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三十二哩(心ん中)
JR東北線に長くゆられるあいだに、ぼくは気分が悪くなった。座席の窓に凭れて、目をつむる。額にふれる骨ばった手。
「熱あがっちゃった?」
「……しんどい」
「もう次で降りちゃお」
「……でも、花巻 」
「いいんだよ。宮沢賢治もイーハトーブも、ほんとはどおでもいいんだ。芝の弟ってゆわれねえ場所へ行きたかっただけ」
向かいあわせの四人掛シートで、芝賢治はひっそりと笑った。左耳のダイヤモンドの光。
次は小牛田 駅だった。シバケンに肩を支えられて、(自動じゃない)改札まで歩いた。年配の駅員に切符を渡すついでに、シバケンはきく。
「このへんで泊まれる場所ありますか」
「ここはなんもねえですよ。お客さん、どっから来なさったの」
「横浜から」
「ヨコハマ! まあ、遠いとっから」
「花巻へ観光したかったんですけど、こいつが具合悪くなっちゃって」
「あらあ。そんなら陸羽東 線で古川 に行ったらいいですよ。あそこならホテルあっから」
しょうがなくて、また電車に乗った。一〇分ほどで古川駅だった。駅前のロータリーを抜けてすぐ、[東北イン]の看板。
シバケンはツインをとった。ぼくは窓側のベッドに倒れこんだ。乾いた咳がでる。あいつがぼくの服を脱がそうとする。丸まって抵抗した。
「……いやだ」
「ちげえって。汗かいてるから、着替えたほうがいいよ」
シバケンは浴衣を置いた。恥ずかしくなって、ぼくは背中を丸めて服を脱いだ。
♂
童貞のまま死にたいと思ってた宮沢賢治の詩を読みながら
♂
極彩色の夢を切れぎれに見た。浴衣に寝汗をびっしょりかいていた。ぼくは首を撫でた。ドッグタグのボールチェーン。寝返りを打つ。薄暗い。夜だ。
壁側のベッドに、シバケンが横たわっていた。浴衣の背中が、小刻みに揺れる。かすかな湿った音。あ、やってるな、と思った。あいつは仰向けになって、右手で胸を撫でた。左側を執拗にこする。こいつの利き乳も左なのかな。あいつの左手は布団のなかで、たぶんアレをしごいてる。濡れた音・静かな浅い呼吸・眉根を寄せたせつない顔。ぼくはどきどきして、ゆるやかに勃起した。あいつは掛布団を足で丸めてしまって、浴衣をはだけた。こんどは右手でチンコを握って、左手を尻へ持ってった。ケツの穴をくじって、鼻で小さく鳴く。
急に洟が垂れてきて、ぼくはすすりあげた。
わっ、とシバケンが叫んで、マッハで浴衣の前身頃を合わせた。
「い、いつから起きてたの」
「芝が仰向けになったあたりから」
あいつは気まずそうに黙った。ぼくは笑った。
「続けたら? 見ててあげるよ」
「ていうか、鼻血でてんじゃん」
「え、噓」
ぼくは鼻の下をこすった。薄闇で指が黒く濡れた。シバケンが笑ってティッシュ箱を投げた。
「鼻血だすほどコーフンしてもらえるとは」
「たまたまだよ、たまたま」
ぼくは鼻栓をつくって詰めた。あいつはベッドにあぐらをかいて、時代劇の江戸っ子のように諸肌を脱いだ。胸のドッグタグがミスマッチだ。
「見ててくれんの?」
ぼくはうなずいた。シバケンは左でチンコを握って、右で亀頭を捏 ねた。くちゅくちゅと粘液の音。あいつは歯を食いしばって、喉仏を見せる。ぼくは意地悪をいう。
「お尻はしないの?」
「恥ずかしいからヤダ」
「おれのケツはさんざんいじったくせに」
「キタのお尻はいいの、かわいいから」
「また芝のお尻に入れていい?」
「やだ」
「おれ、ヘタだった?」
あいつは手を止めて、真剣な声でいう。「……よかった。キタと一番最初にしたかった」
