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第7話:太陽と月

 広い窓から差し込む月の明かりを目蓋越しに感じながら、アルは眠りについていた脳を少しずつ覚醒させていく。  身体全体が怠く、汗を大量に流したせいで肌にまとわり付くシーツの感触を少しだけ不快に感じるが、暴れ狂うほどに激しく昂っていた性欲と心は充分なまでに満たされていた。  ふと、寝惚け眼を擦りながら横を見やれば、なぜかそこにいるはずの想い人の姿がない事に気づく。  それに少しばかりの寂しさを抱きながらぐるっと部屋全体を見渡してみると、窓際付近でレオが静かに佇みながら夜空に浮かぶ月を眺めていた。  先ほどまで狂おしいほどの快楽に身を委ね、息も絶え絶えだったはずだが、艶かしい裸体の上から長めの羽織のみを纏って月の光を浴びるその姿は、浮世離れした圧倒的な美しさを醸し出している。 「レオさん」  銀色の長い髪の毛が宝石のようにキラキラと輝く姿を目に焼き付けつつアルがそっと名を呼べば、レオは窓に向けていた顔を静かに振り向かせる。  さんざん涙を溢した事によって目元が赤く染まっており、左頬には殴られたせいで青い痣が残ってしまったが、その美貌が損なわれる事はない。  のそりとベッドから起き上がり、自身と同じように窓辺に近づいて月を見上げるアルを見やった後、レオは再び空へと視線を戻した。 「……満月なんて、久しぶりに見たなって思って……」  ぽそりと儚く呟かれたその声色は少しばかり掠れており、先ほどまでの激しく蜜に溺れた一時の余韻が残されているのをありありと感じ取れる。  ふと、自身の頭一個分ほど下にあるレオの顔にある痛ましい傷が気になり、アルは心に滲む悔しい思いを表には出さないように堪えた。そして、自身より一回り小さな身体を後ろから優しく抱きしめ腕の中に閉じ込めつつ、形のいい耳元付近で囁く。 「……ほっぺ、大丈夫ですか?」 「うん、大袈裟に血が出ただけで大した事はないよ」 「……この綺麗な顔面に傷つけやがって……アイツら、殺しても殺し足りねぇ」 「こら、落ち着いて。というかいくら僕が襲われてたからってあれは明らかにやりすぎだよ。死人が出ててもおかしくないんだから」  細い身体を抱きしめながら、威嚇する犬のように喉奥をグルグルと震わせて怒りに染まり出すアルを、レオは呆れたように笑いながら諌める。  いくらレオが殴られたからって、何も瀕死になるまで痛め付けなくてもよかったのにと、レオが自身の腹に添えられた大きな手に白い手を重ねながら優しく擦れば、さすがのアルも怒りを鎮める他ない。 「……まあ、すぐ止血すれば大丈夫だとは……思います……あんだけ野次馬いっぱいいたんだし、誰かしら助けてますって。というかあの野次馬共もブン殴っておけばよかった」 「もー、君はまたすぐそうやって暴走するんだから」  諌められてもまだ若干の怒りが残るアルが最後の悪あがきとばかりにそう言えば、レオは再び呆れ笑いを溢しながら後ろ手でアルの頭をよしよしと撫でる。  その母性のような甘い手のしぐさにアルがうっとりとした表情を浮かべていると、ふとレオが神妙な面持ちになりながらくるりとアルの方へ振り返った。  レオは辛うじて羽織を纏ってはいるが、突如として裸で向かい合う事になってしまいアルは内心少し慌ててしまう。しかしレオはいまだ凪いだ表情のままだ。  そして急にその銀色の小さな頭を下げ、まるで深く謝罪するかのように少しばかり苦しげな声色で言葉を紡いだ。 「……でも、本当にありがとう。助けてくれて」  その儚い礼には、アルはあえて応える事はしなかった。昨日までの事は忘れ、今のこの尊い二人だけの時間を永遠と感じていたいから。応えてしまえば、罪悪感にかられたレオが自分から離れていってしまうような気がしたから。  しばしの間、月光に照らされながら二人は何も声を出さずにその場に佇む。  ふと、静かな時を経てその沈黙を破ったのはアルの方であった。 