に伸びるふたりのいびつな影。隣のベッドで身を乗りだしている五十嵐、口が半びらき。 「こおすると、背面座位」  シバケンは笑って清水を転がす。四つん這いの清水の小さな尻。そこにナチュラルなグラインドでシバケンは腰をぶつける。その動きの生なましさに狂おしくなる。ぼくは目を背けた。杉俣たちは食いいるような目つき。 「これが後背位。ドギースタイルともいう」  ほんとマジやだー! 清水のうわずった声。ぼくは布団のなかでもじもじと腿をこすりあわせた。あおむけにくつがえされる清水。その膝のあいだに割りこむシバケン。正常位。そのくらいは、ぼくも知ってる。シバケンの動きが止まった。 「なぁに、おっ勃ててんの、シュンタン」  シバケンは清水の細い腿をばしりとはたく。みんなは手を打ち鳴らしてうけた。清水は首まで真っ赤になって、シバケンをがんがん蹴りかえした。その足首をつかまえて、シバケンは別な体位に持ちこんでしまう。乾燥ドラムのなかの人形みたいに回る清水。歓声をあげる杉俣たち。狂ってる。ぼくは不愉快で不愉快でたまらなかった。でも、どうすることもできない。バカ笑いするシバケンを、じっと睨みつけているばかり。      ♂ こどもの日うまれのぼくがいっぱしに尖るからって笑いすぎだろ      ♂  天は雲/地は雪。視程一キロ未満。ホウ酸みたいに細かい粒子が、息苦しいほど降ってくる。緑のニット帽・紫のスキーウェア・蛍光イエローのゼッケン、やけにうるさいコーディネイトのクソ中生たち(一学年八クラス二百八十余名)が遊ぶ、旅館の真横の広くはないゲレンデ。冬のポップスが四方八方のスピーカからてんでに鳴って、空間がひずむかに錯覚した。ぼくをゲレンデの高みへ運ぶ古めかしい木製ベンチ、座面が浅いうえにガタガタ振動するのでずり落ちそう。ゲレンデ中腹の折返し地点が近づく。おりそびれたら麓へ逆戻りで、みんなの笑いもの。ぼくはタイミングを計って、うまいこと着地した。  五十嵐はストックを握ったまま、しきりに首をひねったり、肩を回したり。ぼくの口から盛大に水蒸気。 「どうした、不景気なツラして」 「あのベッド、バカに硬くてさ。肉体も精神もボロボロっす」 「精神?」 「あれよ。シバケンに先こされてたのが、もうショックすぎて」  ゆうべのイタズラ電話の声と、シバケンの後背位が同時にフラッシュバックし、冷えた頬がじんとした。楠本がやってきて、ストックの柄をマイクにインタビュアーになる。 「いやー、夜のエロ劇場はセンセーショナルでしたね。ズッコンバッカン! 今年の流行語大賞を狙えると思いますが、いかがでしょう?」 「狙える。っていうか、流行らせんべ。ズッコンバッカン!」  五十嵐はげらげら笑った。ぼくは強引に混ぜっかえす。 「先こされるも何も、まず彼女つくるとっから始めなきゃな」 「いるぜ、彼女」 「うそっ」叫んでしまった。「その顔で?」 「失礼なやつだな。男は顔じゃねえ」 「誰だ、おまえを選んだ物好きは?」と楠本。 「岩中(イワチュー)の子。佐々木(ささき)小梢(こずえ)ってんだ。塾が同じでさ」 「かわいい?」 「超かわいい。ちょっと加藤あい似かな」 「どこまでいった?」と楠本。  にやりとする五十嵐。「女の唇ってさぁ、すっげえやらかくてシルクみたいにスベスベしてんだぜぇ」  うっひょーっ! 奇声をあげる楠本。絶好調! って広瀬香美が多重音声で(こだま)する。ったく、どいつもこいつも、なんでそんなにモテモテなんだ?  