ぐっときた。体力さえ許せば、いますぐこの男をどうにかしてしまいたかった。あいつは股間の両手を動かして、色っぽいため息をつく。
「……見てて、見ててね」
あいつはチンコをぐしょぐしょにして、かわいい声で鳴いた。シバケンの扇情的なオナニーショーを見つめながら、ぼくは布団の下で股間を握った。
♂
朝、夢精していた。ぼくは一張羅のトランクスを脱いで、デイパックに突っこんだ。シバケンが目を覚まして、ひどく着崩れた浴衣をたくしあげた。
「どお、具合?」
「だいぶいいよ。あと二日も寝りゃ治るかも」
「そっか、よかった」
あいつはなぜか浮かない様子だった。ぼくはなんとなく嫌な予感がした。ずっと気になっていたことを口にする。
「芝、今いくら持ってる」
あいつはしぶしぶセカンドバッグをだした。シバケンの盗んだ上納金の残りが一万三二八五円だった。
「あの厚みだと五十万はあったよ。おれんちの月の生活費より多いよ。パチンコの儲けは? カネの使いかたが江戸っ子だな」
「それほどでも」
「ほめてないよ」
ぼくの手持ちが一万四一八八円。合計二万七四七三円。このホテルに一泊+朝食つきで五千円くらい。五日で破産だ。ぼくは熱があがりそうだった。
「キタが治るまでいて、踏み倒して逃げようか」
「警察に追われるよ。すぐ捕まって、帰らなきゃいけなくなる」
シバケンは絶望的な顔でうつむいた。ぼくは膝を打って、明るい声をだす。
「チェックアウトしよう。もっと安いところがあるかもしれないし」
♂
古川市はいちおう温泉地みたいだった。シャッターの降りた店が目について、寂れた雰囲気。ホテルや旅館はいくつかあったけど、相場はどこも大差なかった。
あちこち歩きまわるうちに、ぼくはまた気分が悪くなってきた。道にしゃがみこんでしまう。風邪のせいなのか、気温のせいなのか、寒い。手袋をしていても、歯ががちがち鳴る。シバケンが鷹のスカジャンを脱いで、ぼくに着せてくれた。着ぶくれてかっこ悪いけど、かまっちゃいられない。
温泉街の外は見渡すかぎり休耕田だった。シバケンはつぶやく。
「なんか、いい感じの納屋とかないかな」
「不法侵入だよ」
「んなことゆってる場合かよ」
あいつはぼくの髪をくしゃくしゃと撫でた。
沿線に桜の花の森。ぼくらは花吹雪に惹かれるように奥へ進んだ。朱い鳥居/甃 の参道。石の標柱に、村社 越水神社。シバケンがつぶやく。
「コシミズ?」
「それか、ヲチミヅかな」
「オチミズ?」
「飲むと若返る水」
「アムリタみたいなもんか」
シバケンは納得して、参道を辿った。手水場・石玉垣・阿吽の狛犬・石灯籠、そして小さな拝殿。シバケンは手を合わせて拝んで、ポケットを探った。安全ピンの針を伸ばして、賽銭箱の金具で尖端を丸め、格子扉の南京錠に突っこむ。三十秒でツルがはずれて驚いた。
祭壇の白銅鏡が月のように清らかだった。罰当たりとは思ったが、八帖ほどの板の間にぼくは身を横たえた。デイパックを枕にする。風が来ないだけで、寒さはだいぶマシ。あいつが跪く。
「ホッカイロとか買ってくるから、イイコにしてろよ。食べたいモンある?」
赤い皮の匂いが鼻の奥を掠めた。「林檎」
「林檎な。第二候補は?」
「なんでもいいから、すぐ帰ってきて」
ぼくはあいつの服をつかんだ。シバケンはやさしい目をして、ぼくの頭を撫でた。
♂
左イヤホンを嵌めた。ドビュッシー《荒れた寺にかかる月》。たゆたう水の月影めくピアノ。祭壇の神鏡 をぼくは見あげた。一尺五寸はありそうな立派なものだ。なんの神様を祀ってるのかな。やはりアマテラスだろうか、それともツクヨミだろうか。ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神/次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月読命……。御幕の御神紋は八曜に月だった。