「……レオさんって、月の精霊みたいですよね」 「急になに? 初めて言われたよ」  アルの脈拍のない話に、レオは思わずふふっと笑い声を漏らした。  生まれてこのかた「悪魔の子」「化け物」と言って蔑まれてきたレオにとって、アルがくれる褒め言葉はこの世のどんな物よりも癒しとなっている。  窓から差し込む月光によって銀色の髪や暗紫の瞳、真っ白な肌がキラキラと光を帯び、その花が綻ぶかのような笑顔を携えながら美しく佇むレオに、アルは目を輝かせた。  しかし、ふとよく目を凝らせば、レオの身体の至るところに虫に刺されたかのような赤い痕がちりばめられている事にようやく気づく。言わずもがな、この痕は昨日アルが夢中になってレオに付けたものだ。  首筋や太股付近を染め上げているそのいくつもの所有印から、昨日の初夜がいかに凄まじいものだったかという事が見てとれる。  所有印を見つめながら、アルは眉根を下げつつ捨てられた子犬のような表情を浮かべた。 「……あの、ごめんなさい。無理させちまった……」 「……何で謝るの? 僕が抱いてって君に頼んだんだから、むしろ悪いのは僕の方だ。こんなに浅ましくて汚い身体を抱かせる事になっちゃって、どう詫びたらいいのか……」  アルがしょんぼりとした声色で謝っても、レオは困ったかのような儚い笑みを浮かべながら首をやわやわと横に降ってそれを否定する。  自信の無さが故に、このような状況になってしまってもすべて自身が招いた種だと心の底から思い込んでしまっているレオのその思考を、どうにかしてやりたいと思わずにはいられない。 「……何度も言ってるけど、俺はアンタの事が大好きで大好きで仕方ないんですよ。本当だったら俺の事をちゃんと好きになってもらってからこういう事しようかなって思ってたけどさ。きっかけは何であれ、こうして大好きな人の身体を全部貰えたんだから俺としてはすっげー幸せなんだ」  少しばかり震えてしまう声色が何とも情けない。  それでも、今ここで本心を伝えねば、脆く儚いこの目の前の存在が霧のように消えてしまうような気がしてしまった。  凄惨で穢れた人間界を疎ましく思った月の神にこの月の精霊を奪われてしまうような、そんな非現実的な考えが頭の中を占めて止まない。 「だから、あんま自分を下げるような事は言わないでくださいよ。俺が悲しくなっちまう」  すがり付き、もう離したくないとでも言うように、アルは目の前の銀色の髪の毛の中に鼻先を押し付けつつ、再び一回り小さな身体を腕の中に抱き込んだ。  頭部から香る、甘い花のようなレオ自身の匂いが不思議と荒んだ心を落ち着かせていく。  アルが寂しそうにそう小さく呟く声が鼓膜に直接流れ込んできた事により、レオは自身の後ろ向きな考え方がいかにアルを傷つけてしまっていたのかをはたと理解した。  少しばかり震える腕で懸命に自身を逃さぬよう抱きしめてくるアルへ、レオはそっと言葉を紡ぐ。 「……うん、ごめんね。それと、ありがとう」  透き通るようなテノールに乗せられた、仄かな嬉しさを滲ませたその声色に、アルもようやくホッと安心する。  これ以上自分を卑下してほしくないという己の想いが多少なりとも本人に伝わってくれた。今はまだこれで十分だ。  これからまた少しずつ愛されるという事の尊さをわかっていってもらおうと、アルはほんのりと笑顔を浮かべた。  しばしの間、裸の肌同士を密着させつつ月の明かりを見つめていたが、ふとレオが何かを思い出したかのように小さく口を開き出す。 「……この髪の毛さ、よく「何で切らないんだ? ダラダラ伸ばしやがって」って聞かれるんだけど」  そう言いつつ、レオは肩に流れていた一房の髪の毛を細い指先でそっと摘まんだ。  月の光に反射して神々と輝くそれは、どんな上質な宝石よりも美しく艶やかな色を帯び、アルはうっとりとした瞳でそれを見つめる。 「……これ、村長から「少しでも娼婦のようにあれ」って命令されたから伸ばしてるんだよね。でも今はその村長も僕から手を離しているし、もう伸ばす必要もなくなったからいっその事バッサリいってやろうかなって思ってたんだ。