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三十七哩(弓に悪魔をのせて)
東海道新幹線ひかりの車内で、隣の席の清水俊太はまぬけな寝顔。やっぱり、乗りものに揺られると眠くなるたちなのかもしれない。朝八時に新横浜を出発し、小田原・熱海・三島・新富士・静岡・掛川・浜松・豊橋・三河・安城・名古屋・岐阜・羽島・米原をすっ飛ばし、あっというまに京都へ……っていっても一時間はかかるんだけどね。
さすがに全車両は貸切れないので恒例のレクリエーション大会はなくて、三年D組の連中はUNOやゲームボーイなんかに興じてた。ぼくはライヒ《ディファレント・トレインズ》をきこうとしたけど、うるさく感じてイヤホンをはずしてしまった。神経過敏になっているんだ。もう、ぼくは音楽をきけないんだろうか。だとしたら、ずいぶんさみしい余生だ。ぼくの寿命は、あと何十年だろう。半世紀くらいかな。長すぎて、うんざりする。
車窓の景色は音速で飛んでいく。ぼくはまだ見ぬ京都の街の音を思った。
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CDの寿命は百年われわれを輝きながら看取るのだろう
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三泊四日の修学旅行の日程は、一日目がクラス別体験コース・二日目が大阪ユニバーサルスタジオジャパン班別自主行動・三日目が京都班別自主行動。ぼくの班のメンバーは清水俊太・萩山大輔・杉俣孝作・小泉沙織・大久保弥生。みんなは基本的にぼくに無関心だった。清水だけが気を使ってくれたけど、あいつには悪いけど、ぼくはかえって鬱陶しかった。ほうっておいてほしい。同情なんてまっぴらご免だ。
USJのジョーズがボートに体当たりしてくるアトラクションと人ごみでぐったりして、ぼくはベンチに座った。薬でドーパミンとセロトニンを抑えているせいで、ひどく疲れやすかった。清水がかがみこむ。
「大丈夫? ちょっと休憩する?」
「おれ、ここで休んでるから、みんな行ってよ」
みんなもほんとうはぼくをうざがってるんじゃないかって気がした。清水は萩山や杉俣を見やった。行こうぜ、というふうに萩山は親指をつんつん立てた。清水は腕時計を見ていう。
「じゃあ、あと四十分したら、パークサイドグリルに来てね。そこでお昼にしよう」
やつらは次のアトラクションへ行ってしまった。あんなに鬱陶しく思ってたのに、いざ行かれてしまうと、さみしかった。ぼくは面倒くさいやつだ。
音楽もなしに座ってるのに退屈して、ぼくは一人で歩きだした。パンフレットの地図を広げる。ぼくがいるのはアミティ・ヴィレッジってエリアだった。程近いスヌーピー・スタジオへ行ってみよう、と思った。
スヌーピースタジオストアは、『セサミストリート』や《ピーナッツ》のキャラでいっぱいだった。控えめにいって、ぼくはスヌーピーが大好きだ。でかい縫いぐるみが欲しかったけど、予算の都合でスヌーピーがウッドストックを抱いたキーホルダーを買った。タグを切ってもらって、さっそく迷彩のデイパックにつけた。ぢぢん、とおまけの小さな鈴が鳴る。
「わー、すごい。かわいい」
ききおぼえのある声。ぼくは思わずシュローダーの等身大(?)パネルに隠れた。こっそり覗く。三年B組の菊池雪央だ。矢嶋健もいる。菊池は目をきらきらさせてエルモの縫いぐるみを抱っこしてる。矢嶋もクッキーモンスターを手にとる。
「おれも欲しい。一緒に買う?」
矢嶋もいつになく無邪気な顔。楽しい気持ちがしぼんでしまった。ふたりに見つからないよう、ぼくは素早く店をでた。やっぱり、あの二人つきあってんのかな、と思った。
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京都が四神相応の地っていうのは、あんたもきっときいたことあるだろう。東の鴨川を青龍、南の巨椋池 を朱雀、西の山陰道を白虎、北の船岡山を玄武が司 る。箱庭のような盆地の街。三日目、その碁盤の目状のストリートをぼくら右近中の三年生たちは東西南北縦横 に歩いた。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。
