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三十五哩(ぼくの心はぼくだけが持っている)
夢のなかで、ぼくは芝賢治だった。体はあいつ/意識はぼく。ゼロハンにまたがって顔面で春の朝風を切ってる。このまま進めばもうすぐタクシーとぶつかるって、ぼくはわかってる。だけどあいつの体に、ぼくの意識は干渉できない。ブレーキを握ったり、ハンドルを切ったりできない。意識だけのぼくは、気をつけろ! ってあいつに忠告できない。どうすることもできない。交差点が近づいてくる。信号は黄色。芝賢治はアクセルをあける。ゼロハンが速度をあげる。タクシーは唐突にそこにいる。その車体は死神のように黒い。悲鳴じみて響き渡るブレーキ音。だけど、もう間にあわない。ものすごい衝撃が加わる。瞬間、重力は喪失する。体がゼロハンから放りだされる。手脚がちぎれそうな勢いで回転しながら高く高く宙に舞う。スローモーションのように。ひきのばされる恐怖。やがて重力が戻る。高く高く宙を舞った体は万有引力の法則にしたがう。どうすることもできない。そして頭からアスファルトに叩きつけられる。自分の内側で硬いものが壊れる音をきく。バウンドし、さらに転がる。転がって、転がって、転がって、ようやく勢いが死ぬ。ぼろぼろになって、芝賢治も死ぬ・死んだ・死んでいる。叫び声がする。誰かが叫んでいる。
叫んでいるのは、ぼくだ。叫びながら、ぼくは目を覚ます。ベッドのうえで。つめたい路上じゃない。背中を濡らすのは血ではなく冷や汗だ。胸が痛いのは内臓が潰れたせいではなく心臓が異常な速さで打っているからだ。ぼくは死んでいない。生きている。どうして? と思う。どうして芝賢治が死んでいるのに、ぼくは生きているんだろう。どうしてぼくが生きているのに、芝賢治は死んでいるんだろう。どうして? どうして? どうして?
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真夜中の時計のなかにチクタクと時間を齧るミッキーマウス
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三年D組の教室、ぼくはイヤホンで両耳を塞いでた。ベートーヴェン《エグモント》は、ネーデルランド独立のために戦った英雄エグモント伯がむざむざ処刑されるまでを描いたオペラだ。でも、主人公のパートが歌じゃなくてセリフ劇なので、なんだか外国のラジオドラマみたいだ。
誰かの笑い声が脳味噌を刺す。ぼくは音楽のヴォリュームをあげた。ぼくと芝賢治の十二日間の家出のまに、新しいクラスの人間関係は固定してしまった。ぼくはどこにも属せないまま、音楽をきいて平気そうな顔をするしかなかった。ぼくは懐中時計を見やった。二〇分間の昼休みが、異様に長い。ぼくは便所へ立った。たいして膀胱はふくれてなかったけども。
「盗んだバイクで無免許運転だろ。常習犯罪者予備軍じゃん。そういうクズは死んだほうが世のなかのためっしょ」
ききおぼえある、がさつな声。ぼくは男子便の入口で佇んだ。もう一人の声が応じる。
「でもさ、相手の人、逮捕されちゃったんだべ。てか、無罪でよくね?」
「だよなー。かわいそうに。あんなクズのせいで人生、棒に振っちゃって」
ふたりぶんの下品な笑い。ぼくの顔面から急速に血の気がひくのがわかった。
「今、なんつった?」
河合省磨と鈴木結人が、小便器 の前でふりかえった。ぎょっとした顔。
「芝のことだろ。謝れよ」
「なんか変な人来たんだけど」
「やばいよ、逃げようぜ」
ふたりは手も洗わずでていこうとする。ぼくは河合の襟をつかんだ。
「謝れよ、芝に謝れ」
「なんだよ、放せよ」
「謝れっつってんだよ」
河合の手が顔に当たった。ぼくは河合に頭突きした。なにがなんだかわからないまま、ぼくらは汚いタイルの床でくんずほぐれつした。絶対に許せなかった。芝賢治がクズなら、こいつはクズ以下だと思った。
「何やってんだ!」
「やめなさい!」
教師の香西博文と海老原晋だった。鈴木が呼んできたんだろう。河合は立ちあがろうとしたけど、ぼくは放さなかった。もう一発、頭突きを見舞う。小ウザイとエビセンがぼくらをひき剝がす。小ウザイに羽交い絞めにされ、ぼくはもがいた。河合を傷つけてやりたくてしょうがなかった。河合はタイルで切ったのか頬から血を流して、エビセンの背中へ隠れるみたいに後ずさった。
