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三十八哩(火曜の塔の下)
二〇〇一年九月十一日火曜日。
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ランドマークタワー潰える日を映すシッダールタの瞼のしろさ
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横浜ランドマークタワーに戦闘機が衝突した。アニメみたいに二つに折れるタワー。まるで現実味がなかったので、夢だなと思った。ぼくは頭を振った。
時刻は明け方だった。ぼくはしばらくベッドでぐずぐずしてから、もう眠気が来ないと諦めた。懐中時計のゼンマイをきりりと巻く。ぼくは雨戸を細くあけた。秋の朝は大雨だった。
一階のブラウン管で、お天気リポーターが雨合羽で台風十五号の接近を告げていた(わざわざ雨風にさらされなくていいのに)。六枚切り食パンにケチャップ・とろけるチーズ・ピーマン・ウィンナーでピザトーストを焼いて、ぼくはもそもそ食べた。父が起きだしてくる。ぼくはトースターを指差す。
「焼くだけにしてあるから」
おゝ、助かる、と寝癖の父はトースターの摘みをいったん大きく捻って、小さく調節した。
「学校は休みになるか」
「たぶん。七時の時点で大雨警報がでてれば休みだけど、もう上陸するっていってるし」
「そうか。きょうはゆっくりしなさい」
「そのつもり」
ぼくはトーストの欠けらを咀嚼 して、カレンダー式の薬ホルダーの火/朝食後から水薬と副作用止めの錠剤をとり、牛乳で飲みほした。
あれから父が破壊した部屋のドアは外してしまって、アコーディオンカーテンをつけていた。それをぴったりとしめて、ぼくはベッドにあぐらをかいた。黒猫のポーチをあけて、タロットの束をシーツに置く。三年F組の小早川瑞乃にもう使ってないライダー=ウェイト版のデッキを譲ってもらったのだ、五〇〇円で。七十八枚をばらばらにステアする。集めて、揃える。上の束を、下の束と入れ替えた。さっと一文字 に広げる……ぐちゃぐちゃとばらついた。瑞乃みたいに鮮やかにはいかなかった。きょう一日の運勢は? と念じ、ぼくは手をかざして、一枚ひいた。
塔の逆位置――落雷に砕けて火を噴く塔と、落ちる王と王妃。げっ、と思った。正位置でも逆位置でも最悪のカード。それが塔だった。一応、ぼくは瑞乃にもらった『秘伝公開! 私のタロット占い』に目を通した、悪い知らせ・損失・災害・トラブル・破産・衝撃……どう読んでも、いい意味は見いだせそうになかった。ぼくはため息をついて、カードを片づけた。
台風十五号が鎌倉市付近に上陸し……とFMラジオが告げた。ぼくは学習机で、療養実施状況報告書を書いた。一日の過程をグラフ化したものだ。二枚四週間ぶん。くさなぎクリニックへの通院は月一だった。なかなか眠れなかったり、眠っても夜中や明け方に目が覚めたり、休日の昼間に寝てしまったり、睡眠時間がなかなか安定しなかった。
それから数学の参考書を解いた。受験本番まで、あと半年を切ってる。でも、いくら勉強しても、ぼくの場合は出席日数がたりなくて内申で撥ねられる可能性があった。どこにも行けなかったら、ぼくはどうなるんだろう。不安がくろぐろと頭をもたげてくる。ぼくはラジオを切って、CDをかけた。
マルギット=アナ・シュースの抒情的なハープ。フォーレ《塔の中の王妃》は、夢のなかできくようにやさしかった。ぼくは不安をしばし忘れて、耳を澄ませた。激しい風と雨の音。
懐中時計のゼンマイをきりりと巻いた。風防がⅦから中心へ向かって罅 入 ってる。最初はこれが気になって買うのをためらったけど、今はこの傷が好きだった。
これをくれた男のことを思った。矢嶋健はマンハッタンで、新しい学校で、新しい仲間を見つけられただろうか。あいつは気難しいから、そんなにたくさんの友達はできないだろうな。でも、あいつのヴァイオリンは多くの人を惹きつけるだろう。保土ヶ谷のへたくそなピアノ弾きのことなんて、すぐに忘れる。
ぼくは罅割れたラッキーナンバーを撫でて、勉強を再開した。でも、なぜかあの鋼色 の三白眼や歯列矯正器が脳裏にちらついてしかたなかった。
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幾葉 の耳あおあおと澄まされんラジオの声まで時雨れてゆけば
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塔の逆位置。まさか暴風で屋根でも飛ぶんじゃないかと戦々恐々としたが、台風十五号はたいしたことはなく、夜には外は静かになっていた。落雷に砕けて火を噴く塔と、落ちる王と王妃。ぼくは塔のカードを逆さにしたり戻したりした。べつにひどいことは何もなかった。きっと、ぼくの占いがへぼだっただけだ。そうにちがいない。ぼくはカードをポーチに仕舞った。
つい先程のニュースです、とNHKラジオ第一放送がいった。現地時間八時四十五分ごろ、ニューヨーク州マンハッタンで航空機が……。ぼくはアコーディオンカーテンを叩きあけて、階段を駆けおりた。
リビングで父はテレビを睨んでた。ブラウン管に粒子の粗い映像。秋の青空に聳 える双子の超高層ビル、一棟が黒煙を上部からあげていた。それがいろんな角度から映る。キャスターの説明で、マンハッタン島の世界貿易センタービルだとわかった。
「何があったの?」
「航空機がビルに突っこんだんだと」
「事故?」
「ありえない。航空機が飛ぶコースは決まってる。わざとぶつかったんだよ」
父は断言した。旅客機には人が乗っているのに、このビルにだって人がたくさんいるのに。理解できなかった。
「なんで」
「わからない。パイロットの気が狂ったとか……」
あれ、もう一機飛んできた……とテレビ局の誰かがつぶやいた。低空飛行の旅客機が、もう一棟のビルに突入した。煙と炎を噴くビル。塔のカード。ぼくも父も声もなかった。わざとだ。でも、なんのために? 誰も何もわかってなかった。キャスターとリポーターは今わかっていることを懸命にしゃべった。
映像が切り替わった。ワシントン、国防総省ペンタゴンに航空機が突入。黒煙をあげる林間の要塞。
「テロだ」
父はいった。パレスチナ民衆解放戦線が犯行声明を、とキャスターがいった。
朦々 と黒煙をあげる双子のビル。大きな手に潰されるように一棟が崩壊した。ものすごい粉塵がマンハッタンの街区を埋めつくす。
「……矢嶋」無意識に名を呼んだ。「矢嶋がいるんだ、ここに。学校がこのへんなんだ。どうしよう」
ぼくはプッシュホンの子機を握った。父がぼくの手を押さえた。
「どこにかけるんだ」
「矢嶋んちに……」
「落ちつけ。夜中だぞ。むこうの親御さんだって、まだ状況がわかってないはずだ。気持ちはわかるが、今は待ちなさい」
父のいうとおりだった。ぼくは子機を戻して、震える両手を祈りのように組んだ。
ブラウン管は二機目の突入とビル倒壊の瞬間を繰りかえし放送した。
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ぬばたまのブラウン管は幾億の火曜の塔を砂に還した
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