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四十一哩(ハードボイルドハイスクール)
旧約聖書に則るならば一週間の初めは月曜日で、ぼくの実感としても異存はない。《I don't like Mondays》って古いヒットソングがあるように、ぼくも月曜日は嫌いだ。ちなみに神が第一日目につくったのは光だった。その光が薄っぺらなカーテンをうすみどりに透かす。
入学式の朝だった。真新しい制服を着て、ぼくはクローゼットのドア裏の鏡を覗きこんだ。ネクタイの締めかたが怪しかった。どうにかそれらしく結び目をつくって、ドアをとじかけて、またひらいた。クローゼットの奥から、紺の手提げの紙袋をひっぱりだす。中二の秋、矢嶋健がくれた誕生日プレゼント。掌に収まるほどの平たい鳩鼠色 の箱、金色のリボン。大人になったらあけろ、自分で大人になったと思ったら。高校生、十五歳。もうけっこう大人だよな。ぼくはどきどきしながら、リボンを解いて、蓋をとった。
小さな真珠の挟まった銀のグランドピアノ、タイタックだ。P900の刻印。横浜ベイシェラトンホテルの宝石店で、ぼくらが拾った二十二粒のうちの一粒か。矢嶋はぼくがネクタイをしめてステージにあがると思ったのかな。綴蓋に真珠。ぼくは苦笑いして、それをを連隊縞 タイに刺した。
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不合格通知は折って飛ばそうよ四月は四月の風が吹くから
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火曜日、神がつくったのは天だった。曇天。県立保土ヶ谷工業高校。通称・程々工業、程工。おととし改築したばかりの校舎。機械科の一年Ⅱ組の教室に、男の集団独特のニオイ。無個性な紺のブレザーの群れを冷たく眺めて、ぼくは席を動かなかった。やつらは自身と相手の立ち位置を探りあいながら無秩序なざわめきを立てた。ぼくの片イヤホンから、ウラジミール・アシュケナージの弾くプロコフィエフ《ピアノソナタ第六番》、第一楽章アレグロ・モデラート。力強い打楽器的な打鍵、不協和音の連続。弾くのが大変そう。
破裂音! 斜め前の席の男が派手に屁をこきやがった。あたりに漂うインドール・スカトール・アンモニア・硫化水素――
「くっせえ」
ぼくは呻いた。屁の男が席を立って、顔面を寄せてくる。
「あゞん? 何いってくれちゃってんのかな、キモウラくん」
中学でクラスメイトだったこともある天野克浪。にやにやとガムを嚙む。ライムミントの香。舐めくさってやがる。ぼくは静かに席を立った。右手をポケットに入れて。
「傷ついちゃったな、慰謝料もらわなきゃな。ほら、サイフだせよ」
ぼくは右手をだした。財布じゃなく、スタンガン。改造はしてない市販の規格品。それでも最大出力三〇万ボルト。ヴァチヴァチヴァチヴァチ……! 豪快に弾じける小さな青白い稲妻。天野は痙攣して椅子と机を乱しながら倒れた。わぁーお、効果絶大。ぼくはスタンガンにキッス。
だが、天野は倒れはしたものの、意識は失っていない。戦闘意欲も。ぼくを睨みつけ、立ちあがろうとしている。ぼくは自分の机を薙ぎ払い、天野のうえに飛び乗る。やつの胸をお立ち台にし、むちゃくちゃに踊った。跳んで、踏んで、回って、また跳んで。ぼくは笑ってた。ぼくの青い上履きの下で、肋骨が何本かいかれたかもしれないが、そんなのはどうでもいい。
ふと気がつくと、お立ち台は白目を向いて泡を吹いて失神していた。ぼくは観客席を見渡す。驚愕に見ひらかれた目・目・目・目・目・目・目・目・目・目……。ぼくはプロの舞台俳優のように胸を張り、腕を広げ、声の限りに絶叫する。
「きけええええぇーっ!!! おれは大魔神シヴァさまの首を飾る邪悪なナーガだああああぁーっ‼︎ おまえらあぁ、跪けえぇーっ‼︎ 命乞いをしろおぉーっ‼︎」
小僧から石を取り戻せ! ってついでに叫びたくなったけど、それはよしておいた。あんたが《天空の城ラピュタ》を観たことあればわかってくれるよな。なあ、腹の底から叫ぶのは、最高に気持ちいいよ。そして、ぼくは高笑いした。アニメの悪い雑魚キャラっぽく。新クラスメイトたちは、もれなく不揃いな地蔵のごとく硬直していた。
