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四十五哩(顔ニモマケズ恥ニモマケズ)
竹宮朋代はアルミの松葉杖を突いて現れた。宿場通りの喫茶店アルキバ。左足のギプスの包帯の白を、ぼくは見ないようにした。ぼくはデカフェ/竹宮は夏摘みアッサム。
「足、ひどいの?」
「足の甲の亀裂骨折。全治一ヶ月だって」
「ごめん」
「タツヤのせいじゃないでしょ」竹宮は紅茶をすすって、ため息。「髪、切ったんだね」
「ヒデキくんがやってくれて」
「ねえ、何されたの」
あの四人のことをいわれているのだとわかった。ぼくは顔がこわばるのを感じた。
「いいたくない」
「いえないようなことされたんだ」
ぼくは黙った。竹宮は静かにいう。
「警察に行こう。百瀬くんも証言してくれるっていってるよ」
それは百瀬新にもじかにいわれていた。警察へ行けば、あの四人は逮捕される。ビデオがあるから、犯行は証明される。でも、ぼくは嫌だった。拘束具もなしにあいつらにしがみついていたのを、和姦だと主張されたら? 抗弁の労力を思うと、気持ちが萎えた。できるなら、すべてなかったことにしたかった。
「モヨの足のことは、被害届をだすべきだと思う。でも、おれは……警察は、行きたくない」
「ただの交通事故ですまされちゃうよ。飛びだしたのはわたしだから、こっちが悪者になる。タツヤはそれでもいいんだ?」
ぼくは返す言葉がなかった。竹宮はテーブルの下で、ギプスの足の向きを変えた。
「わたしはいつでも闘う用意があるから、気が変わったら連絡して」
♂
シンナーのにおいの両手ポケットにλ のようにうなだれ歩く
♂
大雨。片手に傘、片手をポケットにひっかけて、ぼくは午後のくすんだ歓楽街を歩いた。街の名前は必要ないと思う。青鈍色のカットソーシャツに、インディゴの鮮やかさを残したジーンズを穿いていた。ついでにいうと、中身はおろしたてのカルヴァンクラインのボクサーショーツだった。どうせ、意味はない。気休めだ。
目的のビルはコンパクトなもの。知らなければ通りすぎてしまいそうだ。看板や案内が出ているわけでもない。考えたら当然か。ぼくは電柱の住所表示でまちがいないことを確認して正面玄関のスイングドアをひいた。
エレベーターの狭い箱が上の階に到着する。降り立ったフロアに窓はない。黒を基調としたシンプルな店構え。ぱっと見はスポーツジム風。OPENって札の掲げられたドア。そこは週末のみ二十四時間営業、土日はオールジャンルミックスって話だった。他の曜日の雄系バトルや蛍光エロリングナイトよりはハードルが低い気がした。持ち手をつかんで、あけるまでに十秒くらいかかったかもしれない。
身分証の提示を求められたらどうしようって思っていた。ぼくは十六歳だ。入場資格は、十八歳以上の男性。料金は一七〇〇円。受付の男は慣れたふうに店のシステムを説明した。その黒白のはっきりした目の玉がぼくの全身を舐めるように動く。値踏みされているようで嫌だった。齢は確認してこない。もしかして見逃してくれるんだろうか。服と貴重品は必ずロッカーに。盗難被害に関して当店は一切責任を負いかねます。キーバンドは手首のどちらかか足首にしっかり巻いておいてください。それが印になります。シャワーはロッカールームの突き当たりです。なんだかスーパー銭湯みたい。
もちろん、ここは銭湯なんかじゃない。
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シャワーは薄い壁の半個室をカーテンで仕切った簡素なものだった。ユニットバスみたいに洋便器がある。そいつの蓋のうえで顔面からタマの裏筋から足の指の股まで念いりに流した。ゆうべ風呂できちんと洗ったが、そうでもしなきゃいられないくらい緊張していた。裸の腰にバスタオルを巻く。ロッカーキーいりの赤いバンドをどこにつけるか迷って、足首にしておいた。
