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三十六哩(蛇は音楽を聴けない)
横向きのスチールデスクで、白衣の草薙為比古先生は深刻そうな顔だ。くさなぎクリニックの診察室。窓の幅広なブラインドごしに、タイル壁の白と電線の黒。ダイキンの空気清浄機の稼働音。ふたつの肘なしのオフィスチェアに、ぼくと父はいた。
「とにかく尋常じゃないんです。悪い夢を見るのか、夜中に叫んだり。死んだ友達が会いに来てるといって、ずっと独りごとをいうし。なんだか動きもおかしくて、蛇みたいで」
「だから、おれはおかしくないって」
父はどうしてもぼくを狂人にしたいようだった。草薙先生はカルテにメモをとって、額を押さえた。
「竜之さん、いったんはずしてもらえませんか。お父さんがいると話しづらいこともあるでしょうから」
蝶番の音がして、木のドアがしまった。先生は椅子の向きを変えて、ぼくと向きあった。
「竜也くん、夜は眠れてるかな」
「寝かしてもらえません」
「寝かしてもらえない」
「芝が話しかけたり、さわったりしてきます」
「それ以外の声はするかな」
「芝だけです」
先生はメモをとった。「眠れないと、つらいでしょう。眠れるようになる薬をだしましょう。朝昼晩のめば、きっと悪いものも寄ってこなくなります」
「芝は悪いものじゃないです。芝が来ないのはいやです」
「でも、それはだんだん悪くなるんです。このままじゃ、きみが参ってしまう。ご飯は食べていますか」
「食欲がなくて。父は食べろっていうんですけど」
「食べないと、死んでしまいます」
「それなら、それでいいです。芝のところへ行ける。もうご免です」
先生はカルテを置いた。
「ぼくにも、息子がいました。到は賢くて、とても優しい子でした。やさしすぎるくらいでした。いじめられた友達をかばって、自分が標的になってしまったんです。あの子は学校へ行けなくなって、うつのようになって、眠れないといいました。そのころ、ぼくはたくさんの患者さんをかかえていて、あの子の話なんてろくにきいてやらなかった。忙しさをいいわけにして、逃げたんです。ぼくは、ただ睡眠薬を処方して。でも、あの子はそれを飲まずに貯めておいたんですね。ある日、いっぺんに二〇〇錠を飲んで。いつまでも起きてこなくて。気づいて救急搬送してもらったけど、そのまま目が覚めませんでした。ぼくの罪です」
先生は目を真っ赤にして、ぼくの手を握った。
「初めにきみが現れたとき、到が帰ってきたのかと思いました。死なないでください。ぼくのために、死なないでください」
ぼくは手を振り払った。「おれは芝以外の誰かのために生きるなんて、もうご免だっていってんだよ。先生には恩を感じてる。とても感謝してる。尊敬もしてるよ。でも、所詮あなたは、もう向こう側の人だ。話すだけ時間の無駄だよね。おれは死ぬ気なんかない。殺されでもしないかぎり、死なない。でも、おれは誰にも殺されたりしないよ。おれのいってること、理解不能でしょ、あなたは?」
「……」
先生はこわばった顔で黙ってた。ぼくは椅子を立ち、深ぶかと頭をさげた。
「ありがとう、草薙先生。いままでお世話になりました。さようなら」
ぼくは木のドアをあけて、しめた。
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稲光まぶしからずや柔らかな瞼なくしし蛇の眠りは
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いろいろ薬を処方されたけど、ぼくは飲まなかった。だって、ぼくはおかしくない。いつになく気分がいいんだ。
――キタ。
芝賢治の声。いつだってあいつがそばにいてくれる。あいつの魂は、ぼくの心臓にいる。なかでころころ転がってる。ときどき腕に入って、ぼくの体をもてあそぶ。
――おれんだ。
「そうだよ、おまえんだよ」
蛇のように動く手。ぼくはケツの穴にヴァイブレーターを挿して、チンコをしごいて恍惚とする。でも、やっぱり、ほんとうは芝賢治の腕にきちんと抱かれたい。
――キタも魂だけになる?
