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三十三哩(母を泣かすと海になる)

 百円玉の花は散らない。      ♂ 片方が失くなったなら意味がないピアス手袋靴下ぼくら      ♂  痛い右足をひきずって、ぼくは家までの数キロを歩いた。歩きながら泣けて泣けてしょうがなかった。道ゆく人が何事かとぼくをふりかえる。ぼくは不審者に見えるだろうか。  私道からわが家のポストが見えたとき、ぼくはどんな顔で家に入ろうかと思案した。でも、どうせ泣き顔だ。インターホンは押さず、鍵を使った。  ドアをあけたとたん、奥から父が飛びだしてきた。紫だった顔面は、普通の色だった。泣きだしそうな目の父。あゝ、ほんとに生きてた。ぼくは無言でスニーカーを脱いだ。 「いままでどこへ行ってた」  ぼくは答えなかった。横をすり抜けようとすると、父は肩をつかんだ。 「半月も、どこで何をしてたときいてるんだ」 「おれをみなしごにしようとしたくせに、いまさら父親づらすんじゃねえよ」  ぼくは振り払って、階段をのぼった。 「あの芝って子といたんだろう。悪い仲間に影響されて……」 「芝は悪くねえよ。悪いのはあんただ。この一年、おれがどんな思いで看病してたかなんて、あんたはわかんないだろ。あんたなんかいっそ死にゃよかったんだ」  ぼくは本気でいった。階段下で、父はぐっと黙った。ぼくは二階へあがった。父の足音もついてくる。  ぼくはデイバックを放りだし、着替えもせずベッドへ倒れこんだ。 「学校の先生にも相談して、捜索願をだしたんだ。みんな、どれだけ心配したか」 「おれ、疲れてんだよ。もう、ほっといてよ」 「父さんは気が気じゃなかった。おまえがどこかで死んだかと思って」 「自分で蒔いた種だろ。ほっといてよ。頭痛いんだよ」  ぼくは布団をかぶった。父はじっと佇んでいたが、やがて階段をおりていく気配がした。ぼくはホッとして、目をつむった。  疲れてるはずなのに、神経がピアノの高音弦みたいに張りつめて眠れなかった。ぼくはいったんベッドを抜けだし、システムコンポにCDをセットした。  シベリウス《レンミンカイネン組曲》は、フィンランド神話の英雄レンミンカイネンの旅を描いた連作交響詩だ。レンミンカイネンは妻探しに行って敵に八つ裂きにされ、でも母親に体を縫いあわされて魔法の薬で蘇るのだ。二曲目《トゥオネラの白鳥》が単独演奏される機会が多いけど、四曲通しできくとまた趣きがちがう。ぼくは涼しげな管弦楽に耳を澄ませつつ、しだいにうつらうつらした。  玄関にシバケンが訪ねてきた。黒いトレーナーをまとって、ぼくの名前を呼んだ。あいつの頭が割れて、両の目ん玉がでろりと飛びだした。  ぼくは跳ね起きた。夢だ。目覚まし時計を見た。まだ朝だ。心臓が別の生き物みたいに大きく脈打っている。ぼくはみずからの肩を抱きしめた。  階段を駆けあがってくる気配。父がケータイ片手に、戸口に立つ。 「いえ。ですから、息子は今ここにおりますが」  ぼくの鼓動は早まった。父は二、三しゃべって、通話を切った。 「誰から」 「いや、それが、保土ヶ谷署で息子さんらしき遺体を預かってるので、確認してくれって……何かのまちがいだろう」  ぼくはハッとして、胸のドッグタグをつかむ。  Kenji SHIBA  1986.10.9  Blood type B  Yokohama Jan  Hindu  シバケンのタグだった。  ぼくは家を飛びだした。カネの入った茶封筒を握って。美立橋で走ってくる白いクラウンに手をあげた。車が止まって、後部ドアがあいた。ぼくは乗りこんで、タクシー運転手に告げる。 「保土ヶ谷警察署まで。急いでお願いします」  すべて勘ちがいであってほしかった。ぼくは焦がれるような思いで車窓を見つめた。      ♂  保土ヶ谷署のロビー受付で、ぼくはまくしたてる。 「ここでタツヤ・キタウラってタグをつけた遺体を預かってますよね。それ、ぼくの友達かもしれないんです。会わせてください」  受付の女性は内線電話をかけた。白衣を羽織った男性がやってきた。検視官だろうか。 「では、ご遺体はシバケンジくんの可能性が高いんですね?」 「でも、確証はなくて。だから、顔を確認させてもらえませんか」 「損傷が、かなり激しいですよ。見たらショックを受けると思う。ご遺族にまかせたほうが」 「どうしても会いたいんです。お願いします」  ぼくは頭をさげつづけた。男性は気が進まないようだったが、最終的にはうなずいた。  霊安室は地下一階だった。簡素な祭壇の前、白い布をかぶった裸体、傷だらけの手足。白衣の男性が顔の布を剝いだ。  芝賢治の顔だった。つい数時間まえまで、芝賢治だったもの。何度も抱きあって、数えきれないほどくちづけあった体。でも、頭が割れて、顔がひしゃげて、鼻も殺げて……。墜落しそうな眩暈を感じた。 「芝です。まちがい、ないです」  ぼくはしゃがみこんで、口を押えた。暴力的な嗚咽と、お湯みたいな涙。      ♂ 見つめても見つめても見つめても凍蝶(いてちょう)めいた睫毛の眠り      ♂  地下の紳士トイレの洗面台で、なんべんも顔を洗った。鏡に死人みたいな顔。でも、ぼくは生きている。あいつは死んでいる。なぜあいつが死んでいるのに、ぼくは生きてるんだろう。  ぼくは気づいた。右耳の七色の光。〇.三三カラットのダイヤモンドピアス。  ピアス、膿んでねえかなって。  思い当たった。あの越水神社で、あいつがこれを着けたんだ。  おれと、結婚してくれる?  真っ暗な光が胸を貫いて、ぼくの過去と未来をどこまでも塗り潰した。あの純粋な男は、あの美しい感情は、とりかえしがつかない。  トイレの外へでた。中年の女の人が霊安室へ駆けこむところだった。  賢治いぃー! 絶叫のような泣き声。  ぼくは呆然とその声に打たれていた。もう全てが、どうしようもなく手遅れで、とりかえしがつかない。      ♂ ポケットできみの没年きざみつつ百円硬貨とわに咲くべし

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