清水の強いリクエストで、清水寺 ははずせないってことになった。班のみんなは筧 の水を飲んで左は学問上達だの真ん中は恋愛成就だの三本とも飲んじゃだめだのとハシャいでたけど、ぼくは飲まなかった。ただの水じゃないか、こんなもん。
清水の舞台から飛び降りるつもりで……の常套句で有名な本堂の舞台、眼下は五月の万緑だった。くすんだ木の高欄のむこうは、狭い足場があるばかり。地上まで十三メートル。ここから飛べるか、ぼくは考えてみた。観光客も、班のやつらも、ぼくのことなんて気にしていない。ぼくは高欄の平桁に足をかけた。
がっと肩をつかまれた。ぢぢぢん、とキーホルダーの小さな鈴が鳴った。ぼくを高欄からひきずりおろしたのは矢嶋だった。グリーンのヘンリーネックTシャツ。左に緋色のケースを携えている。なんで修学旅行にヴァイオリンなんか持ってんだろう。矢嶋はぼくを奥の常香炉のそばまで連れてった。怒 れる鋼色 の三白眼。威喝い手を、ぼくは振り払った。
「放せよ。下、見てただけだよ」
矢嶋がいるなら、菊池も近くにいるはずだった。今の惨めなぼくを、あの子には見られたくなかった。ぼくはうつむいて、清水たちのところへ走った。
このあと二条城へ行くついでに、三条大橋を通ろうってことになっていた。三条大橋は、ぼくのリクエスト。東海道五十三次の終点だ。ぼくらの班は清水坂を下った。
数メートル後ろを、矢嶋が尾 けてくる。やつの班のメンバーは見当たらない。なに勝手に単独行動してるんだろう。うちの班のやつらも気づいたようだ。杉俣が清水にいう。
「何あいつ」
「気にしなくていいから」
ぼくは口を挟んだ。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。矢嶋はどこまでもついてくる。まるで七人目のメンバーみたいに。今、ふさわしい音楽はなんだろう。ガーシュウィン《パリのアメリカ人》かな。実際は京都のニューヨーカーだけど。
川端通りを鴨川の流れを遡り北へ。京都のストリートって直線的だと思いこんでたけれど、そうでもなかった。ゆるやかにカーヴしている。松原橋・団栗橋・四条大橋……三条大橋で、ぼくはみんなを先に行かせた。ぼくがとどまると、矢嶋も佇 んだ。橋のたもとで、ぼくらは向きあった。
「いつからおれのストーカーになったんだ。べつに死んだりしねえから、さっさと自分の班に戻れよ」
矢嶋は答えず、赤いケータイをいじって見せてきた。メール編集画面に、こう書いてあった。にげるな。おれから逃げるな? 人生から逃げるな? いずれにせよ、ぼくはむかついた。
「おまえはもう高校決まってるからいいよ。おれはこれから寺のことレポートにまとめなきゃなんないんだよ。邪魔すんなよな」
ぼくは背を向けた。手首をつかまれた。ぢぢん、と小さな鈴が鳴った。矢嶋は何か突きつける。クラフトカードだ。ぼくは受けとった。
・サラサーテ《ツィゴイネルワイゼン》
・J.S.バッハ《無伴奏ヴァイオリンによるパルティータ》よりシャコンヌ
・タルティーニ《悪魔のトリル》より第3楽章
……難曲三連発。わぁーお、マジかよ。
矢嶋はヴァイオリンの弦を二本ずつ鳴らして、黒檀のペグをいじった。あいつはうやうやしくぼくに一礼すると、ごくナチュラルに弾きだした。
三条大橋交差点のノイズをしのぐ、印象的なチャルダッシュ風の旋律。ピチカート・グリッサンド・重音奏法。ぼくはヴァイオリンは門外漢だけど、矢嶋の動きと音で超絶技巧なのはわかる。音色をききつけて、班のやつらが戻ってきた。物悲しいラッサンから、稲妻のようなフリッシュへ。矢嶋が飛び跳ねる。ピーター・パンみたいに。小泉と大久保がおたがいに抱きついてキャーキャーいう。
「「かっこいい‼︎」」
ちらほらと通行人が足を止めて、矢嶋のまわりに人垣ができはじめた。鋼色 の目が、ぼくを見やる。ぼくは呆然と突っ立ってた。わかっていた。ぼくのための演奏会だった。ぼくは《悪魔のトリル》をききたいと軽い気持ちでいったのに、矢嶋はずっと練習していたんだ。
野次馬が拍手した。悲壮感たっぷりに、二曲目が始まった。バッハの《シャコンヌ》は、いまだに演奏法が確立されていないのだと矢嶋はいつかいっていた。ピアノ編曲版もあるけど、ぼくは弾きこなす自信がない。このとらえどころのない長大な曲に神経を行き届かせるのは、並大抵の努力じゃなかった。誰も何もいわず、ただ音色に身をゆだねていた。