「死んだら、芝とずっと一緒にいられる?」
――結婚したんだよ、おれら。
「そうだったな、越水神社でな」
ぼくは右耳をさわる。大粒のダイヤモンド。
――キタもおいで。
「おれ、死ぬのこわいよ」
――おれがいるのに。
「芝は、ほんとうに芝だよね?」
――おれだよ。
「なら、いいんだ。芝。もっと、やって」
蛇の手がぼくを責める。ぼくは幸福だった。
でも、眠れない。ぜんぜん眠れない。
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父は幼児にするみたいにぼくに接した。うんうんと笑顔で話をきいて、朝昼晩の食事を用意して、身のまわりの世話を焼いた。子供あつかいされるのは嫌じゃなかった。いままで父はぼくを大人あつかいしすぎていたのだ。
「おまえは百人に一人だって先生がいってたぞ」
洗面所の鏡の前、ぼくの髪にドライヤーを当てつつ父はいった。
「百人に一人って?」
「この病気の人は、普通はもっと被害妄想が強くて、まわりを攻撃しやすいんだそうだ。先生が訪問診療したら、相手がノコギリ持って待ってたことがあるらしい。おまえはかなり穏やかなほうだって」
「だって、おれ、病気じゃないよ。こういうのってスーパーフィールドっていうんだよ。矢嶋がいってた」
そうかそうか、と鏡ごしに父はうなずいて、さみしげに笑った。
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あるとき、芝賢治の声がしないことに気づいた。手もまえほど勝手に動かない。心臓に魂も感じられない。どうしたんだろう。あいつが成仏してしまったんだろうか。まだ四十九日はすぎてないのに。
「父さん。芝の声がしないんだ」
「それが普通なんだよ。よかったな、悪くなるまえにきこえなくなって」
「よくないよ! 芝に置いてかれちゃった。おれがぐずぐずしてるから」
ぼくはめそめそ泣いた。父はぼくを撫でた。
「それはほんとうの声じゃないんだよ。きこえないほうがいいんだ。こんどから、ちゃんと自分で薬を飲むんだぞ」
父は昼食のお盆に水薬を乗せて持ってきた。
「もしかして食事に混ぜてたの?」
父は困った顔をした。「おまえのためなんだよ」
「おれ、もうメシ食わない。最低だ」
ぼくは二階へ駆けあがった。
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持主が死んでしまえば本棚はバベルの塔として聳えたつ
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ぼくは部屋のドアを本棚で塞いだ(本を抜かずに、よく動かせたと自分で思った)。ハンガーストライキだ。芝賢治の声がききたかった。あいつの声がきけるなら死んでもよかった。あいつの声がきけないなら死んだほうがましだった。ここで即身成仏できるだろうか。どうせ死体は燃やされるけど。死んだあとの体なんて、べつにどうでもいい。脱け殻だ。
魂だけになって、芝賢治と遊びたい。魂だけでもセックスってできるのかな。それとも必要なくなるのかな。ねえ、どうなの?
