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〇哩(ラストシーンのさりげない映画を観に)

 おれはここにいる。      ♂  机のすみのケータイがチープな十六和音を奏でた、ガーシュウィン《アイ・ガット・リズム》。保土ヶ谷工業高校の多目的教室では、古典教師の独りごとじみた夏期講習が続いてて、おれの一コ下の同級生たちが各自のやりかたでヤル気のなさを表現していた。サブウインドウの表示は、……から始まる十一桁の番号。つまり未登録のもの。無視しようかと思った。でも、何か予感があって、おれはケータイをひらいて☎︎を押した。 「はい」  受話口から息の音。 「もしもし」 『キターラ?』懐かしい呼びかただった。 「そうだけど」 『さて。おれは誰でしょう』 「わかってるから用件をいえよ」 『保土ヶ谷駅前のローソンのとこにいるんだ』 「それで?」 『会いたくなった』 「……」 『待ってる』  そして通話は切れた。      ♂ テレパシーなんて持たない俺たちにケータイという以心伝心      ♂  天王町の程工から保土ヶ谷駅西口のローソンまで急げば一〇分。おれは学校の正門を飛びだした、ワイシャツとスクールズボンのまま。あれから三年と六ヶ月。おれは十八歳、いろんなもんが解禁になった。あいつは十九歳、かろうじて未成年。あいつ、どんなふうになっているだろう。あの性格はきっと変わってないだろうけど。おれは帷子川(かたびらがわ)の天王橋を越える。ターコイズグリーンの流れの先にランドマークタワーが陽炎に霞んでいる。白んだ梅雨明けの街。くるり《ワンダーフォーゲル》RMXヴァージョンが耳の奥で鳴ってる。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。一キロほどの距離を軽く飛ばしながら、胸のうちで早く辿りつきたいような期待と永遠に迂回していたいような(おそ)れが()()ぜになった。      ♂ 忘れてたイントロ掠めたような気がしたから飛翔寸前の耳      ♂  矢嶋健は遠目に一発でわかった。ひと回りでかくなった図体は光冠みたいなオーラを発していたから。やつはガードパイプに腰かけて長い脚を投げだしている。(リベット)だらけの革パン・シルキーな黒シャツ・サンゴヘビ色のニットタイ・きれいな金髪の細かいコーンロウ。そんなやつ、保土ヶ谷にはいない。おれは息を切らして真正面に屈んだ。矢嶋はペットボトルを口に運ぼうとした格好で凍った。クリスタルガイザー。おれはいきなりその五〇〇ミリリットルペットボトルをつかんだ、やつの手ごと。強引におれの頭上に持っていて、手首を返す。シャワータイム。眼球のおもてを遮る薄い滝。その滝の()れたむこうに、あっけにとられた三白眼。再インストールの利かないポンコツのターミネーター。 「これで、おあいこな。もう、恨みっこなし。オーケー? あ。でも、おれがおまえにかけたの、たしかポカリだったよな。水とポカリじゃフェアじゃないか。あのあと、髪とか、体とか、めっちゃベタベタしたろ。おまえ、ベタベタきらいだったよな。ごめんな。ちょっと、そこのローソンで、ポカリ買ってきてよ。それで、やりなおそう」  数秒の沈黙。矢嶋はポップコーンがはじけるように笑った。その声をきいて、こいつの心が誰にも()められてしまわなかったのがわかった。ニットタイには真珠を乗せたヴァイオリン型のタイタック。おれは犬みたいに頭を振って、濡れた前髪を後ろへ撫でつけた。クレイジー、ってつぶやいて腹を押さえる矢嶋。 「ぜんぜん変わってないな、キターラ」      ♂ 大喧嘩マンハッタンの夕立のようにたちまち乾いてしまう      ♂  無窮の青天のてまえに舞うアゲハチョウ。積もる話があるかと思ったけれど、いざ目の前にすると言葉がでてこなくなる。おれと矢嶋はガードパイプのうえで駅前広場の夏景色にむかって胸をひらいていた。やつはいう。 「バスに乗ってくればよかったのに」 「おまえ、待たされんのきらいじゃん」  半音階を重ねるように蝶々は螺旋を描いて上昇してゆく。おれはいう。 「おまえ、学校は?」 「先月、卒業した。おまえも、あのクソ高校、早く卒業しろよな」 「その予定だよ」  蝶々は小さな光のちらつきのように遠くなる。やつはいう。 「今なら《The Devil's sonata》はもっとクールにきかせられる。おまえは?」 「おれは」  おれの視界から蝶々がフレームアウトした。おれはいう。 「おれは、とりあえず弾くのは辞めてない。ピアノバーの見習いをやってる。タダ働き」 「なんでタダ」 「高校生は雇わないってマスターの方針なんだ。無理いって開店まえにピアノ使わせてもらってる。今はジャズのレパートリー増やしてるとこ」 「ふーん」  矢嶋の顔つきはおもしろがってる感じ。許さないからな、一生、っていった横顔を思いだす。あのころよりもグッと威喝くなった骨格。おれたちはじき大人になる。やつはいう。 「このあとは?」 「決まってない」 「そのバーに行ってみたい」 「三時だぞ。マスター、まだ眠ってるよ。あと二時間は暇つぶさなきゃ」 「どうする」  おれはある低予算の邦画を思いだす。「映画館に行こうよ。おれ、どうしても観たい映画があるんだ」 「なんだ」 「まあ、観りゃわかるよ」  おれたちはてんでに立ちあがる。 「いまさらなカムアウトしていい?」空を差す矢嶋。「あのとき、おれ、ほんとは、こう願ったんだ。ピィタァ・パンが飛んできて、こっから連れだしてくんねえかな、って。そしたら、おまえが忽然とそこにいたんだ。こいつのおじいさんが危篤なんですぅ~、って」 「……」 「おまえは、おれのピィタァ・パンだ」  指差してくる矢嶋。手招くおれ。 「来いよ、威喝いアリスちゃん」  笑うおれたち。もちろん、手なんか繋がない。とっても清い交際。縦に並んで歩きはじめる。矢嶋が先陣/おれが後陣。大通り方面へ。東へ。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。おれの視界いっぱいに妙に怒肩の背中。こいつはおれの隣にいるんだろうな。果てしなく寄り添う平行な線みたいに。知らんぷりしあってるアリスとピーター・パンみたいに。 「でも、おまえのがピーターっぽかったぞ。おれをひっぱりながら、仏向町から星川駅まで一〇分てどんだけだよ。ギネスの判定員がいなくて残念だった」  片頬を見せる矢嶋。「測ったのかよ」 「だいたいだけどね」おれは懐中時計をとりだす。罅割(ひびわ)れたラッキーナンバー。「おまえの白兎もやってやろうか」 「そうだな」笑う矢嶋。人差指を立てる。「先に誘ったのは、おまえだもんな」 「は?」  めんくらうおれ。にやりとする矢嶋。その口んなかに、もう銀の矯正器はない。とんがりすぎてる二本の犬歯。 「おまえが先に、おれの手をひいたんだ。忘れたのか、キターラ」

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