忌々しい銀色で昔から大嫌いだったし」  くるくると毛先を指先で遊ばせつつ、レオは過去の忌々しい出来事を淡々と述べていく。  村の男の性欲の捌け口になるためだけに管理されてきたその事実に、アルは内心腸が煮えくり返る思いで溢れそうになるが奥歯を噛みしめて何とか耐えた。  しかし、屈辱的な過去の話をしているはずのレオ本人はさほど悲観的ではなさそうだった。  アメジストのような瞳には、以前まではあった哀しみや諦めの色がない。今はただ、仄かな希望の色を帯びているのみだ。 「だけど、君があまりにも大事そうに触ってくれるものだから、最近はもう少しこのままでもいいかなって思えてきたんだ。君のおかげで、存在価値がないと思っていた自分自身を少しだけ大切にしようかなって思えるようになった」  悪魔の子と言われ続け、時には乱暴に鷲掴まれながら色事をこなさなければならなかったが故に、レオはこの異質な髪の毛を心底嫌っていた。  しかし、今は誰よりもこの髪の毛を愛してくれる人がいる。それだけで、少しはこんな物にも価値があるのではないかとレオは温かくなる胸にそっと手を添える。 「……俺は、この髪の毛が世界で一番綺麗な髪の毛だと本気で思ってます。あーでも、短いのも絶対似合うだろうからいつか見てみたい」 「ふふ、嬉しい」  上から頭にすりすりと顔を擦り付けながらアルが弾んだ声でそう呟くと、レオはクスッと笑みを溢しながらアルの広い背中にそっと手を添えた。  アルが強く所望するのであれば、思い切り短くしてしまってもいいかもしれないと未来に希望を抱けるまでになった事に、嬉しい思いでいっぱいになる。  ふと、先ほどのアルの言葉を思い出したレオは、いまだグリグリと顔を頭に押し付けているアルに対して再び言葉を紡ぐ。 「……僕が月の精霊なら、君は太陽の神だね」 「え?」  レオのその言葉の意味を一瞬では理解できず、アルはきょとんとした顔で呆けた声を上げる。  頭の上に疑問符を浮かべながら首を傾げるアルにクスクスと笑い声を漏らしながら、レオは語りを続けた。 「月は、太陽の光なしでは輝く事はできない。君のその屈託のない強い光のおかげで、僕は今こうして愛される事のなかった心と身体が幸せで満たされてるんだ」  太陽が存在しなければ、月もこの地球も存在する事は決してできない。レオに希望の光を与えてくれたのは、紛れもなくアルという存在そのものだ。  明るく皆を照らしてくれて、暖かな温もりを与えてくれるアルこそ、太陽の化身そのもの。  レオのその真っ直ぐで嘘偽りのない賛辞に、アルはふいをつかれたかのように顔を赤く染め上げる。  想い人にそんな嬉しい事を言われてしまえば、心を乱されてしまうのも無理はない。  そうして赤い顔を隠そうとアルがレオの頭部に再び顔を埋めると、突如としてレオがアルの腕の拘束からするりと抜け、少し距離を取りながら真正面に立ってきた。  突然の事に再びぽかんとした表情を浮かべるアルの漆黒の瞳を見つめながら、レオは神妙な面持ちで小さく口を開き出す。  「……僕は、君の事が……」  その言葉の先を理解できない程、アルは子供ではない。  しかし、レオがそれを言い終わる前に、アルは大きな手のひらでレオの柔らかな薄い唇を覆った。  言葉を遮られるとは思っていなかったレオは、困惑したかのように眉尻を下げる他ない。  そんなレオに対して、アルは包み込むような優しい笑顔を浮かべる。 「……レオさん、まだあんまり気持ちの整理ついてないでしょ? だってさ、目が泳いでるよ」  アルのその言葉に、レオはビクッと肩を揺らした。  確かにレオにとって、アルはかけがえのない唯一無二の存在になっている事は確かだった。現に、あれだけ激しく肌を絡め合っても嫌悪感どころか快楽で蕩けそうになった程だ。  しかし、それが果たしてアルと全く同じ気持ちなのかと問われれば、即答はできない。ただ単に、己を救ってくれた恩人としての感謝の気持ちを勘違いしているだけなのかもしれないという考えも片隅には存在した。 