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01 処刑台

 処刑台から見る景色は、こんなものだったんだな。  パンパンに腫れ上がった目蓋の薄い隙間から、ニアはじっと前方を見据えた。  城門前にある広場は、大量の群衆で埋め尽くされている。群衆はひどく興奮した様子で腕を振り上げ、大きく開いた口から罵詈雑言をまき散らしていた。老若男女の罵声が複雑に絡み合ったそれは、まるで呪詛のように聞こえる。 「聖女様に害をなすとは死に値(あたい)する!」 「あの女は聖女様を陰湿に苛めていたらしいぞ! 心を病んだ極悪非道な令嬢だ!」 「そのような卑劣な女を育てた家族も同罪!」 「一族郎党、死んで償え!」  何も知らないくせに、ずいぶんと好き勝手にほざく。血を滲ませた唇が、勝手に薄笑いを滲ませる。それが気に食わなかったのか、直後ガツンと額に何か硬いものがぶつかった。どうやら、また石を投げられたらしい。こちらは首と両手を木枠にはめられて固定されているから、群衆にとっては絶好の的だろう。  割れた額から溢れた血が、目蓋の上をねっとりと伝っていく。その感触に、三月前に同じ場所を怪我したことを思い出す。  確か、第二騎士団の副団長に任命されるための昇進試験のときだ。最後に相手をした騎士の剣先に額を裂かれながらも見事勝利を収め、ニアは副団長の座を射止めた。そのときは『二十三歳と、最年少で副団長の座についた将来有望な騎士』などと周囲にもてはやされたが、まさかその三月後に断頭台に登らされているとは誰にも想像もできなかっただろう。 ――俺だって、こんな状況は想像してなかった。  どこか諦めた心地でそう考えていると、ふとすすり泣きの声が聞こえた。目線だけを動かして隣を見やると、金色の巻き髪をぐちゃぐちゃに乱した妹・ダイアナの姿が視界に映った。首を切り落としやすくするためか、それとも恥辱を与えるためか、腰まで伸びていた豪奢な髪はざんばらに短く切られている。 「ダイアナ、泣くな」  小さな声で囁くと、ダイアナは少しだけ顔をこちらへ向けた。群衆から散々石を投げ付けられて、その美しい顔は血にまみれて無惨に腫れ上がっている。エメラルド色の瞳が、大粒の涙で濡れていた。  今年十八歳になった五歳年下の妹。ダイアナは幼い頃から際立った美貌で有名だった。太陽の光を受けるとキラキラと光る金色の巻き髪、ツンと尖った小さな鼻に、唇は瑞々しい果実のように赤く、そしてアーモンド型の大きな瞳は鮮やかな緑色に輝いている。  それに比べて、自分は両親の秀でていないところを集めたような地味な見た目をしていた。短く切られた焦げ茶色の髪に、淡く控えめな色をした薄緑色の瞳、醜男というわけではないがどこか特徴のない目鼻立ちをしている。だからこそ、自分とは違って華やかな容姿を持つダイアナは、ニアにとっても自慢の妹だった。 『まるで地上に降り立った天使のよう』と評される美貌から、ダイアナは多くの貴族の息子から婚約を申し込まれていた。そんな彼女が恋に落ちたのが、この国の第一王子だった。 「絶対にあの方のもとに嫁ぎたいの!」  両親に対して、そう熱烈に訴えていたダイアナの姿を思い出す。その熱意のおかげか、両親の涙ぐましい根回しのおかげか、ダイアナが第一王子の婚約者として選ばれたのは彼女が十三歳の頃だったはずだ。そのときから、すでに自分たち家族はこの無惨な運命へと向かっていたのだろうか。 「ニアお兄さま、ごめんなさい、私……私、こんなつもりじゃ……」  ダイアナの口から零れた後悔の言葉に、胸が締め付けられるように痛む。下唇を小さく噛んでから、ニアは淡い笑みを浮かべた。 「大丈夫だ、ダイアナ。もう大丈夫だから」  何も大丈夫なんかじゃない。その時は刻々と迫っている。だが、今このとき妹にかけられる他の言葉はなかった。  ダイアナの更に向こう側には、自分と同じように木板に固定された両親の姿が見えた。ただ諦めたように両目を閉じてその時を待つ両親の姿に、息が詰まるような悲哀を覚えた。自分も両親も、妹ですら、こんな結末になるなんて思ってもいなかった。伯爵家全員が処刑されるなんて。  視線を斜め横へと向ける。そこには断頭台を見下ろすような形で、小高い壇上が作られていた。その壇上に見えるのはダイアナの婚約者だった第一王子と、その腕にすがりつくようにして立っている少女の姿だ。  第一王子はまるで置物でも眺めるような無機質な眼差しで、断頭台を見下ろしている。