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三十四哩(もう弥次でも喜多でもねえよ)
無免許運転の中三
タクシーと衝突死
十八日午前六時三十五分ごろ、横浜市保土ヶ谷区初音ヶ丘の交差点で、市内の中学三年の男子生徒(14)が乗ったバイクが、右折しようとしたタクシーと出合い頭に衝突。男子生徒は道路に投げ出され、まもなく死亡した。保土ヶ谷署は、タクシーを運転していた横浜市都筑区中川、運転手善養寺 定 容疑者(59)を業務上過失致傷容疑で現行犯逮捕、のちに容疑を同致死に切り替えて事故原因を調べている。
現場は信号機のある交差点。善養寺容疑者は「気がついたらバイクがすぐ目の前に来ていた」などと話しているという。男子生徒は無免許で、ヘルメットを着用していなかった。バイクは家族所有のものではなく、同署が調べを進めている。
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光りつつ震える車体傍らにもう帰らない街を見ている
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ぼくの新しいクラスは三年D組。担任教師は海老原晋だった。エビセンはうるさいことはいわず、ただ労 わるようにぼくの肩を叩いた。
「おかえり」
一階の裏庭に面した教室。新しいクラスメイトに知った顔が何人か。小泉沙織・大久保弥生・萩山大輔・杉俣孝作・清水俊太もいた。
「なんていっていいかわかんないけど、北浦が帰ってきてよかった」
そういうと清水は友達のところへ行ってしまった。変に構われないのがありがたかった。
ぬるくなったポカリスエットを手に、ぼくは芝賢治のことを考えた。あいつは死んだ。ヘルメットのせいだ。きっと、芝賢治にも、あの蝶のヘルメットは小さかったんだ。だから脱いでしまったんだ。ぼくが我慢してかぶっていれば、あいつは死ななかったかもしれない。
唯一、救いがあるとすれば、あいつが死んだのが朝だったことだ。夜には死にたくないと、あいつはいっていた。曇ってはいたけれど、夜じゃなかった。あいつは光のなかで死んだ。
それとも、あいつは自分が黒い煙につつまれるのを見たんだろうか?
肩を叩かれた。制服姿の矢嶋健は、銀の歯列矯正器を見せた。
「ずいぶんサボってくれたじゃないか。《スプリングソナタ》は最初からやりなおしだ。覚悟はできてるだろうな」
あゝ、こいつはぼくじゃなくて、ピアノの心配をしてたのか。ぼくはペットボトルを矢嶋の頭上へ持っていって、ひっくり返した。ほとんど口はつけていない。約一四九ミリリットル。みるみる濡れそぼってゆく、やつの上半身。そのポカリスエットくさい胸を、ぼくは突き飛ばす。二、三歩よろめく矢嶋。呆然自失の三白眼。ぼくは静かに低い声で告げる。
「おれはてめえのピアノ弾き人形じゃねんだよ。おれは芝の頭つぶれた死体、見てんだぞ。そっとしといてやろうって思わねえのかよ。どうして、おまえは他人のことを考えてやれねえんだ。おまえのそういうところが、おれはでえっきれえだよ。そんなに練習したきゃ、てめえだけでやれ。何が《スプリングソナタ》だ、何がラガーディアハイだよ。てめえは、そうやって一生ひとりで日の当たるとこ歩いてろ。てめえの相棒なんざ願いさげだ。二度と話しかけんじゃねえ」
空のペットボトルを投げつける。やつの怒肩に跳ね返って床にころころ転がった。
矢嶋は物いわぬ亡霊のように佇んで、やがていなくなった。絶対に何かしら反撃してくると思ってたのに。まあ、いい。面倒な手間が省けた。せいせいした。いい気味だ。ざまあみろ。
そう思いながらも、なんでだか、何かをまちがえたような気がしてならなかった。
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撫肩のペットボトルに砕け散り統 べられている光の一種
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春の小糠雨の夜。保土ヶ谷駅東口の斎場。右近中の制服の群れ。中途半端なダックブルーは、葬式にはそぐわない感じがする。芝賢治のクラスメイトだった元二年C組のやつらと、たぶん不良仲間。目につくカラーリングされた頭。
「ヤンキー率高いね」
清水がつぶやいた。ぼくは無言でうなずく。
目黒とユーヒもいた。会うのは卒業以来。二人はリーゼントじゃなく、オールバックにしてた。別々の高校の制服。以前より落ちついた雰囲気に見えるのは、そういう外見的なもののせいだけじゃないんだろう。むこうも気づいたみたいだ。ぼくは会釈した。目黒たちはうなずいた。清水がいう。
「北浦の家出中、矢嶋にシバケンの番号きかれたんだ。北浦はケータイ持ってないから。あいつ、何度も電話したけど、出てくれないって心配してたんだよ」
清水はケータイの着信履歴を見せた。たしかに四月六日に矢嶋健からの通話記録。あのしつこい非通知着信は、芝安吾じゃなくて矢嶋だったのだろうか。ぼくはかえって腹立たしい気分になった。清水はとりとめもなく話す。
