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02 神様、感謝します

  「ぅわ、ああぁあぁッ!」  自分の情けない悲鳴で目が覚めた。ベッドのシーツをはねのける勢いで上半身を起こして、両手でまさぐるようにして自身の首を確かめる。首に切れ目はなく、しっかり胴体と繋がっていた。 「首、が……ついてる……」  確かめるように呟く。だが、つい先ほど斬り落とされた感覚がまだ残っているようで、全身から冷汗が止まらなかった。着ているパジャマも汗でじっとりと湿って、皮膚に貼り付いている。  浅い呼吸を繰り返していると、慌てた様子で部屋にメイドが入ってきた。 「いかがなさいましたか、ニア坊ちゃんっ」  ベッドへと駆け寄ってくるメイドの姿を見て、ニアはとっさに目を見開いた。  長い黒髪をポニーテールに結い上げた二十代前半の女性だ。頬に散った薄茶色のそばかすはまるで星のようで、小さい頃は「ジーナのお顔は星空みたい」と言っていたことを思い出す。だが、ジーナはニアが十七歳になった歳に、この屋敷お抱えのシェフと結婚して退職したはずだ。 「ジーナ……どうして、ここにいるんだ……」  いるはずのない彼女の姿に、呆然とした声が漏れる。ベッドの上で微動だにしないニアを見て、ジーナはひどく心配そうに眉尻を下げた。 「どうしてって……ジーナはいつだってニア坊ちゃんのお側におりますよ。こんなに汗をかいて、少しお熱があるみたいですね」  ニアの額に手を当てながら、ジーナが呟く。  その言葉を上の空で聞きながら、ニアはゆっくりと自身の身体を見下ろした。ベッドの上に投げされた両足は、記憶にあるものよりもずっと細くて頼りない。広げた手のひらも小さくて、柔らかい皮膚には硬いタコはほとんどできていなかった。 「鏡、を……」 「鏡?」 「鏡を、持ってきてくれ」  強ばった声でそう告げると、ジーナは怪訝そうな表情ながらも棚から手鏡を持ってきた。  受け取った手鏡を覗き込んで、息を呑む。そこに映っていたのは、まだ成人を迎えていないであろう十代中頃の自分の顔だ。  震える指先で頬を撫でながら、掠れた声を漏らす。 「ジーナ、俺はいま何歳なんだ?」  訊ねると、ジーナは更に不安げに目を細めた。熱でニアの頭がおかしくなったと思っているのかもしれない。 「坊ちゃん、大丈夫ですよ。すぐにお医者様をお呼びしますから」 「いいから、俺が何歳なのか教えてくれ」  身を翻そうとするジーナの腕を掴んで、追いすがるように訊ねる。すると、ジーナは根負けしたように答えた。 「先月に十六歳になられたばかりではありませんか。ご家族であんなに盛大に祝われたのに忘れてしまったのですか?」  泣き出しそうな声でジーナが言う。その言葉を聞いて、もう一度手鏡を覗き込む。少年から青年へと移り変わる最中の、まだかすかに幼さを残した顔立ちは、確かに十六歳の頃のものだ。 「夢……夢だった、のか……?」  か細い声で呟く。あの断頭台の記憶は、単なる悪夢だったのだろうか。だが、それにしては身体に残る感覚のすべてが生々しく、おぞましかった。投げつけられた石の痛みや、もうどうしようもないと諦めるしかない絶望感は、まだ心臓の奥に縫いつけられたように残っていた。 ――あれが夢だった? あんなに恐ろしくて、生々しい夢があるのか?  自問自答しながら、二十三年間の人生を思い出す。血が滲むような努力をして第二騎士団に入団を許された日、家族とともに妹の婚約を祝ったときに嬉し涙を流したこと、あれらすべてが夢幻だったなんてことがあり得るのか。  心臓が嫌な鼓動で不規則に跳ねている。右手でギュッと左胸の辺りの服を握り締めると、ジーナが焦った声をあげた。 「本当にどうなさったんですか。胸が痛いのですか?」  ニアの背中をさすりながら、ジーナが訊ねてくる。その顔を見やって、ニアはぽつりと呟いた。 「ジーナは……シェフのアランと結婚するのか?」  ニアの問い掛けを聞いた途端、ジーナがピタリと動きを止めた。その顔がじわじわと赤くなって、困惑したように眉尻が下がっていく。 「けっ、結婚なんて、どうしてそんなことを……」 「アランと恋仲なのか?」  畳みかけるように訊ねると、ジーナの顔がとうとう真っ赤に染まった。その顔色で、ニアの質問に肯定を返している。  それが解った瞬間、ニアは転がるような勢いでベッドから立ち上がっていた。「ニア坊ちゃん!?」