メインルームの洋風の暖簾をくぐる。照明は極限まで絞られている。暗さに目が慣れるまで、ぼくは息を詰めて立ちつくした。人の気配を探る。今にも誰かが襲いかかってきそうで気が気じゃなかった。思いのほか広びろした空間に人はかぞえるほどしかいないようだ。ぼくは少しだけ安心して、ソファーらしき革とスポンジの塊に腰をおろした。
奥から一人寄ってきた。白いバスタオルの下半身。ぼくの筋肉はこわばった。ぼくをつまびらかに観察している気配。声はかけてこない。こいつじゃ食いたりないと思ったのか離れてゆく。ほっとした。
しばらく待ったが、何も起きない。自分から誘えばいいのだろうか。でも、ぼくは勇気がでなかった。こわかった。なんでこんなところに来てしまったのか。たしかめるためだ、自分自身を。輪姦のときの昂ぶりと、苦痛に一滴垂らしたような快感。忘れられなくて、何度も一人でした。ぼくはやっぱりホモなのかもしれない。
暖簾を捲って、男が入ってきた。刹那、廊下の明かりがぼくを照らした。男はまっすぐぼくのもとへやってくる。刷毛のように肌をなぞる他者の視線。蛇がピット器官で獲物の温度を察知するように、ぼくにはそれがわかる。男は跪く。
「にいちゃん、いくつ」
ささやくような声。ぼくは偽る。
「十八です」
「ほんまか?」
西のイントネーション。鎖骨窩につぶらな水滴、広い肩。やや肉のついたウエスト。バスタオルはなかった。ぼくは視線を上へ。男の目は微かな光を集約して濡れている。短髪。うちのクソオヤジよりは若そうだった。
「ほんまはいくつなん」
ぼくは困って黙った。男はいう。
「一緒に出ぇへんか。おっちゃん、こういうとこいややねん」
「いやなら、どうして」
「きょうはなぜか来てしまった。おかげでにいちゃんに会えた」
変な人だった。でも、悪い人間ではないような気がした。ぼくは男の手足を確認した。男のキーバンドは左手首だった。左手首が男役 、右手首が女役 、足首が兼役 という印だと受付の男はいっていた。
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黒ずんだガムの瘢痕 ちりばめてゼブラゾーンは自閉した檻
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陽はとっくに沈んでいた。ちんけな歓楽街はネオンを点したこれからが本当の顔なんだろう。男の車は日産キューブ、バックミラーにタッツーのストラップ、シートにもカビゴンやメタモンのクッション。左薬指にはゴールドリング。どう見ても妻子持ちだ。失敗したかもしれない。
カーステレオから、ピアソラ《ブエノスアイレスの冬》。そういえば南半球は冬か、と思った。雨を捌くワイパー。信号待ちのあいだ、男はぼくをしげしげと眺めた。ぼくの顔に何かついてるのかってほどに。
「おっちゃん、千葉 いうねんけど、にいちゃんの名前は?」
「東八郎」
「アズマハチロウ」千葉は首をひねった。「そらエイトマンやろ」
「知ってたか」
「世代やで。知ってるわ」
「八尋って呼んでください」
「ヤヒロ。ほんで、ほんまはいくつなん」
「千葉さんって海外行ったら気をつけなね」
「なんで」なんでのんに強意のある発音だった。
「自己紹介のとき。tivaって英語で麻薬のことだから。tiva tivaって繰りかえすと、より強い麻薬」
「そうなん? せやから千葉ディズニーランドやなくて、東京ディズニーランドなんや」
「そうかもしれない」
車両用信号機が青になって、車が発進する。
