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第8話:血の行方

 レオと一夜を共にしてから数日後。  あの時の事などまるで何もなかったかのように、二人は存外平和に過ごしていた。  あの夜の翌日、多少なりとも身体にダメージが残っているはずのレオであったが、いつもと同じようにアルよりも早く起床し、朝食の仕込みをしていた。  その後僅かに気まずさを残しながらのそりと起きるアルに、レオは穏やかな笑顔を向けていつも通りに食事を振る舞ったのだ。左頬に残ってしまった青痣と服の間から覗く無数の所有印のみが、昨夜の出来事が夢ではないという証になっている。  そのレオのあまりの変わりのなさにアルは少しばかり戸惑いつつも、レオが何でもないかのように振る舞っているのは昨日の事についてあまり触れられたくないと訴えているのだと薄々と察し、また同じようにいつも通りに振る舞った。  いつも通りの笑顔にいつも通りの食事。レオからしたら平和な時を過ごせているのでこのままでいいのかもしれないが、アルからしたら内心もどかしい思いでいっぱいだった。  口では偉そうに「無理にけじめをつけようなんて思わなくていい」とレオに伝えたが、その実想い人がこちらへ同じ想いをぶつけてくれる事を今か今かと待ち構えている。いわば獲物を目の前に焦らされている野生動物のような状況だ。  レオはまだ、アルへ向けている想いを自覚できていないだけ。まだ整理がつかないだけで、根本的な想いは同じのはず。けれどそれは、本人がしっかりとそれに向き合い、自覚せねば意味がない。誤魔化したままで恋人にはしたくなかった。  アルはもどかしい思いを抱きつつも、どんなに長くなっても想い人を待ち続ける覚悟を持つため、握りしめた拳に力を入れるのであった。    日課になりつつあった村人への聞き込みをある程度終え、アルはのんびりとした足取りで雑草がちらほらと生えた小道を歩いていた。  数日前、あれだけの流血事件を起こしたアルを前に村人はみな怪物を目にしたかのように怯え、びくびくと身体を震わせながらも龍に関する質問に答えていく様が何とも滑稽に映り、アルは僅かに苦笑した。  いまだ龍のめぼしい情報を掴む事は叶っていないが、ついでとばかりにあの男たちがその後どうなったかと一人の村人に問えば、「騒ぎを聞き付けた村長が隠密に処理した。男たちは辛うじて生きてはいる」との事。  その事に、アルははたと首を傾げる。  通常ならば、こんな凄惨な事件を起こしたのだから何か罰を下されても仕方ないと覚悟をしていた。それなのに、村長は内々で事件を終わらせ、アルに直接何かを言ってくる事もない。  その不自然な静寂に疑いの目を向けるも、このまま何もなければそれでもいいのかとアルは引き続き聞き込みを続ける事に専念したのだった。  さほど重要そうな話を聞き出す事もできなかったため、今日はもう終いにして辺りを散策でもしてみようと村の色々な所を見て回ってみる事にした。 「レオさんは今日急用ができたっつってどっか行っちゃったんだよなー……あー、会いてぇ」  今朝、朝食を二人で食べながら「今日はどうしても外せない用事があるから、帰りが遅くなってしまうかも」と申し訳なさそうに謝ってきたレオの姿を頭の中にぼんやりと思い浮かべる。  常日頃から属な野蛮人に身を狙われる事の多いレオに四六時中着いていたいと思うアルだったが、レオのそわそわとする様子からアルにも内緒にしていたいという事がひしひしと伝わってくる。  まだ心根の底を明かしてはくれない関係性しか築く事ができず、そんな至らない自分自身に対して悔しい思いを抱くも、アルもまた何事も気にしていないかのように「じゃあ俺も今日はせっかくなんで村ぶらぶらしてきます!」と作った笑顔を浮かべ、今はこうして宣言通りに行動している最中であった。  最後まで申し訳なさそうな表情を浮かべるレオの姿をぼんやりと思い出しながら、アルはふと龍の住まう森へと足を運んでみようと思い至った。  今はまだ、龍の代わりに自然の秩序を保てる役割を担える物が見つかっていないため、龍への襲撃をしようとは考えていない。