耳元まで伸ばされた銀色の髪に、青ざめて見えるほど白く透けた肌をしており、その青い瞳はまるで研がれたばかりの剣先のように鋭く尖っている。  その美しくも冷たい顔立ちや、情け容赦のない冷徹な内面から、周囲からは『氷の心臓の持ち主』だと噂されていたが、こんな場面でも無表情を崩さない辺り、噂は真(まこと)だったということだろう。  婚約者であるダイアナに対しても素っ気ない反応しか返してくれなかったらしいが、ダイアナは「そういうところが素敵なの!」と逆に熱をあげていた。だからこそ、突然現れて第一王子の心を奪っていった『彼女』のことが許せなかったのだろうか。  かすんだ視線を、第一王子にすがりつく少女へと移す。肩まで伸びた艶やかな黒髪と幼さを感じさせる童顔をした、どこか庇護欲を覚えさせられる愛らしい少女だ。  彼女――ある日、数百年ぶりにこの世界に現れた聖女。神聖力を持ち、他者を癒すことができる。この世界の精霊に愛され、奇跡を起こしたり、国を栄えさせる力を持つ唯一無二の存在。  怯えたような眼差しでこちらを見やる少女の左足には、大袈裟なぐらいの包帯が巻かれている。 ――嫉妬に狂った婚約者の女が、第一王子の心を奪った聖女を階段から突き飛ばして落とした。  その第一報を耳にしたときの、全身の血の気が下がっていく感覚を覚えている。まさか、と思った。確かにダイアナは昔から周りにちやほやされて育てられたせいか、気位が高くやや我が侭なところはあった。  ニアも歳の離れた妹を、目に入れても痛くないほど可愛がってきた。生まれたときからダイアナのお願いは何でも聞いてあげたし、ダイアナが欲しいものはどれだけ時間がかかっても手に入れてきた。少し我が侭がすぎるところも愛らしいところだと思って、なあなあに見逃してきたかもしれない。だが、それでも誰かを傷つけるような子ではなかったと思っていた。  だから、最初は何かの間違いだと思ったのだ。聖女様を傷つけた罪で家族全員が処罰を受けると言われて拘束を受けた後も、誤解をとく場所を与えられるはずだと信じていた。だが、結局弁明の機会すら与えられず、こうやって断頭台の上に引きずり出されている。  伯爵家を裁判なしで即処刑するなんて、聖女様を傷つけた罪は最上級に重たいらしい。そう他人事のように考えなくては、現実を思い出して全身が震え出しそうだった。  ギッと断頭台の床が軋む音が聞こえた。その音に全身が総毛立って、一気に冷汗が滲み出した。床を這うようにして目線を向けると、大きな男の足が見えた。そして、その足下近くには巨大な斧が引きずられている。罪人の首を斬り落とすための道具だ。  その大斧を見て『最悪だ』と吐き捨てそうになった。あれはニアの斧だ。伯爵家に代々受け継がれている、大人の背丈ほどある巨大な斧。扱い始めたばかりの頃は、自分が斧を振るっているのか、自分が斧に振り回されているのか判らなかったが、ようやく身体に馴染んできたというのに。その伯爵家由来の斧で、伯爵家の人間を処刑するなんてずいぶんと悪趣味なことをする。  斧を見たダイアナがヒッと短い悲鳴を漏らした後、短い髪の毛を振り乱して叫ぶ。 「いやッ! いやあぁ、私、何にもしてないッ! 何も悪くないのに……ッ!」  ダイアナの叫びは、群衆の怒りを更に煽ったようだった。群衆が絶叫するように声を張り上げる。 「聖女様に怪我をさせておいて、何もしていないだと!?」 「なんて悪女だ! 処刑人、さっさと首を落とせッ!」  ぶつけられる悪意にビリビリと皮膚が痺れる。ダイアナの泣き叫ぶ声と群衆の罵声にぐちゃぐちゃと体内を掻き回されて、今にも吐きそうだった。  ニアがうなだれたまま息を殺していると、不意に群衆の叫びが止まった。視線を持ち上げると、第一王子が緩く片手を上げているのが見えた。 「処刑執行」  呆気なく、無慈悲な台詞が告げられる。だが、どうしてだかその言葉に、ニアは恐怖と同時にほんのわずかな安らぎを覚えた。  第一王子は相変わらず微塵も心がないような、無感情な視線でこちらを見下ろしていた。遠くから見ても判るぐらい、深い青色をした瞳だ。『まるで海の底のような色だ』と思ったとき、ダイアナの悲痛な声が聞こえた。 「ニアお兄さま……!」  斧が風を切る音が聞こえた直後、緞帳(どんちょう)でも下ろされたかのように目の前が真っ暗になった。

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