騒ぎをききつけたのか、引戸を叩き開けてジャージの威喝い教師が現れる。小ウザイみたいなやつ。状況を一目見るなり、ぼくにいきなりつかみかかり、高速往復ビンタをかましてきた。だらだら鼻血を流しながらも、ぼくは笑うのをやめなかった。超最高の気分だったんだ。
ぼくの高校デビューは、ざっとこんなもんだった。
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デオドラント臭の男らハジけ飛ぶ強炭酸の青春のなか
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「派手にやられたな」
目黒秀気 は赤マルを咥えた。桃の絵の箱(安全燐寸/品質特撰)のマッチを振って火を消す。庇の出ばった茶髪リーゼント。程工の校舎屋上、フェンスごしの鳥曇りに巨人の墓標のように横浜ランドマークタワー。ぼくの指のあいだでタバコが無駄に灰になる。二、三口すっただけで喉と頭が痛かった。ぼくは鼻栓のティッシュを押さえる。
「喧嘩は勝ちました。これは教師にやられました」
「六平 だろ。あいつは壊れたテレビは殴っときゃいいと思ってるバカだからよ」
「いまどきいるんですね、あんな昭和な暴力教師」
「余裕でいるぞ。ここは治外法権の出島みたいなもんだ。まあ、早く慣れるこったな」
「メグさんも殴られました?」
「入学したころ、何人かで便所で吸ってて、流したら便器が詰まりやがってよ。あのすっぽんすっぽん、わかるか」
目黒は便所用のラバーカップで便器を押しこむジェスチャーをした。ぼくはうなずく。
「それをやってたら見つかっちまって、全員一列に横並びで一人ずつビンタされてよ。んで、最後の端っこだったからって、おれだけ往復ビンタで。そこは公平に一発ずつにしろよって文句いったら、なんだその口の利きかたは! ってもう一発食らってよ」
ぼくは笑った。目黒はいう。
「反省文、書かされるぞ。あのおっさんのバカのひとつ覚えだよ。でよ、キ印。これ、行かねえか」
目黒は野球のバットを振るジェスチャーをした。
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制服を焦がす この街は(どの街も?)モノクロームの車が多い
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旧帷子橋 のモニュメントと灯籠がある天王町駅前公園で、ご近所の学校法人横浜天王高校の白鳥 雄飛 と合流した。ちなみに天王高校は通称ノータリン高だ。天王→低能→ノータリン。ぼくと目黒を見て、黒髪リーゼントに詰襟の雄飛はにやりとした。
ぼくらは相鉄バスに乗って、仏向町 から歩いた。環状二号線沿いのアサヒバッティングセンターへ。二十一球、三〇〇円。ぼくらは百円ずつだしあって、交代で金属バットを握った。球速一二〇キロ。ぼくは空振りした。雄飛は当てたがファール。目黒は軽がるかっ飛ばした。かきーん。
「少年野球じゃエースだったんだぜ、あいつ」
雄飛がひそひそとささやいた。ぼくもつられてひそひそ声になる。
「なんで辞めちゃったんですか」
「まあ、いろいろだよ」
「おい。次、キ印だぞ」
目黒がいった。ぼくはバットを握った。また空振って、よろめいた。目黒と雄飛が笑った。
結局、ぼくは一球もかすらなかった。ぼくらは今井町から相鉄バスに乗って、保土ヶ谷駅西口に降り立った。ガスト保土ヶ谷駅前店へ。目黒に苺サンデーを、雄飛にチョコレートケーキを奢らされた。ぼくはドリンクバーで炭酸ばかり飲んだ。
「下半身鍛えろよ。体の土台をだ。毎日スクワット百回しろ。でも、やりかたまちがうとヒザ壊すぞ。足は肩幅で、背筋はぴんと伸ばして、ケツ落とすのは膝の高さまで。で、ゆっくりかがんで、ゆっくりあげるんだ。そうすると効く」
苺を頬ばりながら、元少年野球のエースはアドバイスした。雄飛もいう。
「タツヤはひょろひょろだから舐められる。きききき筋肉つけろ」
雄飛は語頭のキの発音が苦手らしかった。ぼくのこともファーストネームで呼んだ。ヂュー、ヅヴヅヴヅヴ……ぼくはCCレモンのストローを吸った。
「筋肉つけたらモテますか」
「女はな、筋肉、すきだぞ」