故に、龍に近づく事はせず、幼い時によく遊び初恋の少女と出会うきっかけになった森を少しだけ懐かしむつもりで、アルはさっそく森に向かうため踵を返した。  少しだけ時間をかけて歩いた先には、あの時と変わらず木々の緑で埋め尽くされた広大な森が佇んでいる。  それに仄かな懐かしさを覚え、うっすらと目を細めながら緑を見つめていると、ふとアルの視界の片隅に銀色に光る何かが僅かに映り込んできた。  「……あれ? レオさん」  視界の片隅で光っていたものは、レオの長い銀色の長髪だった。  かなり遠くからでしかその姿を捕える事ができないが、元々視力のいいアルは懸命に目を凝らしてレオの姿を視界いっぱいに刻み付けようとした。  果たしてレオは、まっすぐな足取りで迷う事なく森の中へと入っていく。  ここで探るのは、何か秘密を抱えているレオにとったら迷惑極まりない事であると重々承知しておきながらも、アルはどうしても好奇心に抗えず気配を消してレオの後を追った。  元々剣士として申し分ない実力を携えるアルにとっては、一般人に気づかれぬよう後を追う事など容易い。レオはアルの存在にいっさい気づく事なく、そのまま早い足取りで森の奥深くへと歩き続けた。  そうしてしばらく歩き、たどりついた場所は……。 「……ここ、龍のっ……!」  そこは、龍の住まう結界が張られた広い洞窟だった。  奥深くまで暗闇が続く不気味な洞窟の周りには、万が一龍へと魔の手を伸ばす者がいたとしてもすぐに摘まみ出せるよう、複数人の見張りが各配置についている。  皆、屈強な男たちばかりであり、アルはこの映えある職業とも言われている見張り役にかつて父親が少しの間だけ従事していた事を思い出す。  現在となっては忌々しい記憶でしかなくなってしまったが、今は思い出話に浸っている場合ではない。  ふと遠くにいるレオを見やれば、何の迷いも恐怖も抱いた様子はなく、凪いだ表情をしながらそのまま洞窟の奥へと入っていった。それに加え、見張りも特にレオを気にする事もなくそのまま禁忌とされているであろう龍への接近を許してしまっている。  なぜレオだけがすんなりと洞窟に入る事ができたのか、疑問が底を尽く様子はない。  レオの後ろ姿が完全に見えなくなるまで待ち、アルは入口付近で再び見張りを続ける男たちの内の一人に声をかける。 「……おい」 「ひぃっ!?」  気配もなく急に低い声で話しかけられた事により、見張りの男は情けなくも甲高い悲鳴を上げて肩をびくつかせた。  その声を聞き、他の男たちも皆剣の鞘とグリップに手を添え、皆いっせいにアルに対し怪訝な表情を浮かべる。  しかし、そんな視線など気にする素振りも見せず、アルは淡々とした表情と声色で更に言葉を紡ぎ続けた。 「通せ」  その一言に、男たちは驚愕の表情を浮かべる。  この世界の生命そのものだといっても過言ではない程に神聖な龍の神の元へ、このような野蛮で不躾な人間をそう簡単に通せる訳がなかった。  腐っても、龍の守人として選ばれただけに戦闘力には自信のある男は、キッと目の前にある漆黒の瞳を鋭く睨みつけると吐き捨てるように声を荒げる。 「不躾だぞ貴様! ここは神聖なる水の龍神様の……」 「通せ」  しかし、男の怒声などまるで耳に入っていないとでも言うように、淡々とアルは先ほどと同じ言葉を告げた。  凪いだ表情。凪いだ低い声色。しかし、纏う雰囲気には壮絶なまでに圧迫感がある。  まるで地獄の空気を一身に背負っているかのようなその怒りが滲むオーラに、心身ともに屈強であるはずの男たちは本能的に「殺される」と察する他ない。  アルへの凄まじい恐怖心で身体が硬直し、呆気に取られていた男たちだったが、我に返った時にはもう既にアルの姿はなかった。  雰囲気一つで簡単に不審者の侵入を許してしまった自分達の見張り役としての能力の低さに、男たちは尚も呆然とその場で立ち尽くすのであった。  蔦で埋め付くされた壁面の横を通り、ひんやりとした空気を漂わせる洞窟を抜けると、そこには鬱蒼とした緑が広がっていた。  樹齢数百年は下らないであろう太く背の高い木々がそこかしこに鎮座し、その周りには様々な種類の花や草が生き生きと生えていた。  