返事はきこえなかった。父が変な薬を飲ませたせいだ。ぼくが芝といるのが、そんなに気に食わないのか。同性愛ってそんなに悪いことなのか。ただ人間を好きになっただけなのに。ドアの外で父が何かいってたけど、ぼくはきかなかった。
二日、三日とぼくは籠った。トイレはゴミ箱でした。ニオイなんてすぐに麻痺する。何もかも、どうでもいい。芝賢治がいないなら、意味がない。
四日目だった。わけのわからない途轍もない不安感で、ぼくは目を覚ました。窓の外は薄暗かった。夕方なのか、朝方なのか、判然としなかった。
唐突に声はした。河合省磨の声・清水俊太の声・菊池雪央の声・五十嵐楓の声・髙梨与一の声・香西博文の声・榊言美の声・天野克浪の声・工藤斗南の声・竹宮朋代の声・杉俣孝作の声・樋口未空の声・萩山大輔の声・海老原晋の声・葛城力の声。誰だかわからない声もきこえた。あらゆる声が虻の大群のように襲ってくる。
ぼくはCDラックにすがった。使い勝手の悪い回転ラックから、CDがごっそり抜け落ち、フローリングに散らばった。ぼくは一枚をシステムコンポにセットした。大好きなモニク・アースのドビュッシー。でも、数秒でつらくなって消してしまった。不特定多数の揶揄 い・嘲 り・誹 り・罵 り・論 い。ぼくの一挙一動、一瞬の思考も全て否定される。脳味噌が虻に刺されてるみたいに痛い。ぼくはCDを漁 った。こんなに音楽はあるのに、音楽がききたいのに、ききたい音楽がなかった。
ぼくはまた別のCDをかけた。暗いチェンバロ、端正なフーガ。この感じは、J.S.バッハだ。ぼくは音楽のヴォリュームをあげた。一二〇デシベルの音楽。でも、嘲笑も罵声も消えない。脳味噌が痛い。ぼくは音楽だけをきこうとした。
流麗なフーガが、途絶えた。バッハの未完のフーガ。バッハは死んでしまった。芝賢治は死んでしまった。おまえのせいだ! 誰かの声がいった。ぼくは絶叫した。
あのとき、越水神社で、芝賢治に殺してもらえばよかった。そうすれば、あいつは死ななかったかもしれないし、ぼくだってこんな思いをしないですんだ。こんな命、あいつにくれてやればよかった。
――いらねえよ。
あいつの声だった。CDの山に突っ伏して、ぼくは泣いた。
木の裂ける音。本棚が倒れて、数百の本が雪崩れた。金槌を持って、父が踏みこんできた。
「父さん、芝が……」
わあわあ泣くぼくを抱擁して、父も泣いた。
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「わかったでしょう。幻聴は初めはいいことをいってても、だんだん悪くなるんです」父の和室で草薙先生はいった。「ぼくが気に食わないなら、転院してもいい。紹介状を書きましょう。でも、薬とは、さよならできないんですよ。一生、飲みつづけなければいけないんです。きみやお父さんが普通の暮らしを送るためには、必要なんです。わかってください」
父にかかえられて、ぼくは震えてた。そこらじゅうから罵声がしていた。先生はいう。
「幸い、竜也くんは、薬が効きやすい体質らしい。薬さえ毎日きちんと飲めば、きみは普通の人と変わらない生活ができるかもしれない」
「飲めば、これ、きこえなくなるんですね?」
「ええ。ですから、当座は朝昼晩、忘れずに飲んでください。状態さえ安定すれば、薬の量も減らしていけますから」
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まぼろしをころしたいならおのれごと殺せばいいと錠剤を飲む
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幻聴は数日でやんだ。こんどは気分の落ちこみがひどくなった。なんの楽しみもよろこびも感じなかった。死んでしまいたい、と思った。うつ病って、こんな感じなのかもしれない。首を括りたくなった父の気持ちが、やっとわかった。
――いらねえよ。
あれがただの幻聴だったのか、ほんとうに芝賢治の霊の声だったのか、ぼくは判断がつかなかった。ほんとうにあいつの声だったとしたら、つらかった。
生きているとき、最後にあいつはいった。いちご水! と。いちご水って、なんなんだろう。それとも、ぼくがききまちがえて、じつはぜんぜんちがう言葉だったのかもしれない。芝賢治の最後の言葉を、ぼくは取り戻したかった。
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五月の大型連休明け、二週間ぶりの教室、ぼくは数分でギブアップした。みんなの声をきいているだけで、不安感が膨らんで動悸がした。幻聴のPTSDだろうか。