うとうとしていると、扉の音。イヤホンの音楽はプロコフィエフ《別れの前のロミオとジュリエット》だった。シバケンがレジ袋をいくつか提げていた。
「ただいま」
「おかえり」
ぼくらはくすくす笑った。なんだかここが長年の棲家みたいでおかしかった。
「ごめんな。林檎はもう時季じゃないんだって。代わりにこれ買ってきた」
アップルジャムの壜だった。シバケンはプラスチックの匙でジャムを掬って、ぼくの口へ運んだ。
「はい、あーん」
ぼくは気恥ずかしかったが、頬ばった。甘い果肉。食べたかった味とはちがうけど、ぼくはうれしかった。
小さなころ、風邪をひいても母は看病なんかしてくれなかった。保険の仕事に障るからと、ぼくはじいちゃんちへ行かされて、そこで寝込んだ。じいちゃんはいつも玉子入りのおじやや、摩り林檎を食べさせてくれた。よしよし、八尋はいい子だな。
「イイコだな、キタは」
じわりと視界が滲んだ。ぼくは目をこすって、あくびするふりをしてごまかした。
あいつはやおら正座した。「あのさ、キタ」
「うん?」
「おれと結婚してくれる?」
ぼくはぽかんとした。結婚は十八歳にならなきゃできなくて、そもそも、ぼくもシバケンも男で……でも、あいつの顔は真剣だった。
「ただ、キタがうんってゆってくれたら、それでいいんだ。おれと、結婚してくれる?」
ぼくは頬笑んで、うなずいた。「うん、結婚しようか」
シバケンは泣きそうな目で笑って、ぼくの首を掻き抱いた。ぼくは涙腺がゆるみそうな気分のまま、あいつの頬の匂いを嗅いだ。
♂
掟など笑い飛ばして犬と犬みたいに睦みあってたかった
♂
ホッカイロを懐に、ぼくはしばし眠ったらしかった。右耳の違和感。シバケンがかがんで、ぼくの顔を覗きこんでいた。
「……なに」
喉がひっかかるみたいで、声がだしづらかった。頭が痛い。苦しい。寒い。
「ピアス、膿 んでねえかなって」
ピアスのことなんてすっかり忘れてた。直角にひらいたケータイが照明代わりに発光してる。神鏡のまどかな光。
「……さむい」
あいつがぼくに腕を回した。あいつの体も震えてた。
「おれのせいだな。あちこち連れまわして、あんまメシ食わさなかったし。ごめんな」
あいつは唇にキスした。
「……うつっちゃうよ」
「バカはカゼひかねえってゆうだろ」
「うそだよ。こうしてひいてるじゃん」
「ウツすと治るっていうだろ」
「それもうそだよ。ともだおれんなったら、どうすんだよ」
「それなら、それでいいかな」あいつは疲れたように頬笑んだ。「いっしょに、死ぬ?」
ぼくは不思議なほど驚かなかった。あいつはぼくの髪を撫でる。
「あのね。おれ、ほんとはキタに黒い煙みえてたの。初めから。濃くなったり、薄くなったりしながら、ずっと。もしかしたら、この子、死にたがってんのかなって。でも、おれが描いた絵ぇ見せたらさ、煙が晴れて、ピカッて光った気がした。一瞬だけさ。だから、おれがなんとかしてあげられるかもしんないって、おもったんだ。けど、だめだった。キタの顔が、わかんないや。キタはいま、死にたいっておもってるでしょ、すごく。おれが、殺してあげようか」
「……」
「キタんこと、殺しちゃおうかっておもったんだ、何度も。でも、しなかった。キタが、かわいそうだもん。でも、キタが死にたいんだったら、殺してあげるよ」
すうっと胸の底が冷える。あゝ、そうだ。やっと今、気がついた。ぼくは死にたかった。ずっと、死にたかったんだ。あいつの美しい煙水晶の目。そこに映るちっぽけなぼく。ぼくは、笑った。殺してくれって口にすれば、この男は叶えてくれる、必ず。