「いっこ賢うなったわ。ありがとおな高校生。……高校生やんな?」
「一応は」
「あかんな。犯罪や」
この人、青少年保護育成条例に抵触する気なんだろうか。「千葉さんってホモなんですよね」
「ホモいうな。ゲイといえ」
「ホモとゲイって、どうちがうんですか」
千葉はウィンカーをだす。「ホモは悪口。ゲイは前向きな呼び名」
「ゲイなのに、なんで結婚したんですか」
「嫁はんが人間としてすきやったから。むこうはおれがゲイなのは承知してる。嫁はんはセックスがあんまし好きやない。二回しかエッチしたことないわ」
「でも、結婚して、子供いるんだ?」
いろいろ衝撃だった。千葉は笑って、ハンドルを右に切る。
「小三の小娘や。勉強ぎらいでポケモンの絵ぇばっかし描いてる。アホほどかわいいで。にいちゃんこそ、なんであんなとこに」
ぼくはうつむく。「よく、わかんなくなっちゃって」
そうか、と千葉はいった。千葉はコインパーキングに入った。一時間三五〇円。
カウンターの鉄板でじゅうじゅうとソースが焦げた。料理人が焼いてくれる本場のお好み焼きの店だった。焼きそばと玉子が入ったモダン焼き、ぼくははふはふと頬ばった。
「おいしい」
「せやろ。ぎょうさん食べ」
「千葉さんって大阪の人?」
「大阪の、枚方 。京都と奈良との県境んとこ。高校は京都やった」
だからイントネーションがやさしいのかな。「なんで横浜に来たの」
「おっちゃんらの世代やと、あれやねん。中坊のころ、横浜銀蝿とかめっさ流行ってて。なんとなく憧れがあったんかな。大学進学でこっちでてきて、嫁はん見つけて、そのまま就職して、今は文具とかAO機器おろす会社の営業部の係長」
「横浜銀蝿すきだったの?」
「いや、おれがすきやったのんは、YMOとサザン」
「うちのオヤジもサザンファンです」
「お父さん、何年生まれ」
「昭和三十三年」
「おれの八コ上か」
「三十七歳なんだ?」
「三十六。十二月で三十七」
「千葉さんが中学のころって、どんなでした」
うーん、せやなぁ、と千葉はお好み焼きをひとくち食べて、よく嚙んで、ウーロン茶で流しこんだ。
「FM大阪は横浜銀蝿ばっかし流しよった。全国で校内暴力が問題化して、どの街にも百人単位で暴走族が走っとった。そんな時代やった。
おれの中学も、御多分に漏れず荒れとったで。枚方市立第五中。壁っちゅう壁は落書きコーナーで、窓は粉ごなでベニヤの応急処置のまま。イメージでけたか?
そのころ、おれのツレはアンニンやった。ちょお漢字、思い浮かべてみ。木口 仁 ちゅうて、あだ名がアンニンやねん。わかる?
杏仁豆腐は好かん、牛乳プリンが好きゃねん、アンニンはいうてな。大差ないやんけ、おれはつっこんだわ。
ちなみに、おれのあだ名はトーテムポールやった。校庭にあってん、気色悪いトーテムポールが。トーテム、トーテムいわれんねん。あないにケッタイな顔してへんわ。なあ? ほんまは透徹 いうねんで。
アンニンは父親と二人暮らしでな、母親はアンニンが小さいとき病気で亡くならはったてきいてた。なんや、みんなアンニンをかわいそな子ぉ思てたな。
アンニンとつるんだんはな、家に呼ばれたからや。ぼろアパートの六畳一間で、テレビと箪笥とちゃぶ台と、くさい万年床があるだけで。んで、そこにパンチパーマで汚いツナギのにいちゃんがいて。ペンキ屋じゃ、いうてはった。そのにいちゃんが、おれらにタバコ勧めてな、バイクの話しやはんねん。よう断れんしな、気張って吸うたったわ。あとで知ってんけど、そのにいちゃん、アンニンが育った養護施設の先輩やったらしい。友達、呼んで来 さしぃ、てアンニンは命令されてたんやな。ごめんな、アンニン謝ったけど、おれは嫌やなかってん。バイクの話、おもろかったしな。