「大丈夫。昨日みたいな事もあったばっかなんだし、無理にけじめをつけようって思わなくていいです。ゆっくりでいいから、またちゃんと俺と目を合わせて言えるようになったら気持ち教えてください」  どこまでも優しくそう諭すアルに、レオの紫暗の瞳にはうっすらと涙の膜が張られていく。瞳が潤み出したのを機に、アルはそっと口元から手を離してやった。  アルは、迷っているレオの気持ちをしっかりと理解してくれていた。理解し、それすらもすべて受け入れてくれた。その優しさに、レオの心は様々な種類の暖かさで包まれていく。  ついにホロッと一筋の涙を頬に伝わらせ、ありったけの感謝の気持ちを込めて震える声で呟いた。 「……本当に、ありがとう」  その懸命な声色に、アルは正面から優しくレオの身体を抱きしめる。  ぐすっと鼻を鳴らす音を耳に入れながら、アルは最愛の存在の涙が止まるまでひたすらに優しく温もりを与え続けるのであった。    幾ばくかの時を抱き締め合い、再び眠りにつこうと二人でベッドへと戻る。  ふと、情事の際に気になった事を思い出したアルは、何気ない口調でレオに問うた。 「……そういや、ちょっと気になってたんですけど、二の腕の裏に傷ありますよね? それどうしたんですか?」 「……っ!」  アルがそう呟いた瞬間、レオは大きく目を見開き、傷のある方の二の腕を庇うかのようにもう片方の手で抑えた。  その様子はまるで、アルからその傷の真相を隠そうと必死になっているかのように映る。  レオが傷を隠そうとした瞬間、アルの脳内に浮かんできたのは昨日の下衆な男どもの顔だった。 「まさか……昨日の奴らに!」  あの男たちがレオに消えない傷をつけたのか。  瞬間的に壮絶な怒りに染まったアルは、顔を真っ赤に染め上げて吐き捨てるように叫ぶ。  もしそれが事実であれば、今すぐにでも再び血濡れの身体にしてやろうと勢いのまままにすくっと立ち上がった。  一方で、突如として興奮し出してしまったアルを落ち着かせようと、レオは慌てて首を横に降った。 「違う違う! ちょっと木の枝に引っ掛けちゃっただけなんだ! そんなに深くはないし、本当に心配するような事は何もないよ!」  そう言いつつ、レオは焦りから吹き出した汗を拭いながらベッドの掛け布団をパサっと開いた。  いまだ怒りでふるふると震えるアルの腕を引っ張りながらベッドの中へと必死に誘導するその様は、明らかにまだ何かを隠している。 「……それよりさ! まだ夜中だし、もう少し寝ようよ! お互いにまだ疲れが残ってるんだしさ」 「……はい……」  無理やり布団の中に身体を詰め込もうと必死なレオのその姿に、知られたくない事を無理に詮索するのも可哀想だとようやく理解したアルは、不本意ながらもしぶしぶとベッドへと潜り込んだ。  ここまで頑ななレオをこれ以上問い詰めても何も出ないだろうし、何より昨日の今日で精神的にも肉体的にもダメージが抜けきれないであろう本人の意思を今は尊重せねばいけない。  ようやくアルが大人しくなったのを見計らい、レオもホッと安心したかのように息をついた。  そのまま自身もアルの真横で横になり、掛け布団をかけて「おやすみ」と小さく呟くと、数分もせずに静かな寝息を奏で出した。どうやら相当疲れていた様子だ。  すぅすぅと軽やかに奏でられる寝息を聞きつつ、アルは先ほどのレオの傷に再び思考を巡らせた。 (……二の腕の表側ならまだしも、裏に傷がつく事なんてあるのか? それに、木の枝に引っ掛けたにしては傷が綺麗すぎる。あれは間違いなく鋭い刃物で切った痕だった)  過酷なクエストをこなしてきたアルにとって、傷の切り口でどんな代物が使われているのかを見極めるのは造作もない事だ。  沸々と沸き上がるレオへの疑問を払拭できる日が来るのか。そう思いを馳せながら、アルもまただんだんと襲ってくる眠気の波に抗う事はせずに目蓋を落としていくのであった。

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