インストラクターが腕を振って合図する。おじさんの派手なウェアを目標に、うちの班のメンバーは順ぐりに滑る。何度目かの合図で、ぼくも飛びだす。時速三十キロ、雪が頬に心地よく痛い。まばゆいばかりの純白のふくらみやくぼみがぐんぐん迫っては残像となる。かっこわるく内股に板を八の字にひらいてブレーキ。全メンバーがひとところに集まると、おじさんが麓まで行って、同じことの繰りかえし。ゲレンデにでられるのはきょうまで。あすの朝には出発しなきゃならない。悔いは残したくない。ぼくらは滑って、滑って、滑って、転んで、また滑る。ぼくはパラレルターン気味に横滑り。板を二の字にそろえて止まることに成功。やったね。  でも、何か変だ。誰、このデブ? よく見たら、まわりじゅう知らないやつらばかり。ぼくは目測を誤って別の班へ着いていた。だって、この猛烈な降りのなか、クソ中生はみんな同じ衣装、でかいゴーグルをつけてると顔の造作だってよくわからない。しかも、ひとりだけ知ったツラがいた。河合省磨はあたりのみんなが振りかえるほどの大声で笑いやがった。あわてふためいて本来の班へ戻ったら、こんどは楠本や五十嵐にバカにされた。かわいそうなぼく。  ひっきりなしに落ちてくる雪を仰いでいると、ふわっと体が浮きあがる気がした。雪が目んなかに飛びこんで、目薬を差したみたいに眼球が冷えた。      ♂ さよならの儀式のごとくシャッターを切られるたびに目をつむる癖      ♂  夜。二〇七号室。三日ぶりのひとりぼっち。孤独は嫌いじゃない。ぼくがありのままでいることを、こいつは許してくれるから。ぼくはベッドへダイヴ。(こわ)いスプリングにはずんで硬いマットレスを沈ませる。転げまわって首をねじると、ダウンライトの光線が斜めに白っぽい壁を洗っていた。  目をとじる。胸に膝を寄せて、可能なかぎりちぢこまる。胎児のように。赤ん坊へ退行して、受精卵へ逆行して、きれいさっぱり消滅する。そういう妄想をする。なんべんも、なんべんも、なんべんも……なんべんやっても、ぼくという約五十キロの肉塊は変わらずここにあり、熱を発し、呼吸している。双つの肺が伸縮し、心臓が脈打つ。だいたい四リットルの血液が、ぼくには流れている。およそ一分間で四リットルが循環する。一時間で二百四十リットルが循環する。一日で五千七百六十リットルが循環する。一週間で四万三百二十リットルが循環する。一ヶ月間で十七万二千八百リットルが循環する。一年間で二百十万二千四百リットルが循環する。一生涯で……(づー)・とっ・くん、(づー)・とっ・くん、(づー)・とっ・くん、(づー)・とっ・くん……そんな膨大な仕事を不眠不休で死ぬまでやってくれるのだ、この心臓は。頼みもしないのに。  それって愛なんだろうか?  ドアの音に、ぼくは反射的に正座した。べつにまずいことしてたんじゃないけど、気持ちが素っ裸だったんだ。まさか、また河合? 振りかえって、シバケンの顔にほっとした。だぼだぼの薄鼠のハイネックパーカー、裾をひきずるブラックジーンズの両膝に穴。 「みんなは?」 「風呂」 「あ、そっか。キタは?」  はえてるとか生えてないとか、むけてるとか剝けてないとか大騒ぎされるのが面倒くさいだけだった。 「べつに。芝は何してんの?」 「うん、ちょっとね」  シバケンは籐のついたての陰へ。一抹の不安。ぼくらの財布は教師が預かってる。買物するならいちいち先生方にお伺いをたてなきゃならない。でも、みんなは面倒がって小銭を持ってた。