それから、アンニンちにようけ行った。そんときには、おれのあだ名はニコチン大王やった。どないしたら渋く吹かせるか、そればっかし考えてたな。そのうち、そのにいちゃんに、ボンタンとドカンもろて。
おれら、いそいそ穿いてガッコ行ったわ。おれがドカンで、アンニンがボンタンな。一年坊のくせに意気っとんちゃうぞ、三年生らにどやされた。けど、源之助 先輩にもろたんです、アンニンがいうたら、三年生らは先輩と面識あったみたいで、それから目ぇかけてくれはったで。
どっちかっちゅうたら、おれ、優等生やってんで。成績もトップクラスとはいわへんけど、中の上くらいはキープしてたしな。近所にええとこのぼんの家あってな、そこのゴミに参考書がいっぱいあってん。それ拾って予習しとったから、平均点は余裕やった。けど、俺が大変身しても、クラスのやつらは気にせえへん。時代が時代やからな。ぐれてるほうが普通やったんや。狂ってたな。
アンニンは勉強はまあ皆目 でな、せやけど体育の模範演技で右に出るやつはおらんかった。鉄棒の大車輪やったときは、クラス一同どよめいたで。
ただな、単元がサッカーなったら、アンニン怖がって見学するやつが出てもた。アンニンのでっつい図体でマイペースな態度されると、威圧感あるらしいねんな。けど、あいつ、ほんまは繊細やねん。だんだん授業ぶっちするようなって。おれもつきあった。馬の合うやつらとすみっこでたむろしてた。早よ教室入らんかい、っちゅう教師としょっちゅう小競りあいや。
源之助先輩は、ぷっつり来えへんようなった。ペンキ屋、クビんならはったちゅう話や。俺とアンニンとその他大勢で、六畳間でタバコ吸うて、缶チューハイ呑んだ。朝帰りも増えてた。
おれのことで、オヤジとオカンが毎度ケンカしよった。テツがぐれたんは、おまえのせいや、いや、あんたが悪い……責任のなすりあいや。勝手にせえ、おれは思てた。
そんときは、もう最高学年やった。おれとアンニンとみんなで、廊下で駄弁ってた。職員室の近くやった。福井 っちゅうむかつく先コがおってな、そいつが来て、なんか見せよんねん。マウンテンデューの緑の壜な、それに半分くらい液体が入っとった。おまえらやろ、アホがシンナー吸うたら、よけいアホなるぞ、福井がいうた。濡れ衣や。職員室がそばやからて、やたら調子こいとんのも腹立った。アホにアホいわれたない、そんなん知らんわ、アンニンいうた。福井のやつ、アンニンを職員室に無理やり引っぱろうとした。おれ、とっさにその壜つかんで、投げた。それが壁でパァーンて派手に砕けて、つーんて薄め液のニオイした。それが合図みたいやった。福井の腹、アンニンが何発か殴った。福井が屈んだとこに、顔面におれが膝蹴りいれた。アンニンがケツに回し蹴りして、福井はうつぶせなった。あとは、寄ってたかってサッカーボールキック。日ごろの恨みっちゅうやっちゃ。福井は鼻血だらだら流して、頭かかえとった。何分か後に職員室からやっと応援が来て、みんな散った。おれとアンニンはてんでに逃げて、川の堤防で落ちあった。
校内暴力なんて珍しなかった。教師の体罰あたりまえの時代やしな。逆もまたしかりや。けど、そのときは、大勢の生徒の教師への一方的な暴力ちゅうことで、大問題なってもた。福井は鼻の骨折って、アバラもいわしたらしかった。ガッコは福井に被害届ださせた。
おれとアンニンと、ほかに四人がケーサツに取調べされた。こんどなんかしよったら、すぐ家裁に連れてくさかい、ケーサツは脅すしな。みんな、ビビりよってな。それから、そいつら、おれを避けんのや。そうなると、ガッコにも居場所ないねん。残ったのんは、アンニンだけ。
