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四十哩(弥次喜多は四つめの街で)
むかーし昔、ある街に……。
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ローソンの光は青く洗いだすシッダルタ似の少年Aを
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「きみ、何かあったのかな。大丈夫?」
左肩に無線機のマイクをつけた警察官。駐車禁止の標識の横。ローソン保土ヶ谷駅西口店の光を背に受けて、ぼくはガードパイプのうえ顔の涙を拳でこすった。
「友達が死んだんです」
「友達が?」
「四月に事故に遭ったんです。最後に会ったのがここで」
「そうか、それは気の毒だったね。でもね、もう、だいぶ遅いよ。きみ、まだ十八じゃないだろ。きみにもしものことがあったら、家族がどんな思いをするか、きみはわかってるだろ」
警察官はぼくの年齢と名前と住所をきいた。ぼくは河合省磨と名乗って、あいつの住所と電話番号を教えた。
雨の降らない晩はほとんど、この場所ですごした。夜の駅前の移り変わりを何時間も眺めて、芝賢治のことを考えた。あいつのアレを思いだしてニヤニヤしたり、あいつの死にぎわを思って泣いたりした。また別の補導員に声をかけられたこともあった。他校のやつに喧嘩を売られたこともあった。それでも、ぼくは冷たい白いパイプに座った。ぼくはパイプ上で座禅が組めるようになった。そんなふうにして秋は深まっていった。
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霜月の夜の肌寒さ。イツァーク・パールマンの弾くマスネ《タイスの瞑想曲》をききながら、ローソン前のガードパイプにぼくは座ってた。パイプが軋んだ。誰かが腰をおろしたのだ。右に座ってたのは右近中の制服の小柄な男。ふさふさ坊ちゃん刈り。清水俊太だ。
「何してんだ、こんな時間に」
「塾の帰り。そこの臨海セミナー。北浦こそ、何してんのさ」
「瞑想」
清水は笑った。冗談だと思ったんだろう。
「清水は、やっぱ光陵高校いくの?」
「そのつもりだよ。北浦は」
「おれは、もう行けるとこねえよ。しいていうなら、程工 くらいだ」
「鶏口 となるも牛後 となるなかれ。北浦の頭であそこなら、大学の推薦もらえるんじゃないの」
ぼくはただ苦笑した。清水はため息をつく。
「ぼくと北浦は三年間、同じクラスだったよね」
「そうだな。すげえ偶然だな」
「偶然じゃないんだ。先生にこっそり頼んだんだよ。北浦と一緒の組にしてくれって」
「なんで」
清水は恥ずかしそうに頬笑む。「ぼくはいじめられたの、あれが初めてじゃないよ。小学校のときもチビ太、チビ助ってからかわれてた。毎日、きつかった。中学にあがって、北浦と会った。味方がひとりいるだけで、世界はちがってみえるんだ。北浦がいてくれて、ぼくはほんとうに心強かった」
ぼくの存在が、誰かの助けになったこともあるのだ。この小柄な男に、ぼくは逆に救われた気がした。
「あのときの北浦は、かっこよかった。神々しいくらい、かっこよかった。ぼくは忘れない。一生」清水は大ぶりな耳を掻いた。「ぼくね、いつか映画の脚本を書くんだ。北浦のこと、物語にしていいかな」
「ぜってえR指定だな」
そうだね、と清水は笑った。瞑想曲がしっとりと果てた。
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無自覚なさみしがりやの友達はチェブラーシカの耳をしている
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ことしの冬至は土曜日だった。午後、ぼくはぶらぶらと歩いた、今井町から神戸町へ。Blankey Jet Cityをハミングしながら。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。
横浜ビジネスパークのベリーニの丘は、橙色のコロッセオみたいな構造物だ。中心部の水のホールには、ことしも電飾チューブのクリスマスツリー。まだ点灯してないそれを眺めて、ぼくは円形の池のほとりに腰をおろした。一年まえの今ごろ、こうして芝賢治と一緒に点灯を待った。ぼくはマクドナルドのアップルパイを一人で時間をかけて齧 った。
ライラックってどんな花?