生徒指導室での話しあいは平行線だった。悪口をいった、いってない。先に手をだしたのはそっちだ、いやむこうだ。河合は自分が悪いなんて一ミクロンも思ってない。昔からそういうやつだった。ぼくはうんざりしてしまった。
「おまえは誰かのために自分が変わろうなんて考えもしないんだろうな。それでいいよ、おまえは。そのまま生きて、そのまま死ねよ」
「は? 意味わかんねえし」
河合は口をゆがめた。こいつとは永遠にわかりあえない。ぼくは地球人で、こいつはエイリアンなのだから。
「それとだな、北浦、そのピアスは外しなさい。他の生徒に示しがつかん」
小ウザイはいった。ぼくは睨みかえした。
「いやです。芝の形見なんです。外しません」
「香西先生。ぼくが話してみますから、二人にしてもらえませんか」
エビセンが助け舟をだした。ぼくだけが指導室に残された。エビセンはいう。
「おれは北浦が噓をついてるとは思わないよ。芝公のことは、残念だった」
「芝はバイクは盗んでない。ちゃんとおカネで買ったんです。ぼくを保土ヶ谷まで連れて帰ってきてくれた。それなのに、あんなふうに思われてるなんて……」
鼻の奥がつんとして、ぼくは涙ぐんだ。エビセンは手をぼくの肩に置いた。
「ごめんな。芝公を気にかけてやってくれって、おれが頼んだからだよな。おまえもお父さんのことで大変だったのにな。知らなかったんだ。ほんとうに、すまなかった」
ぼくはこらえきれなくなった。大粒の雫がとめどなく頬を汚す。口んなかがしょっぱかった。
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鹹 い波は海から消えなくて誰かが死んでも誰かが嗤う
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ぼくは部屋にこもって《エグモント》をきいた。エグモント伯はむざむざ処刑されてしまうが、最期まで英雄然とした態度を崩さずに逝くのだ。ぼくにとっては、芝賢治は最後までヒーローだった。誰がなんといおうと。
このオペラもききあきた。ぼくは回転椅子をひいて、学習机の一番下の抽斗をあけた。クロッカスの封筒、望月久美子。ぼくはペーパーナイフで開封した。
便箋は十三枚もあった。私も両親に虐待されて育った、と母は書いていた。あなたを育てるなかでそれを思いだし、その苛立ちをあなたにぶつけてしまった、申し訳なかった、でも……延々と重ねられる贖罪に見せかけた自己憐憫。私も被害者なのよ。芝賢治と出かけるまえに読まなくて正解だった。この世に被害者じゃないやつなんているかよ。バカだ。バカすぎる。完璧に幻滅した。よかった。
ぼくは一階へ。台所に立ち、便箋を一枚いちまい焜炉の青い炎にくべる。焦げて、縮れて、燃えあがる。人魂のように舞う。成仏。
こうして、ぼくのなかのおかあさんは死んだ。
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槍水仙 の花を一輪 じきに逝くシーズンに歩を止めたおまえへ
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薄墨色の天井を見つめて、ぼくは覚めていた。眠りたくない。眠ったら、またあの夢を見そうな気がする。ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ……目覚まし時計の音。カウントダウン。命の削れる音。ぼくは時計をつかんでぶん投げた。それは壁に跳ね返って裏蓋がはずれて電池が転がる。
静寂、寂寞 、寂寥 、凄寥 ……そのあとは?
自分の呼吸音だけがする。人は死ぬまでにおよそ五億回の呼吸をする。ひと呼吸のあいだに心臓は四回打つ。つまり二十億回の脈を打ったとき、寿命が尽きる。芝賢治の脈は何回、打ったんだろう? 思考はそこへ戻ってゆく。
死に出口はない。死に入口はある。いつでも、すぐ目の前に。たとえば、ぼくは呼吸をやめてみる……十五秒、三十秒、四十五秒、一分。苦しくなって、ぼくは息を吐いた。息を止めたくらいじゃ死ねない。ぼくは生きたい。ぼくは死にたい。芝賢治に会いたい。煙水晶の目。眼帯の天使。真っ青なアロハシャツ。ローソンの青い看板。ブルーブラックのゼロハン。流れる赤い血。冷たい霊安室。傷だらけの死体。絶叫のような泣き声。ナンデテメエダケ生キテンダ。線香のにおい。真っ白な骨。クズハ死ンダホウガ。笑い声。黄信号。黒いタクシー。ブレーキ音。黒い服の芝賢治。
――キタ!