目黒は経験者の貫禄を漂わせていった。毎日スクワットしよう、とぼくは誓った。
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花栗のにおいの強いおれたちは少女マンガに向かない顔だ
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天野は肋骨が数本罅 |入(い)って、全治一ヶ月らしかった。ぼくに向かってガンを飛ばすけど、絡んでくることはなかった。
SHERBETS《HIGH SCHOOL》をイヤホンでききながら、ぼくは醒めた気分でいた。女のいない教室は発情期のチンパンジーの檻のような騒がしさ。紺ブレザーの男たちはいかにバカになれるかを競っているようだ。黒板上の秒針は刻まずに一定速度で回る。
ぼくはアルミ合金の携帯灰皿をあける。錠剤がぎっしり――ビタミンB群・ビタミンC・ビタミンD・カルシウム・DHA・コエンザイムQ10・スクアレン・クエン酸・クレアチン・カルニチン・コンドロイチン・セントジョーンズワート・ブルーベリーエキス……ほとんどが人畜無害なサプリメント。生物の教科書のページにぶちまける。カラフル。数錠ずつ口に運んではペットボトルの水で流しこむ。デモンストレーションだ。まわりの連中は見ていないようで、しっかり見ていてくれる。健康だけがとりえの連中だ、サプリメントとドラッグと向精神薬の区別はつくまい。約百粒をたいらげて、ぼくは満足して口をぬぐった。
やばくね? と誰かがささやいた。ぼくは涼しい顔で解剖図の蛙の内臓に色を塗った。
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姿ほどハードボイルドガイじゃない 俺は早死にしたいんじゃない
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目黒のいうとおり、反省文を書かされることになった。放課後の教室、荒寥たる四百字詰め原稿用紙。ぼくは何を書いたらいいのかわからなかった。だいたい、絡んできたのはむこうなのだ。
ぼくは雄飛がくれたお経本をとりだした。般若心経。ノータリン高は仏教系らしい。ぼくは原稿用紙に丁寧な字で写経した。たった二六〇字の経を、繰りかえし十枚も書くと達成感があった。
反省文に目を通し、六平勇 はちらりとぼくを見やったが、文面については何もいわなかった。
「生徒手帳に目を通せばわかるだろうが、うちは長髪禁止だ。それと、そのピアスとネクタイピンも外せ。貴重品は持ってくるな。学校は責任持たないぞ」
失礼します、とぼくは一礼した。
昇降口をでると、校舎最上階の窓からトイレットペーパーがたなびいていた。笑い声。誰かがふざけてるらしかった。四月の青空にうねる白いペーパーは、意外なほどきれいだった。
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トイレットペーパーの長い溜息が流されている思春の空に
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水曜日、神がつくったのは大地だった。放課後、ぼくは保土ヶ谷駅前のアスファルトを踏んだ。環状一号線沿いの美容室。ぶ厚いガラスに、Jamais Vu。CUT /4,200~。ぼくは覗きこんで、目当ての人を見つけた。
「すいません。予約してないんですが、大丈夫ですか」
美容師の井深 みちるさんは、男みたいに髪を刈りあげにしていた。尖った歯を見せる。アビシニアンの笑み。
「少しお持ちいただきますが、大丈夫ですよ」
「井深さんの指名料って高いですか」
彼女はわずかに首をかしげた。ぼくを思いだそうとしているのだろうか。
「一〇〇〇円です。まえに矢嶋ケンさんといらしたお客さんですよね」
おぼえててくれた。ぼくは笑った。
春の明るい鏡の前で、井深さんはぼくの髪に櫛 をいれた。髪は頬にかかるほどあった。
「相変わらず、傷んでないですね。きょうはどのように」
「ぼく、工業高校入ったんですけど。機械に巻きこまれると危ないんで長髪禁止なんです。でも」ぼくは右の毛を持ちあげた。〇.三三カラットのダイヤモンド。「ピアスが見えないように、耳もとの毛は残してほしいんです。すきな子の形見なので、学校でも外したくなくて。できますか」