だから、いわない。こんな愚かで愛らしい男を、殺人犯にするわけにはいかない。
「おかして」
「でも」
「いいから」
「……」
「おねがい」
背面座位のようにかかえらえれて、チンコをしごかれた。馴染みのぬくもりと、においと、手つき。ぼくはすぐ勃起して、濡らした。パヴロフの犬。ねばねばと糸をひいた指で、シバケンはぼくのケツの穴をくじる。じっくりと時間をかけて、そこをひらかせる。
「……あゝ、いい」
「痛くない? もう平気?」
ぼくは四つん這いになった。ファスナーの開閉音と、衣擦れ。尻のなかが、あいつでいっぱいになる。えもいわれぬよろこび。ぼくは誘う腰つきをして、あいつを振りかえる。潤んだ煙水晶の目。
「キタんこと、鏡に映していい? さっき気づいたんだ。鏡んなかのキタには、煙がないんだ」
あいつはぼくの背中にしがみついた。
「おれ、キタの顔、ちゃんと見たいよ」
ぼくらは番ったまま慎重に立ちあがった。神鏡に映る、ぼく。左下瞼のホクロが、右側。ぼくの顔は頬骨ばかりが目立って、体はさわらずとも肋骨の本数がかぞえられそうだ。それなのに、シバケンはうっとりとささやく。
「キタは、かわいいね。すごくかわいいよ」
ぼくは泣きそうになる。こいつの鏡はとても澄んでいるかもしれないが、やはりゆがんでいる。そのゆがみにたまたま、ぼくの虚像がうつくしく結ばれてしまったんだろう。そして、ぼくのゆがんだ鏡にもまた、やつが。
死を抱くのは、どんな気分だろう。ぼくはこいつになんてひどいことをさせてるんだろう。こいつになんでもしてやりたい、なんでもあげたいと思ってた。でも、こいつに差しだせるものは、もう残っていない。この命しか。そばにいても、意味がない。こいつを縛りつけるだけだ。ぼくは愚かなナーガだ。パールヴァティーなんかじゃなかった。ぼくは顔を両手で覆った。
「泣かないでよ、キタ」
「……おれ、かえる」
「え?」
「……もう、だめだ。だめなんだよ」
泣きじゃくるぼくを、あいつはぎゅっと抱いた。
「帰ったら、会えなくなっちゃうよ。キタは、もう面倒みてくれる人いないだろ。どっか遠くの施設に入れられちゃうよ」
「……父さんは、死んでない」
「へ?」
「……家出したときは、生きてた。でも、死んだかも。顔が、すごい色だったし」
シバケンが急にアレを抜いて、ぼくの肩を押して座らせた。あいつのこわい顔。
「騙したの? キタのお父さん生きてるって知ってたら、おれはあんなヤバいカネ手ぇつけなかったよ。もうキタと会えなくなるかと思って……」
「ごめん。でも、まさか芝がカネ盗むなんて」
ひりひりするような沈黙。シバケンはふっと苦笑する。
「いいよ、おれもキタんこと騙したから。兄貴たちはキタをよこせなんてゆってない」
ぼくは呆然とした。「それなのに、あんな縛って、何日もレイプしたの?」
「だって、ああでもしなきゃ、ひきとめらんねえだろ。キタだってよろこんでたじゃんか」
「おまえは兄貴たちにオモチャにされていやだったっていってたのに、おれに同じことをするんだな。つまり、おまえはそんなやつなんだ」
「キタが先におれを騙したんだろ」
頭痛がひどくなって、ぼくはうなだれて膝を抱えた。
「でも、父さん、ほんとに死んでるかも」
シバケンは発光するケータイをつかんで、操作する。かろやかな電子音。あいつはケータイを耳に当てた。
「あ、キタのお父さん?」
ぼくはどきりとした。ぼくんちにかけたのか?
「すいません。キタをそっち連れて帰りますから。ちょっと待っててください」
♂
赤すぎる唇という活断層かさねましょうかメンソレータム
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