野次馬が拍手した。人数が増えていた。切々とした重音で、三曲目が始まった。約束の《悪魔のトリル》。ぼくは初めてきく。難易度は《シャコンヌ》ほどじゃない。でも、弾きかたを誤ると骨抜きになるタイプの曲に思えた。ジュゼッペ・タルティーニにヴァイオリンを弾いた悪魔は、メフィストフェレスだったのかな。矢嶋の弓の圧、一音一音への集中力。ぼくは知らず涙ぐんだ。
野次馬が拍手した。ぼくも拍手した。矢嶋はうやうやしくぼくに一礼し、そして人を割って駆け去った。風に吹かれるように。
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分かちあうことはできないまま僕らてんでに風の十字路に立つ
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うちの父も修学旅行で泊ったという末丸町の石長 旅館。ぼくはイヤホンで曲をきこうとしたけど、やっぱりうるさく感じてだめだった。矢嶋の演奏は、きっと特別だったのだ。
ぼくはB組男子の部屋を訪ねた。ポータブルスピーカーから宇多田ヒカル。五十嵐楓が夕焼けの窓にたそがれていた。ぼくは勇気をだした。
「あのさ、佐々木コズエちゃん、元気?」
五十嵐は意外そうに目を瞠って、不器用に笑った。「ふられちゃったよ。受験に集中したいって」
「それは、残念。あの、矢嶋って、どこか知らない?」
「さっきまでいたんだけどな。彼女んとこかな」
「それって菊池?」
「本人たちは否定してるけど、仲いいよ。なんか、ときどき、すげえ深刻な顔でしゃべってて」
そっか、といった。ぼくはもう気にならなかった。あんな演奏のできる男なら、菊池も好きになってもしょうがないよな。
ぼくは他の組の部屋をひととおり覗いたあと、非常階段へ行ってみた。ビンゴ。グリーンのTシャツ。矢嶋はしゃがみこんで、タバコを吸ってた。暗がりで橙色の火が明滅する。ぼくはタバコを奪って、階段の鉄板で躙 った。
「おまえさ、あんま調子こいてると、入学取消しになんぞ。気をつけろよな」
あいつは目を合わさなかった。二本目の煙草を咥えて、ジッポーで着火する。一瞬の焦げくささ。ぼくはため息をついた。
「ありがとな。あの曲、ずっと練習しててくれたんだよな」
矢嶋は黙ってタバコをふかした。
「ありがたかったけどさ、おれ、頭壊れちゃったのね。薬ずっと飲まなきゃいけないんだ。見て、これ」ぼくは両手の甲を向けた。十の指先が細かく震える。「薬の副作用でさ、指ががたがたなのよ。だから、おまえが思うような演奏は、もうしてやれない。残念だけど」
矢嶋は痛みを感じたように顔をしかめた。
「だから、おまえはマンハッタンで、新しい相棒を探せよ。それだけいいたかったんだ。じゃあな」
ぼくは腰を浮かせた。手首をひっぱられた。ぼくは尻もちをついた。階段の鉄板が鈍く鳴る。あいつのでかい図体が覆いかぶさって、力まかせにぎゅうぎゅう抱きしめてきた。ぼくはパニクって、もがいた。
「痛えな、なんだよ、放せよ」
矢嶋は放さなかった。ただ力を込めてぼくを抱いた。あいつの体温・息遣い・鼓動……想像したこともない。ぼくはなすすべなく、長い腕に収まった。なんだかグレートピレニーズに懐かれている気分だ。耳もとで洟をすする音。
「泣いてんの?」
あいつは返事をしなかった。タバコの残り香が、ぼくらをつつんでいた。
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修学旅行明けの月曜日、矢嶋はもう登校しなかった。あいつは何も語らなかった。あいつの涙が、ぼくのピアノを惜しんでのものだったのか、ぼくへのたんなる哀れみだったのか、わからないままだった。
梅雨が過ぎて、夏本番が来た。七月、あいつはマンハッタンへ発った。
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さよならのいいかたなんて知るもんか飛行機雲の一条の銀
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