芝賢治の声を思いだす。芝賢治の目を思いだす。芝賢治の匂いを思いだす。芝賢治の肩の花奢さを思いだす。ぼくは涙ぐんで、アップルパイの残りを一口で片づけた。
インディゴブルーの黄昏。クリスマスツリーが白く目映く光った。ぼくは洟 をすすって、冷えた尻をあげた。
「約束は果たしたからな、芝」
ぼくはぶらぶらと保土ヶ谷駅前へと向かった。落暉がつかのま黄金色に残って、沈んだ。
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いつまでも波立ちやまぬ湖の深さは測り知れず黄昏
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西に傾いた三分の二の月。日曜が天皇誕生日で振替休日になったクリスマスイヴ。家でクソオヤジと神の子の降誕を祝う気分じゃなかったんで、ローソン前で考えに耽ってた。ヤッシャ・ハイフェッツの軽妙なヴァイオリンをききながら。ガーシュウィン《ポーギーとベス》。こんなときも晴れがましさとは無縁の保土ヶ谷の駅前が、ぼくは好きだった。
薄鼠 のダウンジャケット、縫目からコンニチハした羽毛が震えてた。そいつを摘まんでミッドナイトブルーの空気に放つ。西の弱風に流されてゆくそれを見送った。
その先に、大きな男が佇んだ。しばらく会わないまに、背がまた伸びた。真顔の矢嶋健は黒っぽいタートルネックに石板色 の襟なしのロングコートを羽織って、スキニージーンズとフリンジの革ブーツをはいてた。相変わらずおしゃれ。ぼくは何もいわなかった。表情も変えなかった。あいつもそうだった。
矢嶋は五十センチほどの距離を空けて座ってきた。ガードパイプが悲鳴をあげた。沈黙に風が吹いた。ぼくはいう。
「よお、久しぶり。元気そうじゃん。あっちの学校はどうよ。うまくやれてんの。友達できた?」
「……」
「テロんとき、大変だったろ。おまえがツインタワーの下敷きんなってたら、あそこ行って線香たいてやんなきゃって思ってたんだ。マジで。笑える?」
「……」
「なんか、いえよ」
「おまえが二度と話しかけんなっていったんだろ」
やつの日本語はぎこちなくなってた。こいつがむこうで過ごした時間を思った。半年以上もまえの感情まかせの言葉を、こいつはずっと気にしていたんだろうか。
「つうかさ、おまえ、なんでチン毛ないの?」
矢嶋はめんくらった顔。「永久脱毛」
「はあ? 普通、抜かないぞ」
「抜けた毛がつくと汚らしいじゃないか。ちなみに腋毛もない」
「潔癖症か」ぼくは苦笑した。「おまえの妹、生まれた?」
「八日にな」
「おめでとう。しかし、おまえはわけわかんねえ噓をつくよな。遺棄されたとか、養子だとか。おれはすっかり騙された」
「噓ついたつもりはなかった。ヘレンもBTもやさしいけど、まるで養子みたいな気分なんだ。トランクルゥムに入るまえのことが、何も思いだせない。だから、ケネス・ブレナンのことも、何もおぼえてない。仲がよかったのか、そうじゃなかったのかすら」矢嶋は月を仰いだ。「おれはフォードのトランクから生まれたんだ。おれのブゥスデイは、一九九〇年の四月二十六日だよ。そう思うことにしてるんだ」
なら、こいつはたった十一歳なのか? 理解できない感覚だった。
「昔話をしにきたわけじゃない」
矢嶋は角型二号の封筒を突きだした。三センチくらいの厚さ。
「なんだよ、これ」
「資料、おれのスクゥルの。おまえ、そこに編入してこい」
「あゞ?」
「おれに釣りあうやつがいねえんだよ。そこ来てピアノ弾け。おまえの頭と腕なら無理な話じゃない」
何をむちゃくちゃなこといってるんだろう。今のぼくの学業不振ぶりを、こいつは知らないのだ。ぼくの病気のことだって、わかってないに決まってる。
「Viano はまだ解散してないぞ。おまえが弾いた《ダヴィッド 同盟 舞曲集 》をきかせたら、いい反応だった。実技は免除してもいいってさ」
矢嶋は書類をひっこめようとしない。ぼくはしぶしぶ受けとった。ずっしりと重い。
「おれは今週いっぱいで、むこうに帰る。つぎの土曜日、同じ時間、もういちど来る。返事は、そのときにきく。どうせ、ここにいるんだろ。それ読んで、よく考えるんだな」
「いやだっつったら?」
「なら、それまでだ。おれは他の相方を探す」
「相棒だろ?」
「大差ない」
「まあな」ぼくはふと気になった。「おれがここにいるって誰にきいた?」
「シム」
清水は余計なことは話さないでくれたようだった。
「いい返事を待ってる」
そういうと十一歳のサンタクロースは行ってしまった。