ゲーム機やケータイは持ちこみ禁止! だなんて誰も守ってない。万が一、この状況でシバケンが盗みを働けば、真っ先にぼくに嫌疑がかかる。ぼくは忍び寄った。シバケンの背中は紺のダッフルバッグを探って、何かを服のポケットへいれた。ちらりと見えた赤っぽい布。 「それ何」  シバケンはかばうようにポケットを押さえた。怪しい。怪しすぎる。 「なんでもねえよ。ただの飲みもん」 「なら、見せて」  えっ、とシバケンはたじろぐ。 「見せられないような、まずいもんなんだ?」  やつは目を泳がせていたが観念したらしい。獲物をポケットからだす。臙脂色(えんじいろ)天鵞絨(びろうど)の袋。財布……ではないみたい。 「何これ」  シバケンは答えない。ぼくは奪った。内側に硬いもの。たぷん、と水の気配。袋の口を広げると、滑りでる金属製のボトル。あゝ、これ知ってる。スキットルだ。ぼくは頬笑んだ。 「これ、ウイスキーだろ」  シバケンは困惑顔。「いや、ブランデー」  ウイスキーとブランデー、ちがいがわからなかった。「とにかく酒だろ。どうしたの」 「兄貴のパクった。きょうで最後だからヨイチらと飲もうとおもって」 「お兄さんいたんだ。おれのじいちゃんも、こういうの持ち歩いてたよ。趣味の畑仕事のあいまに、これをチビチビやんのね。ちょっとちょうだい、っておれがいっても、笑って分けてくんなかった。十五年早い、ってさ」ステンレスの楕円柱の胴にくにゃんとゆがんで映るぼくの顔。「これ、ひと口くれよ。口止め料ってことでさ。いいだろ?」  にやっとするシバケン。「キタって、じつはワル?」 「芝ほどじゃない」  シバケンは思案するふう。「いいよ、ちょっとなら」 「やった」  ぼくは勇んで開栓した。パウンドケーキで嗅ぎおぼえのある、甘いかんばしさ。唾液がつかないよう、浮かせてボトルをかたむけた。冷たさと熱さが口を襲った。たとえればトニックシャンプーとかガソリン。ただの刺激物。じいちゃんがくれなかったわけだ。こりゃ子供の飲むもんじゃねえわ。ぼくは舌をだして口呼吸。シバケンは腹をかかえて笑う。 「そんなイッキに飲んだら死ぬし。これ、すげえアルコール度数たけえもん」 「知ってんなら先いえよっ」  あいつはスキットルを奪う。右の掌をくぼませ、そこへ褐色の液体を数滴。 「こんなもんでいいのよ」  そして、その手を舐める。うめえ、って笑った。どうしたってシバケンのほうがうわ手だった。ぼくはベッドにへたりこんだ。ひでえ目に遭った。あんなもんをうまいと思えるのが大人なんだとしたら、ぼくには大人って理解不能かもしれない。  大人が理解できたのは一分後。胸のあたりから全身がぽかぽかしてきた。蒸気の層にくるまれたように五感がぼんやりする。いい気持ち。なるほど。味じゃなくて、これを楽しむために大人は飲むわけだ。  シバケンが隣のベッドに座った。くっつく膝と膝。やつはブランデーを手に溜めては舐めとる。文字どおりの手酌。 「髙梨と飲むんじゃないの?」 「キタといるほがおもしろそ。どお、酔った?」  ぼくは目をこする。「ふわふわして気持ちいい」 「もっと飲む?」 「やめとく。悪酔いしちゃ困るし、脳細胞が死ぬ」 「なんだ、やっぱキタはイイコか」 「そうだよ。酒も女も知らない。バイク乗ったこともカツアゲやったこともない。耳に安全ピン刺してもない」自分がつまんないやつに思えた。ぼくは手を組んで伸びをした。すとんと肩を落とす。「おれとおまえはちがうよ。全然ちがう。