そのあとやったかな。アンニンが杏仁豆腐くうとったんや。いっぺんに六個くらい。様子がおかしくてな。オヤジに土下座された、っちゅうんや。アンニンの父親、長距離トラックの運ちゃんでな。夜勤が多くて、おれは会うたことなかったな。せやから、おれら、好き放題しててん。なんでぇ? きいたわ。
心無いやつっちゅうんは、どこにでもおるもんでな、アンニンにいらんこと吹きこんだらしい。おまえのオカンは病気で死んだんちゃう、オヤジが殺したんや、てな。けど、それがほんまなら、いろいろ辻褄合うねん。アンニンがシセツ預けられとったあいだ、父親はムショにいてはって。せやから、会われへんで、ずっと手紙だけで。刑期が済んだから、アンニンを引きとった。なあ? アンニンは父親を問い詰めたんやて。
三つのアンニンが寝てる間ぁに、夫婦喧嘩になってな。母親が包丁持ちだして、ほんで父親は取りあげようとして、母親のおなか刺してしもたらしいわ。母親も、お腹の子ぉも、あかんかった。
おれ、頭まっ白で、それ以上はようきけんかった。母親と弟か妹ころした父親と、アンニンはずっと暮らしていかなあかんのや。それってどないな気持ちやろ。もう、よういわれんで、おれら一緒に泣いてた。
暑い時季んなると、アンニンちの六畳間、ものごっつくっさいねん。なんや、布団から畳から饐えたニオイしてな。まあ、男所帯やしな。おまえが毎晩センズリこくからや、おれはいうて。毎晩はこいてへんわ、アンニンがいうて。しゃーない、おれら外でた。
そのへんで夜遊びして知りあうっちゅうたら、暴走族しかない。駅前でタバコ吸うてボケーッとしてたら、むこうから声かけてきはる。その人は、鑑別所に二回入ったちゅうてた。おれらが福井いわしたことも知ってはった。鑑別所 は間違いないで、けど一回目は保護観察 で出れるからな、て。
その人に教わってな、おれら、バイクの運転覚えてん。バイク持ってなくてもええんや。盗む度胸さえあったらな。盗みかたも習 た。キーボックスの配線引き抜いて、エンジン直結させんねん。おれ、巧かったで。メーカーによって配線の色ちゃうんけど、どこのんでも見当つけて、すぐ盗めるようなった。
盗んだのんは、族の人に取られんよう隠しといた。廃寺の境内にな。その寺の裏の坂くだると、すぐ川の堤防や。川原でアンニンとラッタッタ乗りまわして、ワッハーほたえてるときだけスカッとすんねん。天野川 んとこ行ったらタダでバイク乗れるで、噂なってな。他の学校のやつらも寄して、人数が十人以上に膨れることもあった。ガソリン切れたら、バイクは川にほかしてな、また新しいのんを盗ってくる。夏休みじゅう、そないなことしとった。
盗んだ数は二十台以上。それはケーサツにいわれて知った。福井への傷害と合わせ技で、おれもアンニンも身柄拘束されて、めでたくカンベ入りや。
もう何がビックリしたて、最初に身体検査あんのやけどな、それが玉の裏からケツの穴まで見られる。こっちはさらっぴんの童貞やのにな。いや、恥ずかし死にしそうやった。あれだけで、もう悪いことせんとこて、ちょお思たもん。
カンベの教官は優しかったで。ほら、少年院 と違て、あくまで鑑別のための場所やから。
週になんべんか運動の時間あって、そんときはアンニンと遊べた。あんまししゃべらんと、ボールばっかし蹴ってたけどな。
たまにオカンが面会に来ては、めそめそぐじぐじ泣きよって、そんときは気ぃ滅入ったな。オヤジは来えへんかった。あれやで、たぶん、バイクの弁済が目ぇ剝きそうな値 ぇやったから、腹立てとったんやろ。そこに一ト月くらい暮らしたやろか。
審判で、おれはやっぱしホゴカンなった。けど、アンニンは高槻 の教護院に送られた。父親だけでは面倒見きれへんでしょ、判断されたんや思う。もっとようさんしゃべっといたらよかった、後悔したわ。