井深さんはうなずいて、母猫のように頬笑んだ。
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「なんかおもしれえ髪型だな」
木曜日、神がつくったのは天体だった。バッティングセンターの打席、隕石のように飛んでくる球を、目黒は軽がると打ちあげた。かきーん。ワイシャツの長袖を捲りあげた右肘に手術痕。ぼくの頭は、右耳のあたりだけ毛の長い、刈りあげショートマッシュだった。結構イケてると自分では思ってた。
「カリスマ美容師にやってもらいました」
「ふーん」目黒は時速一三〇キロの球をかっ飛ばした。かきーん。「美容師は腐るほどいるけどよ、理容師はなり手が少ねえんだよな。オヤジが嘆いてた」
目黒の父親は小さな理容店を経営しているらしい。バリカンのあつかいのうまさは父親ゆずりか。
「美容師と理容師って何がちがうんですか」
「美容師は髪だけ。理容師は髪も髭もやる。カミソリをあつかえるかどうかのちがいだ」
「なるほど」
ぼくはバットを振った。時速七〇キロの球はかすりもしなかった。
「メグさんって、なんでグレちゃったんですか」
「犬に咬まれたから」
目黒はバットを振った。かきーん。
「どういうことですか」
ぼくはバットを振った。空振り。
目黒は右肘の手術痕を突きだした。
「放し飼いの紀州犬に咬まれたんだよ。腱をやられて、腕がまっすぐ伸びなくて、うまく投げらんなくなった。それで野球やめた。そっから、だらだらコース」
目黒はバットを構えて、振る。かきーん。
ぼくは球を見送った。「つらいっすね、それ」
「まあ、咬まれなくても、やめたかもしんねえけどな」
目黒はバットを振った。かきーん。
「でも、投げられなくても、そんなに打てるのに」
ぼくはバットを振った。空振り。
「バカか、おめえ。こんなのお遊びだろ。試合じゃ使いモンになんねえよ。勝ち進みゃ何百回って振るんだぞ」
目黒はバットを振った。かきーん。
「メグさんは、お父さんの跡を継ぐんですか」
「どうしよっかなっと」目黒はバットを振った。かきーん。「床屋ってかっこよくねえしな」
「カミソリあつかえるって、かっこいい気がしますけどね」
ぼくはバットを振った。こん、と手ごたえ。球が左側の仕切りのネットを揺らした。
「お、当たった」
「当たりましたね」
「よっしゃ。きょうはユーヒが奢りだ」
「あはは、ユーヒさんかわいそー」
ぼくらはけらけらと笑った。
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完全週休二日制の一週間は短い。金曜日、神がつくったのは鳥と魚だった。ぼくは夕飯に鶏モモと豆鯵を山盛り揚げた(薄力粉じゃなく、片栗粉をまぶすとからっと揚がるのだ)。サッポロビールの缶も一本つける。うちのクソオヤジの就職祝いだ。とある中小企業の社内システムメンテナンス職だった。クソオヤジは唐揚げを頬ばって上機嫌だった。
「おまえには苦労をかけたな」
「だめだと思ったら、辞めていいからな。二度と首吊んなよ」
ぼくは苦笑した。クソオヤジはビールをちびちび飲んで、のんきにいう。
「生きててよかったな」
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土曜日、神がつくったのは獣と人だった。コーナン保土ヶ谷星川店のペットショップのゲージを、ぼくは覗きこんだ。
「ほら、メグさん。かわいいですよ」
雄飛に背を押されて、目黒はこわごわと隣に並んだ。震えるチワワ。ガンを飛ばす目黒。
「こんだけちっちゃきゃ、さすがに平気だな」
「じゃ、もうちょいデカいやつ行ってみよ」
眠るパグ犬。目黒の眉間に皺。
「ちょっと、いやだな」
「じゃ、これは」
尾っぽを振るゴールデンレトリヴァー。目黒は目をつむってしまった。
「だめですか」
「無理」
「じゃ、口直し」
よちよち歩きのアメリカンショートヘア。目黒はでれでれの顔をした。
「あー、飼いてえな」
雄飛がいう。「うちの寮にいるぞ、子猫」
「マジで」
「校庭にいついてた白黒が生んだんだ。茶虎と黒と三毛。育てるなら三毛がいいぞ。メスは丈夫だ」
「三毛猫か」
「じゃ、今から行きましょう」