そしてその数多の緑の更に奥に、真っ青な宝石のように太陽の光を反射してキラキラと輝く巨大な生物が静かに佇んでいるのが見える。 (……俺の、俺の父ちゃんと母ちゃんの|敵《かたき》が……)  そう。それは紛れもなく、アルが憎き対象として恨み続け、その首を虎視眈々と狙い続けてきた水の龍そのものだった。  サファイアのような透明感のある青い鱗に覆われたその身体は、人間を丸々百人は飲み込めるのではないかと思える程に巨大である。  長いマズルの左右にはびっしりと髭が生えており、その髭だけでも一本で人間の腕の太さ程はありそうだ。  長く太い体長に比例した長い尻尾をくるりと身体に纏わりつかせ、どこか遠くを見つめるその瞳は鱗と同じように真っ青な色を帯び、万人の行く末を見守る存在に相応しい威厳と温もりを携えている。  小さい頃、見張り役の父親に連れられて供物の儀式を間近で見た事のあったアルの脳内に、かつての龍の姿が甦る。あの時に見た姿と何も変わりはなかった。  そう。変わったのは、あの時は純粋に憧れの対象として龍を見ていた自分自身の心境のみだった。  憎しみが心の中に溢れ返り、ギリっと拳を握り締めるアルだったが、ふと遠くから透き通った美しい声色が聞こえてきた事により慌てて近くの大木に身を潜める。 「……お身体の具合はいかがですか?」  この最も愛おしい声を、アルが聞き間違えるはずがない。  なぜ彼の声が、自身の憎しみの対象に。  ぐるぐると混乱する頭を何とか整理しようと、アルは大木の陰からこっそりと龍へ視線を向ける。  果たして、そこには龍に寄り添うように横に立つレオの姿があった。  何故、どうしてと言葉を吐き出しそうになるアルには気づかず、レオは龍へ慈しむかのような優しげな笑みを溢した。  そんなレオに対し、龍もまた小さく口を開くと、深みのある低い声を直接鼓膜に響かせる。 『……お前が血を分け与えてくれるおかげで、少しずつだが力を取り戻せているよ、いつもありがとう』  龍のその言葉に、レオは眉根を下げ困ったかのような笑みを浮かべて首を横にやわやわと降った。  首を降るたびに美しい銀色の髪が光を反射して輝く光景が、龍の美しい鱗と相まって何とも幻想的な雰囲気を作り上げている。 「僕のこの忌まわしい血が、あなたの力になるのならこんなに喜ばしい事はありません」 『……お前は、本当に優しい子だ』  レオが今呟いた言葉と、先ほど呟いた言葉にアルはぴくりと肩を震わせる。 「血を与える」「血が力になる」とはいったいどういう意味なのか。  その言葉の意味を知ろうとアルが再びそちらに視線を向けると、突如としてレオが懐から何かを取り出した。  華奢な手で握り締められていたのは、果物などを切るための小さい小刀であった。  そんな物をどうするのかとアルが思考を巡らせる間に、レオは突如として纏っていた衣服を脱ぎ、上半身をすべてさらけ出し始める。  白く輝く肌が露になったのもつかの間、レオは左腕を大きく上に上げると、右手で握っていた小刀で左の二の腕の裏の肉をざっくりと切り裂いた。 「……んっ……くっ……!」 「……!」  細い腕が、突如として鮮血に染まる。  真っ白な肌と真っ赤な血のコントラストが痛々しく、アルは叫び出しそうになるのを何とか堪えるために口元を手で押さえた。  想い人の突然の自傷行為を見逃せるはずがない。本当は駆け出して今すぐにでも流れる血を止めてあげたい。  しかし、ここで自身が駆け出してしまえば何か重大な事を知る機会を取り逃してしまうかもしれない。  その一身で、アルは憤る気持ちを何とか押さえて再び視線のみをレオへと向ける。  激痛で顔を歪めるレオは、そのままフラフラとした足取りで龍の口元へと跪く。それと同時に、龍は大きな口をカパッと開いて長く赤い舌をレオの方へとゆっくり伸ばし始めた。  龍のマズルが自身の近くにやってきたのを見やり、レオはそのまま二の腕から滴る血を龍の舌先へと落としていく。  途端、龍の固かった表情が少しばかり和らいだのが見て取れた。 『ああ、美味だ。苦しいだろうが、もう少しおくれ』 「は、い……」  もっと、と更に舌先を伸ばす龍に対し、レオは痛みで真っ青になった顔に柔い笑みを貼り付けると、今度は血を更に搾り出そうと右手で左の二の腕をギュッと掴み上げる。  