「しんどいなら、保健室登校でも大丈夫だぞ。無理はするなよ。おまえの気持ちが楽になることが大事だからな」
海老原晋先生はいった。いい担任に当たってよかった。それだけが不幸中の幸いだ。
ぼくはバッグを肩に、廊下へでた。別の組の矢嶋健と菊池雪央。菊池のポニーテールを、矢嶋はひっぱった。なにするの、と菊池の口の動きがいった。矢嶋は歯列矯正器を光らせて笑った。ぼくは固まった。廊下の先のぼくに気づいて、ふたりとも凍った。何かいわれるまえに、ぼくはダッシュで逃げた。
どうして、と思った。菊池は、ぼくがふったのだ。矢嶋だって、ぼくから絶交を突きつけたのだ。ふたりが仲よくしたって、ぼくがとやかくいう資格はなかった。でも、だけど……。
誰もいない外の非常階段で、ぼくはしゃがんだ。どうして、こんなに惨めな気持ちになるんだろう。しばらく、ぼくはぐすぐすと泣いた。
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魂極 る四季の螺旋を遡 りくだけるまえのぼくにあいたい
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占い師の小早川瑞乃は、校舎二階の三年F組になってた。ぼくが訪ねていくと、用心棒の髙梨与一がガンを飛ばした。ぼくは黙って瑞乃に夏目漱石を差しだした。瑞乃は千円ぶんにっこりして、髙梨にカネを渡した。
「ヨイチ。それでハロハロ食べてきていいよ」
髙梨はうれしそうな顔でガッツポーズして、廊下へ駆けてった。瑞乃はいう。
「ケンジのことかな」
ぼくはお客の席についた。「まえに占ってもらったとき、死神のカードがでたじゃない。ただの同情ならやめろって、きみは忠告した。あれって芝が死ぬって意味だったの?」
「そういうつもりじゃなかった。補助カードに悪魔がでたから、きみが愛欲に溺れてしまうんじゃないかと思ったの。死のカードがでる確率は他のカードと変わらなくて、でたからって人が死ぬなんてことは滅多にないの。わたしは一度しか経験がなかった。ヨイチのお父さんのときだけ。わたしは超能力者でも霊能者でもない。ただの占い師だから、読みちがえることもある」
瑞乃の目は悲しく澄んでいた。ぼくは右手で左手をきつく握った。
「こうなるってわかってたら、芝を選ばなかったよ。全部おれが悪い。ねえ、芝は自殺したのかな。芝が死ぬまえ、あいつと喧嘩んなって、最後にいわれたんだ。いちご水! って。意味がわからなくて。あいつが最後に、どういう気持ちでいたのか、それが知りたいんだ」
「それは、わたしも知りたい。ワンオラクルでいいよね」
ちっちゃな七十八枚のカードを、ぼくはばらばらに混ぜた。瑞乃がカードをまとめてそろえた。上半分の束をとって、下半分と入れ替える。そして、手品師のように一発でカードを一列に等間隔に並べた。相変わらず、お見事。
「いちばん心惹かれるカードをひいてね。上下はそのままね」
ぼくは手をかざして、一番光って感じられるカードをとった。棒を右手に握った女の人が玉座にいた。左手に大輪の向日葵、足元に黒猫。
「杖のクイーンの正位置」
「どういう意味」
「人生への愛、かな」瑞乃は頬笑んだ。「あいつは最後まで楽しかったし、自分自身にも満足してた。きっと、自殺じゃない。いちご水の意味はわかんないけど、決して意地悪でいったんじゃないと思う」
ぼくは泣きそうになって、瞼を片手で押さえた。「……よかった」
「まだ千円ぶんにならないね。きみのことも占うよ」瑞乃はカードをまとめて切って、もういっぺんきれいに並べなおした。「はい、どうぞ」
ぼくは迷わず一枚とった。いつかマクドナルドでもひいた、棒をいっぱい抱えこんだ人の絵。でも、逆さまだ。
「杖の一〇の逆位置。きみは責任を手放したんだ。それでいいんだよ。きみはちょっと背負いこみすぎだったの。いい? その棒は、もう拾わない。ほら、カードを見て。背景が明るい青でしょう。きれいな緑もある。今のきみには、景色を楽しむ余裕があるはず。きみの人生は、これからひらけるの」
ぼくの病気のことなんて瑞乃は知らないはずだけど、なんだかとても励ましてくれる。杖のクイーンと杖の一〇のカードを手に、ぼくは五月の明るい窓の外を眺めた。
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きのうから魚のいない水槽に虹の射しこむ角度があって
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