ぼくらはノータリン高の学生寮へ。談話室をうろちょろする子猫たちを雄飛はつまんで、段ボールにいれて持ってきた。
「どうだ? やっぱり三毛か。それとも茶虎か、くくくく黒か」
毛玉のような子猫三匹がみゃあみゃあ騒ぐ。目黒もぼくもオキシトシン全開になって赤ちゃん言葉を連発した。
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のら猫の油断しきった肉球を愛するときのポーカーフェイス
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キャリーケースを提げて帰ったぼくに、クソオヤジは初め渋面だった。しかし、中身を見せると、とたんに目尻を下げた。生後三ヶ月の黒猫は、畳のうえで短い尾っぽと手足を突っぱって、不安げに嗅ぎまわった。
「先輩が保護活動してて。トライアルで借りてきたんだ。期間は四週間。無理そうならすぐに返すし……」
「メスか?」
「オスだよ」
「なら増えないか」
「でも、去勢手術はしないと。発情するとスプレー行動するから大変だよ」
クソオヤジは黒猫に手を差しだした。やつは指のにおいを嗅いで、人畜無害と判断したのか、いきなりクソオヤジの膝によじ登った。クソオヤジはとろけそうな顔で黒猫を撫でた。
「懐かしいな」
「飼ってたことあるんだ?」
「上大岡 に住んでたころは、庭に十六匹いたんだ」
「十六匹も?」
「名前はどうする」
「ルドルフがいいなって。ほら、《ルドルフとイッパイアッテナ》ってあったじゃん」
「ルドルフ」父は舌で転がすようにその名前を呼んだ。「ルド、ルド、ルドちゃーん」
ぼくは苦笑した。黒猫はきょとんとして、謎の音を発する中年男を見あげていた。
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春が終わり、夏が過ぎて、秋が来た。二学期になると、ぼくにはさまざまな称号が贈られていた。ジャンキー・メンヘラ・イエローピーポー・いっちゃってる系……それが連中のいだくイメージ。おかげで誰も干渉してこなかった。孤りで閉じていることは楽だった。
教室では気狂いを演じ、放課後は目黒と雄飛とつるんだ。意味もなくデザイン科の女子の教室を覗きに行ったり、近所の女子高の生徒をナンパして逃げられたり、視聴覚室のビッグスクリーンでAV観賞したり(でかすぎてなんだかわかんなかった)。くだらないけど、ぼくにとっては楽しい日々だった。
「ユーヒって、じつは童貞なんだぞ」
いつものバッティングセンター、目黒が大きめの声でぼくにいった。雄飛は最後の球をなぜか送りバントしてから、目黒の頭をはたいた。
「おまえだってモロのきき君に食われただけのくせにデカい顔すんな」
「モロの君?」
ぼくは尋ねた。雄飛はいう。
「師岡きききキミコってヤリマンの先輩がいて、ちょっとかわいい顔しってっとすぐ上に乗ってくるって有名だったんだよ。サッカー部の末次も乗られてさぁ」
「かわいい顔」
ぼくはガン見した。目黒は長い睫毛をしばたたかせた。
「あー、かわいいっすね。眉毛さえあれば」
「っるっせえよ」目黒はぼくに怒鳴って、雄飛を蹴った。「モロの君のあとに他の子とやったっつの。おめえもさっさと童貞卒業しろ」
「余計な情報かもしれないですけど」ぼくは口を挟んだ。「芝賢治もそのモロオカって人に乗られたって話してました」
「「マジかよ」」
目黒と雄飛がハモった。目黒は額を押さえる。
「うわ、ケン坊とも穴兄弟か」
「おれは心にききき決めた子がいんの。ていうか、タツヤも童貞だよな?」
「いや、その」顔が火照った。まさか芝賢治とやりまくったなんていえない。「……いいです、童貞で」
「あゞ? なんだ、その怪しい返事はよ」
「童貞です!」
ぼくは大声で気をつけした。わはは、と隣の打席のおじさんが笑った。
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青空に翼が届くことはない知っていてなお九月の鳥は
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ノータリン高の文化祭で決めよう、という話になった。男子校の文化祭に来る女子はだいたいナンパ待ちだそうだ。ノータリン高は偏差値は高くないが、カネ持ちのご令息が多い。九月の曇った土曜日、ぼくと目黒は私服でノータリン高の人出にまぎれこんだ。