先ほどよりも勢いよくボタタッと流れ出す血を少しでも多く飲もうと、龍の舌先がレオの傷ついた二の腕に少しだけ触れる。  途端、レオは痛みでビクッと身体を揺らし、ギュッと目蓋を固く閉じながら耐え続けた。  一方で、目の前で起こる非現実的な光景にただただ呆然とするしかないアルは、見開いた目をそのままに立ち尽くすばかりであった。  しばらくそうしていくうちに、ようやく満足した龍が舌を仕舞う。それと同時にレオも腕を下げ、懐に常備していた包帯を取り出して傷ついた腕にキツく巻き付け始める。 『……ありがとう。毎度痛い思いをさせて申し訳ないな』 「いえ、このくらい何ともありません」  はだけた服を着ながら平気なフリをしているが、額に汗を滲ませ顔色を青くしているレオのその様子に、アルはギリっと奥歯を噛み締めた。  いったい、これはどういう事なのか。  なぜ、龍はレオの血を飲んでいたのか。  レオの血には、いったい何の力があるのか。  そして、レオはなぜこの事を黙っていたのか。  様々な疑問を頭の中で行き交わせているアルの鼓膜に、突如として龍の声が響き渡る。 『して、そこにいる若造。私に何か用でもあるのかな? それともレオの方にか?』 「えっ……」  龍のその言葉に、アルよりも先にレオが驚愕のあまり小さく声を漏らした。  龍がのそりと大きな青い瞳を一本の大木の方に向け、レオも釣られてそちらへ視線を向ける。  一方、最初から気づかれていた事を潔く理解したアルは、諦めたかのようにゆっくりと大木の陰から身を出す。  アルの姿を直接目に捕え、レオの紫暗の瞳は更に大きく見開かれる事となった。 「なん、で……」  搾り出すかのように呟かれたその言葉に、アルの心の中に少しずつ怒りの炎が灯されていく。  ギリっと握り締めた拳から血が滴るのを気にする余裕も、今は全くと言っていい程になかった。 「……それはこっちの台詞だ。レオさん、アンタなんで龍に血なんか飲ませてるんだよ」  アルの問いに、レオは言葉を詰まらせながら目を反らす。  フラフラと泳いだ瞳に益々怒りがこみ上げ、気が付いたらアルはレオに思いの丈をすべてぶつけるかのように叫び出した。 「ソイツは両親の|敵《かたき》だって言ったよな俺! なのに、何で! 何で龍に協力するようなマネしてんだよ! それに、アンタの血にはいったい何の力があるんだ!」  ずんずんと勢いよくレオに近づくと、華奢な肩を両手でガッチリと掴み激しく揺さぶる。  レオを心から信頼していたからこそ、このような裏切られる形になった事に怒りが収まりそうにない。  肩を捕まれた事により二の腕の痛みが全身に響きレオが顔を歪ませるが、それを気遣える程の余裕は今のアルにはない。  尚も目を反らし続けるレオを追い詰めるようにアルが更に激しく身体を揺さぶると、それを静かに見つめていた龍がやんわりと制止の声をかけてきた。 『おい若造、そう興奮するな。レオが怖がっているだろう』 「っ……!」  龍のその言葉に少しばかり冷静さを取り戻したアルは、細い肩を固く握り締めていた手をしぶしぶと離す。  敵に諭される事に沸々とイラつきがこみ上げるが、今は真相を知る事が最優先だ。  舌打ちをしながら少しだけ自身から距離を取るアルを見やり、レオもようやく肩から力を抜いて痛む二の腕を右手で庇うように押さえた。  それぞれの間に、少しばかりの静寂が木霊する。  気まずいこの空気感を最初に破ったのは、龍だった。 『私が真実を語ってやっても良いが……』 「待ってください。僕から言います」  龍の言葉に慌てて被せるようにレオがそう言うと、龍は仕方がないとでも言うように口を閉ざす。  それを機に覚悟を決めたのか、レオは震える身体をそのままにアルに向き合うと、小さな声で唄うように語り出す。 「ごく稀に、神々や魔物と同等の魔力を持って生まれてくる人間がいるだろ? ……僕は、その人間の一人だ」  レオのその言葉に、アルは僅かに目を見開いた。  確かにこの世界には数百万に一人、生まれながらにして魔力を携えた人間が存在がいる事は知っている。  