アンニンとなんべんか手紙やりとりしたけど、そのうち途切れてもた。
おれ、じつは杏仁豆腐、めっちゃ好きゃねん、て。それが最後の言葉やった」
千葉はウーロン茶を飲んだ。
「長なったな。退屈したか」
ぼくは首を振った。「なんか、千葉さんの人となりみたいなものはわかった気がします」
千葉は頬笑んだ。「こんどは、にいちゃんの話ききたい」
ぼくはお好み焼きを食べて、ウーロン茶を飲んだ。何から話すべきか考えていた。
「ここだと、話しづらいです」
千葉はじっとぼくの顔を見つめたのち、ウーロン茶を飲みほした。
「ほな、場所変えよか」
♂
ピアソラ《九十二丁目通り》。千葉は車を走らせた。どこかの住宅街。砂利の駐車場に停めて、三分ほど歩いた。
安普請の二階建てアパート。一階の角部屋。鰻の寝床のようにキッチンと部屋がつらなった2DKだった。家族の気配はない。
「おれの別宅。べつに気ぃ使 ていらんから」
そういわれたけど、ぼくは緊張気味に濡れたスニーカーを脱いで揃えた。
キッチンの次の間で待つようにいわれた。クラシカルなちゃぶ台と、コーデュロイの座布団と、酒瓶の林(山崎・白洲・響・知多・神の河……)。時計は夜八時を回っていた。冷蔵庫をあけつつ千葉がいう。
「つれてきといてからアレやけど、門限は大丈夫なん?」
「うち父子家庭で、オヤジは夜勤なんで」
「せやったら、もうええな」
千葉は缶ビールをばしゅっとあけて、ぐびぐびと喉を鳴らした。今晩は帰れないんだな、と思った。
千葉は解凍するだけの簡単な軽食をつくってくれた。枝豆・チャプチェ・シウマイ・フライドチキン。
「お酒いっぱいですね」
「取引先にいただくんやけど、そこまで飲まれへんから、溜まってしまう」
千葉はウイスキーをミネラルウォーターで割って、ちびちび飲んだ。氷の音。
「ウイスキーとブランデーって、どうちがうんですか」
「ウイスキーは麦の酒、ブランデーは果実の酒。ブランデーのほうがええ香りする」
「おいしいですか」
「飲みたいんか」
「ちょっと」
千葉は考える顔をした。
「ちょびっとやで、ちょびっと」
小さなコップにワンフィンガーだけつくってくれた。ぼくは舐めてみた。変な味。
「おいしくないです」
「せやろなぁ。大人の味やで」
千葉は笑った。つまり、ぼくはガキだと思われてるんだろうか。ぼくは奥の引戸を見やった。
「あっちはなんですか」
「大人の領域」
「大人の領域というと?」
「ベッドとテレビと、エッチなビデオ」
俄然、ぼくは扉のむこうが気になった。
「覗いていいですか」
「通行料いるで」
「通行料?」
千葉は身を乗りだして、ぼくの頭や頬を撫でた。乾いた掌。顔を顔へ寄せてくる。ぼくはこわかったけど、逃げなかった。逃げたら確認にならない。千葉の唇はウイスキーの氷で冷えていた。ふれあうだけのキスだった。嫌じゃなかったけど、恥ずかしかった。千葉はうれしそうに顔を赤らめた。
「はい、覗いてきてよろしい」
ぼくはそっと戸をひいた。暗い部屋に、明かりが差す。ぼくは入りこんで、電気のスイッチをいれた。
ウォーターベッドと、最新の薄型テレビ。ぼくはラックのDVDを手にした。サカリーマンの性活実態。肉色とモザイク。ほんとにゲイなんだ、とぼくは変な感心をした。
千葉が静かにやってきて、別のDVDを手にとった。DVDプレイヤーにセットする。五〇インチの画面に、映像会社のロゴ。ぼくは自分の正座の膝を見ていた。
『……こっちは彼氏です。おれはホモだけど、こいつは元はノンケで……』
よく知っている声。ぼくは顔をあげた。
『でも、今はめっちゃラブラブでーす』
芝賢治がピースした。肩を抱かれて、泣きそうな顔してる十四歳のぼく。あの春、芝賢治と出演したビデオだ。ぼくは釘づけになった。生きて、動いて、しゃべってる芝賢治。ずっと会いたかった。泣きたいくらい懐かしかった。