べつに、悪い意味でいってんじゃないよ」 「キタは誰ともちげえよ。だからおもしれえんじゃん」  シバケンは手をねぶる。野性の猫が獲物の血をすするみたいに。そのさまは不思議とうつくしかった。小泉沙織や大久保弥生ならキャーキャーいうだろうか。 「ほんとは飲みてえんじゃねえの?」  ぼくが見つめるのをシバケンは勘ちがいしたようだ。やつがぼくの手をとった。 「はい、どおぞ」  つめたい酒が、右の手相の菱形に揺れる。果実の熟した香り。嗅ぐだけで酔っぱらいそうだ。ぼくは途方に暮れて、かぶりを振った。 「いらねえの? もったいねえ」  シバケンは屈みこんだ。ぼくの掌にざらつくぬるい舌。鳥肌。 「何すんだよ、汚いなっ」  ぼくは濡れたところをジーンズでこすった。シバケンは睨んだ。 「汚えってなんだよ」  マジで怒った口ぶりにあせる。ぼくが思っていたほど、こいつは温厚じゃないのかも。ごめん、ってぼくは小さい声。シバケンはムスッと横を向いた。 「これがかぐや姫だったら、んなこといわねえんしょ?」  かぐや姫。誰が呼びはじめたのかは知らない。いつからか《竹取物語》のヒロインの名がクラスでの竹宮朋代の符丁になっていた。理由はいわずもがなだ。 「なんで竹宮がでてくんだよ」 「だって、しょっちゅうジーッと見てんじゃん。すきなんだべ?」  ぼくは動揺して二メートルむこうの(ゆか)を見た。 「べつに。なんとなく目が行くだけ。だいたい、ほとんどしゃべったことないのに、好きになりようがないだろ」  それに竹宮は今やあの河合省磨の彼女なのだ。好きになるわけがない。 「しゃべる必要あんの? この子、目ぇキレイだなぁとか、いいケツしてんなぁとか、キッカケはそんなんで十分じゃねえ?」  シバケンの声は陽気だ。そんなに簡単でいいのか、人を好きになる理由は。簡単に好きになるから、簡単に嫌いになれるんだろうか。水を含んだように心が重たくなる。ぼくはうつむいた。こんな、ぶざまに揺らされる心なんて欲しくない。 「おれは、見てたいだけで……」 「見たいってことは、すきってことだべ。ちげえの?」 「わかんねえよ、そんなのっ」  ぼくの声がみっともなく裏返る。睨みつけても、シバケンは平然と見返してくる。ガンの飛ばしあいなら、やつはいわばプロだ。屈しないまなざしに、へし折られるプライド。ぼくは目を背けた。こんなことなら風呂をサボらなきゃよかった。 「初恋なんだ」  シバケンがいった。びっくりした。あいつは目で笑った。 「だから、よくわかんねんだろ。べつにフツーのことなんだから、恥ずかしがんなくていいじゃん。かぐや姫、髪とか肌とかめっちゃくちゃキレイだし、細いけどでるトコはでてんし」胸を揉むようなしぐさ。「気ぃ強いけど、鉄壁ってわけじゃねえし。イイ感じだよな。キタがやられちゃうのも、わかるわ」  ムキになって反論するのも嫌で、ぼくは黙りこんだ。そう思いたいなら勝手に思えばいい。 「でも、キタにはちょっとムズカしいかも」  カチンと来た。どうせ、ぼくはシバケンみたいにかわいい顔もしてないし、河合みたいにスポーツマンでもないし、女にモテたことなんかいっぺんもない。わざわざいわれなくたって、わかってるよ。  そう返そうとして、言葉を飲みこんでしまう。シバケンの横顔は美術室のブルータス像じみた険しさ。窓の外に何かあるのかと思った。べつに何もなかった。ガラスの暗いおもてに映りこんだ、左右反転した部屋。左右反転した、ぼくとシバケン。 「……芝?」  返事はない。まばたきすらしない。