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一週間なんてすぐ過ぎる。保土ヶ谷の空で満ちてゆく月。《ポーギーとベス》をききながら、マンハッタンのアスファルトを踏むのを想像してみた。摩天楼・自由の女神・ハドソン川・イエローキャブ・多様な人種の人びと……それは映画館のスクリーンのように実感のない想像だった。
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朝焼けのむこうの国をおもうとき誰もがさすらい鳥の血をひく
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満月にわずかにたりない月。ことしもあと三日。師走の土曜日の街は冷たい灯をともして役者だけ移ろってゆく。ぼくは定位置で自分のスケッチャーズの爪先を見ていた。ガードパイプが大きく軋 んだ。ロングコートの男がいう。
「返事をもらいにきた」
期待感を押し殺した声。ぼくはやつの顔を見ないようにした。
「じつをいうと、あの資料、英語で書いてあったから、ほとんどわかんなかった。でも、写真だけでも、めちゃくちゃ設備が整ってんのがわかんな。レッスンルームもステージもピカピカだしさ。あと、学費がめちゃ高いのはわかった。年間の学費三万ドルって日本円に直すと、うちの年収くらいだよな。たぶん」
「結論をいえ。行くのか、行かないのか」
ぼくは正面のタクシー乗場を睨んで言葉を投げだした。「おれは行かねえ」
「Whhhhhhhhy!?」
声のでかさに驚いた。近くで駄弁ってた塾帰りの小坊たちが何事かって顔。立ちあがった矢嶋の三白眼は悲しく澄んでいた。肩をすくめて、背を向けて、二度と現れない。そのくらいのドライな反応を予想していたのに。矢嶋は苦しげにいう。
「なんでだ、なんでだよ」
「考えりゃわかんだろ。おまえみたいなお坊ちゃんとはちがうんだよ。おれんちは毎月食ってくのでやっとだ。おれの薬代だってバカになんない。あのクソオヤジに留学費用払う甲斐性なんかねえよ。おれは夢なんか見てらんないんだ」
「おまえは行きたくないのかよ」
「行きたいよ。おまえが全額だしてくれるっていうならな。さすがにそこまでカネ持ちじゃねえだろ?」
矢嶋はスエードを填めた両手を握りしめた。じろじろ見てんじゃねーよ、タぁコ! ぼくは罵声を浴びせた。小坊たちはダッシュで散った。ぼくは水蒸気を長く吐いた。矢嶋は動かない。ぼくは微苦笑して尋ねる。
「おまえ、菊池とはまだ続いてんの?」
矢嶋は睨んだ。「キクーチさんとはつきあわなかった。あの子には、おまえのことを相談されてたんだ」
ぼくは動揺を顔にださないようにした。が、成功したかはわからない。矢嶋はそっぽを向く。
「あの子、死ぬほどシリアスに悩んでるもんだから、おれはつい、あいつのこと話しちゃった。ちょろっと」
「あいつ?」
「あのシーバってやつのこと。おまえと、できてたって」
「はあ? なんでいうんだ。バカか、おめえは」
ぼくは矢嶋のふくらはぎを蹴った。あいつは動じずにいう。
「それで、一回、キスした」
「あゞん?」
「一回だけだ。しかも、したら泣かれた。おまえは選ぶ相手、まちがったんじゃないのか」
「菊池を選んでたら、芝は死ななかったかもな」
矢嶋はぐっと黙った。ぼくは右耳の石にふれた。風呂のときも眠るときも外さなかった。
「おれは、あいつじゃなきゃだめだった。おれはものごころついたころから、誰かに愛されてみたかった。ずっと、うんざりするくらい執着されてみたかった。母親がそうしてくれなかったからだ。おれは、そうしてほしかったのに。だから、芝にそうしてもらえて、うれしかった。あいつが男でも女でも関係なかった。おれはあいつの魂がすきだったんだから。その透きとおった、ゆがんだ魂が」
ハイフェッツの弾く《アヴェ・マリア》。ぼくのすれた魂に沁みる。
「でも、おれは、まちがってた。そうしてもらいさえすれば、自分の隙間は埋まると思ってた。バカだったんだ。おれはあいつの純粋さを利用して、死なせた。結果的にはな。おれは人殺しだ。おれはそれを死ぬまで背負う。逃げも隠れもしねえよ。でもよ」夜の光が滲んだ。「でもよ、いまは死にてえほど、つれえんだよ。そんなふうにいわれたら、おれ泣いちゃうぜ」
「……悪かった」
「おまえ、初めて、おれに謝ったな」ぼくは詰まった鼻で笑った。「おまえも大人んなったんだな、ちょっとは。みんな変わっていくな。この街も、ちょっとずつ変わっていくしさ。おれは、それを、ここで見届けたいんだ。ここは芝が生きて、死んだ場所だから。こんどばっかりは、おまえの負けだ。おれは、どこにも行かねえ。おまえがマンハッタンが自分の街だって思うように、おれにとっちゃ、ここが自分の街なんだ。ここがおれの双六盤 なんだよ。おれには他の盤なんてねえんだ。おれはピアノは続ける。でも、おまえに指図されんのなんか、もうご免だ。おまえはひとりで、どこへでも行けるだろ。さっさと行っちまえよ」