飛び起きた。夢を見たのか。
――キタ。
芝賢治の声だった。
「しば……芝なの?」
――おれだよ。
幽霊なのだろうか。それでも、うれしかった。ずっと、芝賢治としゃべりたかった。できれば目を見交わして、抱きあいたかった。
――おれもキタとしたかったよ。
ぼくの考えは伝わってるみたいだ。「おまえ、死んだんだよ」
――でも、いるよ。しようよ。
「どうやって」
何かがぼくの両腕に入ってくる感じがした。勝手にびくびくと動きだす。蛇みたいだ。
ベッドの足もとに、家出のときの迷彩のデイパック。ぼくの手はファスナーをあけて、探りだす。グロテスクなほどリアルな形状の黒いヴァイブレーター。ぼくはそれをしゃぶった。芝賢治が悦んでる気がした。
蛇みたいな腕が体に絡みついて、弱いところを愛撫する。ぼくは裸に剝かれて、チンコをしごかれて、ケツの穴をいじられた。芝賢治の手つきだ。ぼくはうれしくて、よがり声をあげた。
階段を駆けあがってくる気配。ドアが勢いよくあく。裸のぼくに父は目を剝いて、怒鳴りつける。
「おまえは何をやってるんだ!」
ぼくはあぐらをかいて、震える両腕を広げた。蛇のように動く。
「芝が来てくれたんだ。腕のなかにいるんだよ」
「何をいってる?」
「魂だけになって、来てくれたんだ。声がするんだ。体がなくなっても、おれとしたいって。これも芝が買ってくれて」
ぼくはヴァイブを舐めた。父は顔面蒼白になる。
「おまえたち、家出のあいだ、何をしてたんだ」
「芝といっぱい寝た。数えきれないくらい。芝はおれの恋人だったんだよ」
自白剤でも飲まされたみたいにぼくはしゃべった。まるで抑制が利かなかった。
「あのワルガキ、うちの息子になんてこと……」
「おれの恋人のこと、悪くいわないで。おれと芝は恋をしただけだよ。それの何が悪いの」
「バカいうな。同性とそんな、いかがわしい……」
「なんで同じ性別の相手と恋しちゃいけないの。そんなのどうでもいいじゃん」
父はぼくを平手で張った。手加減はしてた。でも、父に殴られるなんて初めてだ。ぼくは左頬を押さえた。
「なんで叩くの。わかんないのに、なんで教えてくんないの」
父はぼくの両肩をつかんだ。「おまえは頭がおかしい。あした、草薙先生のところへ行こう。父さんと一緒に。あの人ならなんとかしてくれるから」
「あんた、息子をキチガイあつかいすんのか。信じらんねえ」
「どう見たって尋常じゃない。先生に診てもらえば、きっと楽になるから。な」
「おれはおかしくない。芝はいるんだよ。声がするんだ」
「それは幻聴だ。ほんとうじゃないんだ」
父は肩を揺さぶった。ぼくは父の胸を突き飛ばした。
「もういいよ。でてってよ」
「竜也」
「でてって、早くでてってよ」
ぼくは父を押しだして、ドアをしめた。ベッドに横たわる。
「ねえ、芝はいるよね?」
返事はなかった。
ぼくを案じる父の気持ちが噓とは思わない。けれど、あの人はそれよりも常識とか世間体とかを大切だと、どうしても考えてしまうんだろう。しかたない。父だって人間だ。完璧じゃない。父も、ぼくも、あんたも隙間だらけでガタガタだ。なあ、そうだろ?
なあ、こうして頭んなかで、ずっと、ずっと、あんたに話しかけているけれど、あんたって誰なんだ? あんたは、いるのかな。ぼくの話を、きいていてくれるのかな。わかんないけど、ぼくがほんとうのことをいえるのは、あんただけなんだよ。
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擦過傷負ってライ麦パン齧る「僕」が立つわが胸の切岸
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