完全に凍ってしまった。  印象的なのは目だ。大きくて眼球の丸さがよくわかる。たったいま磨きだして、いったん水中に沈めて、掬いあげたばかりの煙水晶みたい。そのおもてにも左右反転した歪な部屋。窓と合わせ鏡になって無限に反射しあう、極小へ。その目の焦点はここじゃない場所へ絞られている。魂が体をおいてきぼりにしている。地球から二十億光年の宇宙船にいるかのように、ぼくは心細くなってくる。扉のむこうで誰かの笑い声がして、やむ。  静寂、寂寞(せきばく)寂寥(せきりょう)凄寥(せいりょう)……そのあとは?      ♂ 心筋は正しく笑い血液に愛を混入しているらしい      ♂  シバケンの魂がさまよっていたのは、すごく長い時間にも感じたけれど、うんと短いあいだにも思えた。ぼくを映す煙水晶の目。ぼくは安堵感につつまれた。 「なあ、キタ。イイコト教えてやろっか?」  いいこと? なんとなく淫靡なニュアンスに警戒した。「……何?」 「ぜってえオトせるキスのしかた」  シバケンはにっこりした。女の唇はシルクみたいだって五十嵐の話を思いだした。 「口と口くっつけるだけでしょ?」 「チョーお子ちゃま発言!」シバケンは爆発的に笑った。マットレスを滅多打ちする。「きゃわいー‼︎」  ムッとした。「じゃ、それ、どんな?」  シバケンは含み笑い。ぼくの隣へ移ってきた。二人ぶんの体重でマットレスが深ぶかと沈む。あいつは手招き。内緒話? ぼくの頬を、しめっぽい両手が挟んだ。シバケンの凹凸(おうとつ)の明らかな顔面が迫る。ぼくは腰からうえだけで後ずさった。 「実際にやんのっ?」 「だって、こおゆうの口先でゆっても伝わんねえべ」  平然といわれて、どんな表情をしていいのかわからなくなった。「や、その……ちょっと、抵抗が」 「ふん。どおせ、おれは汚えもんな」 「そんなこといってないだろ」  歩いていってしまうシバケン。怒らせたろうか? やつに貸したカネが、あと九百七十五円。悩んでいると、あいつが戻ってきた。手に封のあいたピンクの箱、Pocky 。 「じゃ、これでいってみよお」  意味がよくわからなかった。キスは決定事項らしい。シバケンが座ると、スプリングが鳴いた。やつはピンクのポッキーを咥えて、チョコのない端っこをぼくの口もとへ。意味がわかった。こいつとキス? ぼくは下を向く。そのパーカーにAUDIBLEってゴシック体、知らない単語。  まあ、シバケンはかわいいし、女の子だと思えばいけなくもないか。いいや、べつに減るもんじゃないし、もったいぶるほどのもんでもない。それでこいつの気がすむんなら。ぼくはポッキーの端を嚙む。顔と顔が近すぎて笑いそうになった。  シバケンの目は真剣そのもの。ぼくは表情筋をひきしめた。手をぼくの肩にかけて、やつは頭をかしげてポッキーを食べてゆく。八センチ、五センチ、三センチ……やわらかい! シルクってか、子猫の肉球みたい。小っ恥ずかしくて、ぼくは笑ってしまった。シバケンもうっすら笑ってた。ぼくはいう。 「ねえ、これ、まじめにやんなきゃだめ?」 「笑ってもいいけど、基本はマヂメモードで」  突きだされたポッキーを、ぼくは咥えた。シバケンは三分の一ほど食べて、寸止め。近すぎて顔に焦点が合わない。緊張感に耐えられなくなり、ぼくは残り四センチを食べた。掠めるほどにふれて、離れる。残るいちご風味。なんてことない。やわらかいだけ。やっぱり、キスってこんなもんか。 「慣れた?」 「まあ」 「つぎ、本番」  練習だったのか。