「小二くらいまでは、シバケンとはよく遊んだんだ。休み時間に自由帳に絵を描きあったりして。あれ、きっと、まだどっかに残ってるよ」
シバケンが何枚も描いたぼくの肖像を思った。スケッチブックはぼくの部屋に置きっぱなしだ。ぼくはあれをどうしたらいいんだろう。
前の人の真似をして、ぼくはお焼香をすませた。髙梨与一と行き会った。
「なんで、てめえだけ生きてんだ。くそっ」
「ヨイチ」
小早川瑞乃が制して、首を振る。ほんとに、なんで生きてるんだろう、と思った。
不協和音のような音楽がきこえた。悲しげなヴァイオリン。たゆたう管弦楽。グロッケンシュピール。この曲、知ってる。野太い声明が始まった。あゝ、黛敏郎《涅槃交響曲》だ。葬式でこんな曲を流すなんて、ずいぶん変わってる。
人の頭越しに、花でいっぱいの祭壇。遺影の芝賢治はクソ中の制服を着て、幼い顔で笑ってる。きっと、入学まもないころのものだろう。髪も染めていないし、眉毛も剃ってない。撮られたとき、これが遺影になるなんて、あいつは想像すらしなかったはずだ。鼻を掠める、ほのかに甘い線香のにおい。
じいちゃんの葬式を思いだす。十一月、小春日和の昼さがり。じいちゃんの家での、小ぢんまりした催しだった。家族は、父とぼくだけ。参列者は、つきあいのあった近所の人と、かよっていたデイケアの仲間くらい。このたびはお悔やみ申しあげます、と大人たちは挨拶した。ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー、とお坊さんが木魚を叩いてお経を唱えた。
式はすぐに終わり、じいちゃんのお棺は霊柩車で火葬場へ運ばれた。火葬用の竈 の前で、お棺の蓋があけられた。家族のかた、最後のお別れを、とスタッフがいった。ぼくはお棺を覗いた。心筋梗塞は象に踏みつけられるように苦しいという。苦しんだはずなのに、じいちゃんは穏やかな顔をしていた。眠っているみたいだった。ぼくはじいちゃんに触ってみた。じいちゃんの頬はやわらかく、冷えきっていた。父さん、安らかに、と父はいった。何をいっていいのか、ぼくはわからなかった。お棺に蓋がされ、スタッフが木釘を打った。お棺が載ったカートが押され、竈へおさめられた。重たい音をさせ、竈の扉がしまった。父は、泣いていた。ぼくは、泣けなかった。扉のむこうで、炎が轟いた。父と大人たちは、そこから離れていった。ぼくは、その場を動けなかった。燃えるじいちゃんを思った。関東大震災の猛火をくぐりぬけた、じいちゃん。太平洋戦争も生き抜いて、ぼくのじいちゃんになってくれた。もう、じいちゃんには会えない。ようやく、ぼくは泣いた。父が戻ってきて、ぼくの手をひき、控え室に連れてった。
一時間ほどで、じいちゃんは焼けた。じいちゃんの骨は、ほとんど原形をとどめていなかった。そして、ところどころピンクや緑の染みがあった。ずっと血圧の薬を飲んでいたから、こうやって色がついたんだ、と父は説明した。それが、なぜか印象に残った。
これから芝賢治の亡骸は燃やされて、骨になるのだ。じいちゃんみたいに。芝賢治の骨は、まっ白だろうか。砕けた頭蓋骨は。眩暈がして、ぼくはしゃがみそうになった。粛々と続く《涅槃交響曲》の首楞厳 神咒 。
祭壇と同じ遺影をかかえた芝安吾は、疲れたように無表情だった。こんなやつでも、弟が死ねば悲しいのだろうか。やつの不良仲間三人、ルイがシバゴに耳打ちする。シバゴは、薄ら笑った。首楞厳神咒の声明が爆発した。
ぼくはシバゴへ近づいた。シバゴは不審げに見やる。弟と同じ色の虹彩。でも、似ても似つかない。
「芝の尻にバカって書いたの、あんただろ」
シバゴは、笑った。「バカじゃなくて、ドレイって書いてやりゃよかったな」
再び、声明が爆発した。ぼくはやつの胸ぐらをつかんだ。ゴッと顔に頭突きした。遺影が落ちてガラスが割れる。女の悲鳴。ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ……額がやつの鼻血で濡れた。それでも、ぼくはやめなかった。
シバゴの仲間が、ぼくをひき剝がそうとする。目黒とユーヒも加勢した。よせ、葬式だぞ、ケン坊を静かに逝かせてやれ。目黒はいった。ぼくは手を放さなかった。鼻血をだしながら、シバゴは薄く笑ってる。きききききわけろ! ユーヒは吃 りながら怒鳴った。ぼくは手を離した。
目黒がぼくをひきずって、会場の外へ連れだした。小糠雨の軒先、目黒はおっかない顔で、ぼくの肩を揺さぶった。
「おまえっ、相手わかって喧嘩売ったのか? シバだぞ。堕天のアタマだ。保土ヶ谷じゅうの族を敵に回したも同然だぞ」
重おもしい管弦楽と、高まる声明。あゝ、ぼくの頭んなかで鳴ってるんだ、と気づいた。
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火葬場の竈の扉おごそかに閉じて瞼は閉じられぬまま
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