「……」
「おまえなら、大丈夫だよ」
「……」
「行けよ」
矢嶋はものいいたげな表情をした。だが結局、何もいわなかった。やつのブーツの音が遠ざかるのを、ぼくは天を仰いできき届けた。
凍えた月の色。
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車道から照らされるたびわが影は狂った冬の羅針儀となる
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満月。眠らないローソンの前。ハイフェッツの弾く《レントよりも遅く》。いつものように瞑想してるとガードパイプに重たい当たり。でかいやつだ。ぼくは瞼を伏せていた。
「マンハッタンに帰ったんじゃなかったの?」
「今夜、発つ」コントラバスの声。
「先に断っとこう。最後のお願いにあがりました! って頭さげて説得しに来たんなら無駄だぞ。おれの返事は変わらない」
「そんなんじゃない。おまえのいいぶんは、よくわかったから」
「じゃ、なんだ」
ようやく、ぼくは目をあけた。思い詰めた人間の横顔、矢嶋はいう。
「今、いわないと、一生、誰にもほんとうのことがいえないまま、死んじゃう気がするから」
「へえ、きかしてもらおうじゃん。おまえの思うほんとうって?」
ぼくは薄く笑った。矢嶋はうつむきがち。
「とりあえず、童貞は卒業した。もちろん、相手は女の子だぞ。ついでにいうと、カナダの子だ。チェロを弾いてる。ウィンタァ・ミラァって名前で……」
「おまえが女を抱こうが男と寝ようが、知ったこっちゃないよ。どうしてそんな念を押す」
ぼくは苦笑した。矢嶋はアスファルトばかり見ている。
「もう時効だと思うから、カムアウトしていいか?」
「何を」
「中学のころ、一時期、おまえがすきだった」
ぼくの鼻は皺。「は?」
「勘ちがいするな。べつに不健全な意味でじゃないぞ。あのシーバとかいう変なやつと一緒にするなよ。あるだろ。いまいち理解不能な異性より、頭ん中どっこいどっこいの同性の友達とつるんでるほうが楽しいって時期。たぶん、他のやつらはもっと早くにそれを経験するんだろうけど、おれは少し遅かったんだ。おまえに会うまでは、友達がいなかったから」
最後のセンテンスのぎこちなさは、きっと恥じらいだと思った。矢嶋は続ける。
「あの日、おまえの手ぇ握ったとき、ヴィジョンが見えた。モゥツァルトの楽譜と、ピアーノの鍵盤。それで気になってた。おまえ、歯並びいいし、傘の畳みかたがきれいだし。おれのヴァイオリン、目ぇつむってきいてくれるから」
「そんな理由なの?」
「あのシーバってやつに横どりされたときは、かなりショックだったよ。一緒に家出なんかしやがった日には、もう頭んなか真っ白だった。……おまえが帰ってきた日は、うれしかったんだ。あのシーバは、もう死んじまったらしいし、これでまたすきなときに、おまえと遊べるって思った。けど、おまえにとってはシーバは大事な……友達だったんだろ? 死んだら、つらいに決まってるよな。そこを、おれは、うまく考えられなかった。そういうとこがきらいだって、おまえはいったんだよな? でも、これがおれなんだ。おれは自分を曲げる気はない。このままの自分で、どこまで行けるか、それが知りたいんだよ。おれの実験は続行中なんだ。……だから、おまえとは、ほんとうの意味じゃ、仲よくはなれないんだろうな」
「……」
「それでも、おれは」
がっと右手首をつかまれた。矢嶋は、大きく息をした。やや膨らんでは、かすかに萎む、コントラバスめいた胸。
「それでも、おれは思うよ。いつか、どこかで、おまえとまた、会えたらいいなって」
大きな乾いた左手。痛いほどの握力。目一杯の感情。横顔のままに矢嶋は告げる。
「もし、それまでに、おまえが、自分で自分を見限ったりしてみろ。おれは、おまえを、許さないからな。一生!」
そして、やつは手を放した。雪が春に解けるように自然に。
矢嶋はガードパイプからしなやかに腰をあげる。ミディアムテンポで歩いてゆく。環状一号線方面へ。東へ。ぼくは見守った。やつの出立を。やつの広すぎる背中は、だんだん晩冬の闇に溶けこんで、やがて見えなくなった。一度も振り返らないのが、矢嶋らしかった。
いつかの口から出まかせの昔話を、ぼくは思いだしていた。こっそり、つぶやく。
「……むかーし昔、ある街に、ヤジさんとキタさんがおりました」
あいつは行ってしまった。あいつの街へ。
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