元来、何も持たずに生まれてくる事が当たり前のこの世界において、神や魔物と同じ類いの力を持って生まれてくる人間は、奇跡として崇め大切に育てられる事が普通だ。そして魔力を持った人間たちは、その能力を生かして人々の役に立つ職に就く事がほとんどである。  レオがその者たちと同じ力を持つのであれば、なぜ今までこんなにも冷遇されてきたのか。  その疑問が顔に出ていたのか、アルの怪訝そうな表情を見ながらレオは諦めたかのような苦い笑みを浮かべる。 「でも、僕は外でクエストを受けながら活躍する魔道師や聖女たちとは違って、体内に蓄えている魔力を使う事ができない出来損ないなんだ。そして使えない代わりに容姿に魔力の痕跡が現れたせいで、普通じゃありえないような髪と目の色を持って生まれてきてしまった。僕の身体を不思議に思った村長は、研究者とか言う外の連中を呼んできて散々僕の事を調べ上げてきたけど、いまだに原因はわかっていない。ただ一つわかったのは、そこいらにいる魔道師や聖女たちの何倍もの量の魔力が僕の中に存在するって事くらい。皮肉だよね、使えないくせに量だけは圧倒的に多いなんて。そして僕のこの身体の秘密は、今のところ村長と外部の研究者って奴らだけが知ってる機密事項なんだ」  レオの語る内容に、アルは再び驚愕の色を表情に乗せる。  村の外で数多のクエストを受けてきた中で、貴重な魔力持ちの人間である数人の魔道師たちとも交流を持った事はあったが、皆容姿は極普通だが強力な技を使いつつ難易度の高いクエストをこなす者ばかりだった。  それ故に、レオのように魔力を放出する事ができず、代わりに見た目にその痕跡が現れてしまう人間がいるなどという話は聞いた事がなかった。しかしそれと同時に、こんなにも浮世離れした容姿を持つ理由にも合点がいく。  いまだ言葉をなくして何処か違う所を見つめるアルに対し、レオは尚もゆっくりと語りを続けた。 「……龍神様は、ここ最近のこの国の急激な人口増加と人間たちによる自然破壊の影響で、年々その魔力を酷使し続けてきた。そのせいでご神体に負荷がかかりすぎたのか、ここ数年の間に魔力が急激に衰え始めてしまったんだ」   確かに近年、発展しつつある魔法学や科学と比例するように、一昔前よりも少しずつ生きやすくなってきた環境下で家族を増やす者が増えてきているのをアルも知っていた。  しかしそれが故に、様々な人工物を作り上げようと森林を伐採し続ける環境ができてしまっている事が問題になりつつあるのもまたよく理解している。  この村はまだ発展途上であり、自然豊かな風景が破壊されるような環境ではないため知らない者も多いが、様々な土地を廻ってきたアルは、そこかしこで緑が消え数多の人工物が建ち並ぶ光景を幾度も見てきた。  それ故に、自然の均衡が崩れていってしまっているのにも納得がいく。確かにここ数年は、極端に雨が降らなかった年もあれば逆に土砂災害に見舞われるほどの大きな水害などが各地で頻発する年もあった。しかし、それを何とか補おうと自然を司る龍の神たちが魔力が尽き欠けそうになりながらも奮闘している事は今この瞬間まで知るよしもなかった。 「自然の均衡が崩れ、水害が多く発生したり雨が枯渇してしまう事で、村長は他の村や国から直々に「水の龍神様をぞんざいに扱っているのではないか」と責め立てられた。村長としての尊厳が失われかねない現実を危惧したあの男は、僕のこの持て余している魔力をどうにかして龍神様に分け与えられないかと考えたんだ。外部から魔道師を呼んでどうにかしてもらうっていう案も出てはいたんだけど、そうなると莫大な報酬金を渡さなきゃいけなくなってしまうし、タダで使い回せる都合のいい奴がいたらそりゃそっちを優先するよね……。そうして色々と研究に研究を重ねた結果、血液に一番多く魔力が籠っているのがわかった」  苦しそうに傷ついた二の腕をキュッと握り締めながら、レオはくしゃっとした笑みをアルへと向ける。  涙は出ていないはずのその笑顔だが、不思議とまるで迷子の子供のように泣き崩れているように見えるのは目の錯覚なのか。 「本当に色々な事を試されたんだよ。肉や爪を少しずつ削られたり、時には無理やり射精させられてその精液を調べ尽くされたり……。