シバケンが十の指をぼくの髪にくぐらせた。ゆっくりと、掻きまわすように、撫でる。その手つきが、こわいほどやさしくて、途惑った。記憶にあるかぎり、そんなふうに誰かにふれられたことがなかった。  シバケンの唇が血の色を透かして伸縮した。首の後ろに回される腕。濡れた音を立ててキスされる。額に、左下瞼に、右頬に、唇に。唇が唇をゆるゆるとなぞって、軽く吸った。変にくすぐったくて、落ちつかなくなる。目のまえに、耳翼が反っくり返って中ほどが高くなった特徴的な左耳。薄い耳たぶを貫く安全ピン、その束がちらちらと光を撥ねる。やつの鼻息で片頬が熱くなったり涼しくなったり。絡んだ腕の重みとぬくもり。その手先が背中をやさしく優しく掻いた。人間って、あたたかいんだ。そんなあたりまえのことすら忘れていた。希塩酸を浴びたみたいにヒリヒリする胸。 「あーんして」  あーん? ぼくは考えずに口をひらいた。シバケンが口を咬みあわせた。驚愕した。ざらついた舌がていねいにそこらじゅうをなぶる、歯茎の継ぎ目・頬の内側・奥歯のくぼみ・舌のおもて・うわ顎の裏……。こすれる前歯と前歯。他人の甘ったるい唾液。震えた。心臓が暴れだす。全身にくまなく血が巡る。尿道が痺れる――勃起してしまいそうになる。嫌だ。ぼくは身をひこうとした。けれど、シバケンは放さない。なかばのしかかってくる。ぼくと同等の体格。下敷きになったら、やばい。  反射的に、その胸を押した。あいつが落ちた。シバケンは(ゆか)で後ろ手をついた。瞠いた目。沈黙。ぼくの呼吸は荒くなってた。やつが顔をしかめて、安全ピンの刺さった耳たぶにふれた。その指先が赤く濡れる。血。ぼくは息を飲んだ。 「ごめん」 「いや、おれがわりい。ビギナーにやりすぎた」  シバケンの声は奇妙に冷静だった。指先をこすって血痕を剝がす。ぼくはウエットティッシュを持ちだした。それをやつの左耳にあてがう。 「痛い?」 「いいよ、だいじょおぶ。酒のむとカンカク鈍くなるから」  ぼくの手を押しとどめた。シバケンは左目をきつく瞑って安全ピンをはずした。 「穴ふさがっちゃうかな」  あいつはピンの束をゴミ箱へ投げた。それは撥ねかえってどこかへ失せた。舌打ち。 「おれ、やっぱヨイチらんとこ行ってくんわ」  シバケンはスキットルを拾った。ぼくは行ってほしくない気がした。でも、ひきとめてどうすればいいんだろう。シバケンは廊下へでて、いつもの顔で笑った。 「なあ。かぐや姫オトせたら、おれに教えろよな」  ぼくは曖昧にうなずいた。ドアがとじた。寒さに似た孤独感。空っぽのポッキーの箱。拾いあげて、そっとゴミ箱へ。  ドアがあいて、いっぺんに騒々しくなる。風呂あがりのルームメイトたちのお帰りだ。杉俣が話しかける。ぼくはうわの空。大丈夫? って清水にきかれた。ごめん、熱でたかも、先ん寝る、ってぼくはいった。布団をすみっこへ敷いて、着替えもせずにもぐりこむ。甦ってくる感触と味。拳骨で口をこすった。  かぐや姫オトせたら、おれに教えろよな。  竹宮朋代を、ぼくがオトす? 竹宮朋代に、ぼくがキス? そんな奇跡、起こるわけがなかった。九九.九九%、ありえない。仮に〇.〇一%の確率で訪れたとして、あんなことをしたらぶっ叩かれて泣かれそうだった。  無理。絶対、無理。      ♂ 顕微鏡写真の雪は親指の愛撫になおも正気を保つ

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