画面のなかで、十四歳のぼくらは激しくまぐわった。芝賢治との最後のセックス。ほの明かりするような幸福な感覚。
千葉が背中に寄り添ってくる。
「似てるなぁ思てたけど、これ、にいちゃんやんな。耳のピアスも、目ぇの下のホクロもおんなしやもんな」
千葉は困った顔をした。
「なんで泣いてん」
「こいつ、このあと、死んじゃったんだ」
千葉は息を飲んで、ぼくの涙を指ですくった。
「そうか。それは、しんどかったな」
八尋、と千葉は呼んだ。ぼくを抱きしめて、あやすようにさすった。
「にいちゃんの話、きかしてくれへん?」
♂
銃痕ある祖父の腕から置き去りの慈姑 色した記憶がひとつ
♂
ウォーターベッドに腰かけて、ぼくは長い話をした。芝賢治との短かった春、今つきあってる竹宮朋代、芝安吾たちからの輪姦。千葉はぼくを撫でながらきいていた。
「そら、熱いもんさわったら火傷するんと一緒で、べつに、にいちゃんが淫乱ちゅうことやない。誰でもそうなる、自然のことやから、なんも恥に思うことないんやで。な?」
ぼくは安心して、また泣いてしまった。
「一回、病院できちんと検査は受けたほうがええな。おっちゃんがええとこ紹介したる。その彼女はかわいそやけど、一番の被害者はおまえやから、無理にケーサツ行くことない思うで。ただな……」千葉はいいにくそうにした。「そいつらに、また呼びだされるかもしらん。写真もビデオもある。考えたないやろけど、この世界ではようある話や」
ぼくをペットにしないかと牛込徳郎が提案していた。考えるだけで手が震えてきた。
「そうなったら、もうケーサツ頼ったほうがええよ。個人で解決できる範疇を超えてる。いうは一時の恥や」
「おれが警察に行くと、あいつらどうなりますか」
「どやろ。そいつらが十九かハタチかでちがってくる。ハタチなら未成年者略取と監禁罪と強制わいせつのコンボで懲役やけど、十九なら、まあ、へたしたら一年くらいのホゴカンですんでしまうかもしらん」
「それだけ?」
「少年法は罰するためのもんちゃうからな。更生のチャンスを与えよう判断なる可能性が高い。理不尽やけど」
ぼくは殺されるよりもひどい思いをしたのに、たった一年の保護観察? 納得いかなかった。悔しくてまた泣けてきた。
「にいちゃんの性的指向についてはな、もうちょい、よお考えてみ。彼女と新しいプレイを試すのんも手ぇやし」千葉は笑った。「それでも満足でけへん思たら、こんどおっちゃんと遊んでや」
♂
初雪のようなくちづけ噓つきは詩のはじまりといったのは誰
♂
曇った明け方、千葉に横浜駅まで送ってもらった。トールワゴンのなかで、千葉は会社の名刺をくれた。
「ケータイのほうなら、何時でも繋がる。相談なら、いつでも乗るで」
千葉透徹。千の葉っぱが透き徹る。詩みたいな名前だ。ぼくは名刺を胸ポケットにしまって、シートベルトを外した。千葉がぼくを見つめていた。ぼくは身を乗りだした。千葉もシートベルトを外した。やっぱりふれあうだけのキスだった。
保土ヶ谷駅まで横須賀線で五分。やっぱり警察には行けない、と竹宮に告げようと思った。西口の階段をおりているとき、チープなファンファーレが鳴った。メールは未登録のアドレスから。写真が添付されていた。馬場累 に巨根をケツに挿されてのけぞってるぼく。
鳴り響く《弦楽セレナード》。090……から始まる十一桁の番号。未登録のもの。ぼくは通話ボタンを押して、無言で耳に当てた。
『よお、また5Pしねえか』シバゴの声が笑った。『彼女も混ぜて6Pでもいいぞ』
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