凄く凄くつらかったけど、この国が救われるのならって思えば、不思議と耐えられた」  壮絶なはずの辛い経験を、何故凪いだ表情と声色で語れるのか。  淡々とした様子で呟くレオの話を黙って聞いているだけのはずであるアルの方が顔をくしゃくしゃに歪め、思わずギュっと目蓋を閉じて耐える。  男娼として扱われるだけでなく、時には痛め付けられ、時には汚い大人たちに身体を調べ尽くされて。どれだけの重荷を背負わされても、レオはこの国の役に立てるならと気丈に振る舞う。  しかしその強い姿勢が垣間見えれば見えるほど、何故かアルの心は冷えていくばかりであった。  そんなアルの心情を知らずして、レオは真実を話し続ける。 「それから僕は龍神様の魔力の維持を手助けするために、月に一度くらいの頻度でこうして血を献上しているんだ。僕は魔力の量だけで言ったら右に出る者はいないから、月に一回の少しの量でも龍神様を満足させられている。でも、君も知っての通り僕は身体を売る仕事をしているだろ? 血を出すための傷が目立つ所にあると色々と怪しまれたり「萎える」って言われたりするから、なるべく目立たない所……例えば、先日君が気づいた二の腕の裏とかをさっきみたいに刃物で裂いてるんだ」  再び傷ついた二の腕をキュッと片手で押さえつけながら、レオはすべてを諦めたかのように小さく笑い、そっと唇を閉じた。  再度の沈黙が訪れるが、先ほどそれを打ち壊してくれたはずの龍も今度は口を出さずに二人をじっと見つめ続ける。  果たして、次にその沈黙を壊したのはアルだった。 「……なんで、今まで黙ってたんですか?」  その小さな小さな問いに、レオは一瞬ヒュっと息を飲んで硬直するが、もう逃れる術はないといった表情を浮かべながら再び口を開く。  「……君に、嫌われたくなかったから」  静かに呟かれたその言葉と共に、レオのアメジスト色の瞳には自然と涙が滲んでくる。  以前ならばそれを拭ってあげたいと真っ先に飛び付きたい思いを抱くはずであったが、今のアルにとってその涙は辛く心に刺さってくる物でしかない。  じわじわと大きな粒になっていく瞳の雫をそのままに、レオは今にも消え入りそうな声色で思いの丈を呟き続ける。 「君が、龍神様を恨んでいる事を知ってしまったからこそ、僕が陰で支えている事を知られてしまったらって思ったら……怖くて、言えなかった。ごめん」  ついには溜めていた雫がほろっと頬を伝わった。  その涙に、アルの漆黒の瞳にもぼんやりと涙の膜が張り始める。しかしそれはレオの涙に釣られて出た物ではなく、今まで黙っていたレオへの怒りと、その痛みに気づいてあげる事のできなかった己自身の不甲斐なさからくる涙であった。  自身の思いを語る事で精一杯なレオが、アルの涙に気づく事はない。 「本当は最初に会った時に言うべきだったんだ。でも、君があまりにも僕に愛をくれるから、人から愛された事のない僕はそれが凄く心地よくて、次第に君自身に惹かれていってしまった……君の事を、どうしようもなく好きになってしまったから……」  俯きながら呟かれたその言葉に、アルの瞳からもついに一筋の涙が伝った。  その言葉を、今になって聞きたくはなかったから、  レオの中でのアルへの想いが確実な物になってから、その気持ちを伝えてくれればいいと言ったのは紛れもなくアル自身だ。しかし、だからと言ってこんなにも残酷な真実を語られた後で聞かされるなぞ、耐えられるはずがない。 「何で今さら、そんな事……」  悔しさと悲しみの入り交じった声色が、緑の間で漂う風に吹かれては消え行く。  蚊の鳴くような声で呟かれたその言葉に、レオは瞳から涙を溢れさせながらもバッと俯かせていた顔を上げ、すがり付くように痛ましく叫び出した。 「でも信じてほしいんだ……龍神様は決して、君のご両親を殺してなんかいない! 僕たち人間をずっとずっと守ってきてくれた優しい神様が、そんな残酷な事をするなんて……」 「黙れよ!」  レオの言葉を遮るかのように大きく響き渡ったアルのその悲痛な叫びに、レオはビクッと肩を揺らす。  今まで、レオに対してアルがこんなにまで声を荒げる事なぞ欠片もなかった。それ程までに愛されていたはずなのに、今や二人の間には今朝まで存在していたはずの甘い空気が残穢さえ残さず消え失せている。  