「そのスカジャン、おまえんとこに行ってたんだな」
目黒がいった。ぼくは般若の刺繍を裏側にして羽織っていた。
「ドラクエやったことないんですけど、般若の面なんかでてくるんですか」
「ドラクエⅢのな、ジパングの洞窟の宝箱に入ってんだよ。かぶると不死身んなるけど、回復不能な混乱状態になる」
「あー、だから、おれ、頭狂ったんですね」
「バカこけ。それでいくと、おれも狂ってなきゃおかしいだろ」
「あ、そっか」
雄飛は屋台で猫型のお好み焼きを焼いていた。なに顔に似あわないかわいいもんつくってんだろう。売上金はTNR活動に使われます、と但書き。目黒はよろこんで一枚買っていた。雄飛はいう。
「Qは元気かよ」
目黒はあの三毛猫をもらってQ太郎と名づけていた。メスなのに。
「こないだ、枕にウンチしやがってさ」
「猫はニオイでトイレを覚えますからね」
ぼくはいった。雄飛が笑った。目黒はいう。
「枕は新しいやつ買ったわ。いやぁ、怒れねえな。あのつぶらな目で見つめられっと」
「おまえは女に弱えよな」
「うるせえ、童貞」
目黒はソースのついた指を舐めて、人ごみに目を凝らした。女の子のジージャン・Tシャツ・チュニック・セーラー服……あの子たち、ほんとにナンパ待ちなんだろうか。ぼくは落ちつかない気持ちで首をすくめた。ぽつん、と頬を小雨が打つ。目黒が片手をあげる。
「各自別行動な。おまえら、メルアドくらいきけよな。きけなかったやつが次の奢りな」
三人協力してやるのかと思ってたぼくは、援軍を失った気分だった。ぽつぽつと弱い雨が続く。エプロンを外して雄飛が苦笑する。
「あいつ、よく見っとイケメンだからな。苦労しねえんだろうけど」
「ユーヒさんだって男前じゃないすか」
「いやぁ、おれは」
雄飛は恥ずかしそうに手先を振った。
二人で校内をうろうろしたけど、LET'Sナンパ! って感じにはならなかった。雄飛はフランクフルトを奢ってくれた。ケチャップとマスタード。校舎の軒先で二人もそもそ食べた。
「ユーヒさんは、どんな子がタイプですか」
「名前がカ行じゃない子」
ぼくは虚をつかれた。たしかに名前を呼ぶたびに吃 るなんて嫌だよな。
「それは重要っすね」
「タツヤは?」
「おれは……目のきれいな子がいいですね」
芝賢治も菊池雪央も目がきれいだった。竹宮朋代も。思えば、中二のときって、なにげにモテ期だったな。もう一度、ぼくは恋ができるだろうか。
「そういえば、ユーヒさん、心に決めた子がいるっていってましたよね」
「おれが一方的に惚れてるだけで、むこうはその気はないってよ。でも、なかなかな」
「せつないっすね」
「AVの童貞役の男って、なんでみんな吃るんだろうな? なんか腹立ってくるんだけど。マジで童貞だし」雄飛はため息。「ナンパしなきゃだめかなぁ」
「とりあえずメルアドはきかないと、奢りになっちゃいますよ」
「一緒にメグに奢ろう」
「努力はしてみましょうよ」
二人で順番に片っぱしから声をかけた。逃げられたり、笑われたり。でも、何度目かの正直で、雄飛はナンパを成功させた。相手は小学生に毛が生えたくらいの女子中学生。どっかで見たような狐目。雄飛はぼくに手で合図して、そのままその子の折り畳み傘に入って行ってしまった。
ひとりになって、ぼくは天を仰いだ。灰色の空。小糠雨 にスカジャンがしっとりとした。
ぼくはぶらぶらと人のなかを歩きだした。菊池を思った。ひどいふりかたをしてしまった。あの子は新しい恋をしているだろうか。幸せでいるだろうか。そうであってほしかった。
ゆきずりの肩に、肩を突き飛ばされた。ぼくは片足でターンした。ライムミントの香。くちゃくちゃとガムを嚙む音。天野と程工の面々だった。こいつらもナンパ目当てか。天野は嘲る。
「何やってんだよ、キモウラくーん」
数で勝ってると思って、舐めてやがる。ぼくはスカジャンを脱いで、表返して着た。不死身の般若の面。ひと暴れしてやろうじゃないか。
♂
拳骨の鋭い山の瘡蓋 が雲母の剝れやすさを示す
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