と叫ぶジーナの声を無視して、無我夢中で部屋から飛び出していく。  パジャマ姿のまま全速力で駆けるニアの姿を見て、廊下を歩いていた従者たちがギョッと目を見開く。だが、それでもニアは足を止めなかった。  屋敷の中を駆けて、見覚えのある大きな扉を開く。そこは家族の団欒の場である、広々とした部屋だった。据え付けられた大きな窓から、朝日が燦々と射し込んでいる。そうして大きなリビングのテーブルを囲むようにして、両親とダイアナが席に着いていた。  突然飛び込んできたニアの姿を見て、みな驚いたように目を丸くしている。 「どうしたんだ、ニア。服も着替えてないじゃないか」 「そんなに息を切らして、何かあったの?」  父と母が続けざまに訊ねてくる。その柔らかな声に、じわりと胸の奥から安堵とも悔恨ともつかない感情が込み上げてきて、息が止まった。  目の前に、永遠に失ったはずの家族がいる。これは本当に現実なのか。それとも、夢の続きを見ているだけなのか。 「ニアお兄さま、パジャマ姿で歩き回るなんてはしたなくってよ」  オシャマな口調で、ダイアナが言い放つ。自分が今十六歳ということは、ダイアナは十一歳だろうか。  その美しい巻き髪が腰まで伸びているのを見て、ニアはふらふらとダイアナに近付いていった。 「髪の毛が……切られてない……」  ニアの呟きを聞いて、ダイアナが怪訝そうに眉を顰める。 「何を言ってるの、お兄さま。大切な髪を切るわけがないじゃない」  そう言って、ダイアナが不思議そうに首を傾げる。金色の髪が細い首筋を滑っていくのを見た瞬間、不意に心臓の内側から感情が溢れ出した。両目から大粒の涙がぼろぼろと零れて、唇の隙間から嗚咽が漏れ出る。  突然泣き出したニアを見て、両親やダイアナがギョッと目を見開く。それでも感情の奔流を押さえることができず、ニアはその場にひざまずくと強くダイアナを抱き締めた。 「神様……! 神様、感謝します……ッ!」  両腕に抱き締めた柔らかな身体は、確かに温かかった。脈打つ心臓を感じながら、家族が生きていることに心からの感謝を捧げる。同時に、どうかこの瞬間が夢でないことを祈った。  子供のように泣きじゃくるニアを見て、抱き締められたダイアナが上擦った声をあげる。 「どっ、どうしたの、お兄さまっ」  近付いてきた両親が、焦りを滲ませた声で言う。 「本当に何があったんだ?」 「どうして泣いているのか教えてちょうだい」  しゃがみ込んで声をかけてくる家族の姿に、余計に涙が止まらなくなる。 「ひどい、ひどい夢を見たんです……」 「夢?」  そんなことか、とばかりに父が呆れた声を漏らす。途端、母が横目で父を睨み付けて、その腕を小突いた。だが、すぐさま優しい眼差しでニアを見つめてくる。 「貴方がそんなに泣くなんて、本当に悲しい夢だったのね」  その言葉に小さくうなずくと、母は何も言わずにニアの背中をそっと撫でてくれた。温かな手のひらを感じながら、ほろほろと涙を零し続ける。  あれを夢だと信じたかった。だが、それならなぜ自分はジーナがシェフのアランと恋仲であることを知っていたのか。前の人生では、ジーナが屋敷を出ていく前日まで、結婚相手がアランということは知らなかったはずなのに。 ――あれは、夢ではない。それなら、あれはいずれ自分たちに訪れる未来ということだ。  処刑台から見た景色を思い出すと、咥内に嫌な唾が滲み出すのを感じた。這い上がってきた恐怖で、全身が小刻みに震える。  すると、ニアに抱かれたままのダイアナが困惑した声で呟いた。 「お兄さま、大丈夫……?」  問い掛けてくる声に、ニアはゆっくりとダイアナを見上げた。緑色の瞳が不安げに揺れて、ニアを見つめている。その眼差しに、息が詰まった。  可愛くてたまらない、たった一人の妹に、あんな惨めな最期は迎えさせない。もしこれが神に与えられたやり直しのチャンスなのだとしたら、自分はもう二度と家族を手放さない。  そう心に誓って、ニアは唇を開いた。 「大丈夫だ、ダイアナ。もう大丈夫だから」  繰り返して、口元に笑みを浮かべる。泣きながら微笑む兄の姿を見て、ダイアナはやっぱり不思議そうに首を傾げていた。  そっとダイアナの身体を離して立ち上がる。すると、父が場の空気を変えるようにコホンと小さな咳払いをした。 「落ち着いたら服を着替えてきなさい。朝食にしよう」

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