勢いで押し負けてしまったレオが口を閉ざした瞬間、アルもまた涙をほろほろと溢れさせながら再びレオへ怒声を浴びせた。 「黙れよ……何にも知らない癖に! 俺を騙してた癖に! 今さらアンタの話を俺が「ああそうですか」って言って納得するとでも思ってんのかよ!? 信じてたのに……優しいアンタなら、って思って全部話したのに! ふざけんなよ!」  自身が生命をかけてでも復讐したいと思っている相手に、想い人が加担していた。しかもそれをずっと黙られていた。  二重の裏切り行為により、アルの心は悲鳴を上げて今にも崩れ落ちそうになる。  レオが龍へ血を分け与えていたのはアルと出会うずっと前からの事であるが故に、それを今さらなかった事にするなぞできるはずがない。  しかし、ならば出会った最初にすべてを打ち明けてくれていればと思わずにはいられない。そしてそれと同時に、言えないような状況を作ってしまった自分自身に対しての怒りでどうにかなりそうであった。  それをまるで八つ当たりするかのように、アルは涙を散らしながら大剣のブレードに手をかけると勢いよく鞘から抜いた。  そして鋭く太い刃先を、傍観していた龍の顔に向ける。 「おい! 元はと言えば全部お前のせいだろうが! 今ここでお前をブチ殺してやる!!」  そう怒声を上げつつアルが剣を振りかざそうとした所で、突如としてその腕に温もりが絡んできた。  勢いまかせに龍を切りつけようとしたアルが驚愕で目を大きく見開けば、視線の先には必死に己の腕にすがり付いて止めようとしているレオの姿があった。 「……ごめんね。僕が……僕が全部悪いんだ。君に取り返しのつかない最低な事をした。でも、どうか龍神様を傷つけないで……お願い……」  紫暗の瞳を大量の涙で濡らしつつ儚く呟かれるレオの謝罪に、自然とアルの腕からも力が抜けていく。  どんなに苦痛な思いを与えられても、この一瞬で最愛の人の腕を振り払ってまで龍を殺したいといとは思えなくなってきてしまう。 「……殺すなら、僕を……」 「…………」  ふるふると震えながらも懸命に腕にすがり付いてくるレオの痛ましい姿をこれ以上見ていられず、アルはそっとレオの腕を引き離して大剣を静かに鞘に納めた。  もうこれ以上、惨めな思いはしたくない。最愛の人を、これ以上憎みたくはない。  その思いに従うため、アルは幾度も頬に涙を伝わらせながらその場を駆け出した。 「……クソがっ!」 「あ、アル! 待って!」  必死に己を引き留めようとするその透き通った声に後ろ髪を引かれながらも、それを拒絶するかのようにアルは洞窟へと姿を消してしまうのであった。  深々とした緑の中に取り残され、嗚咽を漏らしながら涙を溢し続けるレオを見つめつつ、龍は今まで閉ざしていた口を開き出した。 『……いいのか?お前もあの若造も知らない、あやつの両親の死の真相を私が語ってもよかったものを……そうすれば、あやつとお前が拗れる事もなかったのにな』  龍のその言葉に、レオは溢れさせていた涙を乱暴に拭いながら顔を上げる。  泣き腫らしたせいで真っ赤に染まってしまった目元をそのままに、龍へと真っ直ぐに向き合う姿が何とも痛ましく映る。 「……おそらく、死の真相を言ってしまえばアルがまた傷つくと思って、あなたは先ほど何も言わなかったのでしょう? ……なら、いいんです。彼が傷つく所を、もうこれ以上見たくない。好きな人が僕を忘れて幸せになれるなら、僕にとってもそれが一番幸せな事なんです」  そう呟きながら小さく笑みを浮かべるレオの、今にも儚く散ってしまいそうな姿を凪いだ瞳で見つめながら、龍はまるで唄うかのように威厳のある声を響かせる。 『……ここから先は、私の独り言だと思って聞き流して構わないがな……抗う勇気を持て』  龍のその言葉を耳に入れながらも、レオはすべてを諦めたかのような表情を消す事はなかった。  もう戻れない。自分の犯してしまった罪を消す事はできない。  もう既に消えてしまったあの広い背中をぼんやりと思い出しながら、レオは再び静かに一人涙を溢すのであった。

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