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06 謁見

   あっという間に月日が過ぎていく。気が付けば、ニアが過去に戻ってきてから半年の月日が流れ去っていた。そうして、とうとう運命のブロッサムバンケットの日が訪れていた。 『今日を上手にすり抜けられるかどうかに、今後の人生すべてがかかっている』  そう自身に言い聞かせるように思いながら、ニアは鏡に映る自分の姿を見つめた。  髪はキッチリと整えられ、髪と同色のスリーピースのスーツを身にまとっている。ジャケット内側のベストと、首元に結ばれたリボンは深紅色をしていた。まるで乾いた血の色みたいだなと思うと、過去を思い出してぞっと皮膚が粟立つ。  指先でリボンを緩めようとすると、途端とがめる声が聞こえた。 「ニア、リボンに触らないで。そろそろ私たちの順番よ」  浅緑色のドレスを着た母が、ニアの手首にそっと手を置いて小声で囁く。その声に、ニアは手を下ろしながら潜めた声を返した。 「ごめん、少し息苦しくて」 「結びがキツかったのかしら。謁見が終わるまで我慢しなさいね」  なだめるように手の甲を撫でられて、ニアは小さくうなずいた。  視線を上げると、広々とした応接室が見えた。室内には十人は座れそうなソファやテーブルが置かれており、壁には絵画がギッシリと飾られている。この部屋で待機する貴族に向けて、暇潰しの鑑賞用として飾られているのだろう。  だが――視線をちらりと横に向けると、ガチガチに身体を強張らせた父の姿が見えた。この様子では鑑賞などしている余裕はなさそうだ、と思う。王への謁見は毎年のことだというのに、父は毎回初めてのように緊張していた。  直立不動のまま動かない父から視線を逸らして、その隣を見やる。  ダイアナは鮮やかな真紅のドレスを着て、胸を張って立っていた。ドレスの胸元には金糸で大輪の薔薇の刺繍が縫い込まれており、スカートは繊細なレースが重ねられてふんわりと膨らんでいる。それはギリギリ数日前に出来上がったばかりのドレスだった。  無闇に甘やかさないと宣言したものの、不満を漏らしつつも毎日トレーニングを続けるダイアナへのご褒美として、ニアが購入したものだった。  ドレスを渡したとき、ダイアナは土だらけの顔をパッと輝かせて、ニアに抱きついてきた。 「お兄さま、だいすきっ!」  ダイアナに大好きと言われるのは、過去に戻ってからは初めてだった。毎日のように「鬼!」「悪魔!」「ペテン師ぃ!」と罵られていたからこそ、その大好きという言葉は身に染みた。ちょっと泣きそうになったほどだ。  真紅のドレスを着たダイアナは、薔薇の化身のように美しかった。目立っては欲しくないものの、周りから「美しいお嬢さんだ」とダイアナが褒められる度に、ニアまで誇らしくなった。  視線に気付いたのか、ダイアナがニアを見上げて、ニヤッと得意げな笑みを浮かべる。 「あら、私に見とれていらっしゃるの?」  どこか演技がかったダイアナの声に、ニアは咽喉の奥で笑い声を漏らした。 「そうだな。ドレス、とても似合ってるよ」 「こんな美しいレディがいるのに、ドレスの方を褒めるなんて野暮(やぼ)な人ね」  機嫌をそこねたように、ダイアナが金色の巻き髪を手で首裏に払いのけながら言う。 「これは失礼。素敵なドレスが似合う、美しいレディ」 「せ・か・い・い・ち」 「世界一、美しいレディ」  誘導されるまま言い直すと、ダイアナは機嫌を直したように口元ににんまりと笑みを浮かべた。その笑顔はやはり十一歳の少女らしく、幼くて愛らしい。  その無邪気な笑顔を見ていると、心臓の奥深い部分がじりじりと焦げ付くように痛むのを感じた。絶対にこの笑顔を失いたくないという気持ちを再認識して、拳に力が篭もる。 「ダイアナ、今日は絶対に俺の傍から離れるんじゃないぞ」  小さな声で言い聞かせると、ダイアナは途端うんざりとした表情になった。 「それ何回言うのぉ?」 「一人で歩き回ってたら、変な男にちょっかいかけられるかもしれないだろう。お前が『わかった』って言うまで百回でも一万回でも繰り返すぞ」 「お兄さまは、ちょっと過保護すぎるわ」  ダイアナが不貞腐れたように唇を尖らせる。だが、ニアが無言のまま見据えていると、拗ねた声で呟いた。 「わかった、ってば」 「宜しい」  そう答えて、ダイアナの肩を軽く叩く。だが、ダイアナは膨れっ面のままだ。  直後、応接室の扉が叩かれる音が聞こえた。すぐさま開かれた扉から、城の従者が顔を覗かせる。 「ブラウン伯爵家様、どうぞ大広間へお越しください」  案内するように従者が先立って歩き出す。その後ろを、父がギクシャクとした動きでついていく。右手と右足が同時に出ている父を不安げに見やりながら、ニアも足を踏み出した。  深緑色の絨毯が敷かれた大広間に入ると、視線のまっすぐ先に大階段が見えた。大階段の上には黄金色の玉座が置かれており、そこには王が腰を下ろしていた。  王は確かまだ四十代中頃だったはずだが、歳不相応に真っ白な髪をしていた。鼻下や顎に生やされたヒゲも白い。目付きは鋭く、薄い唇は硬く引き結ばれていた。威厳があるとも、威圧的ともとれる雰囲気だ。  王の左右には、王妃と王子がそれぞれ立っていた。  王の右側に立つ王妃は、淡いミルクティー色の髪をゆるやかな一本のお下げに結っている。女性にしては長身で、柳のように細くたおやかな骨格をしていた。まるで幼い子供でも眺めるような、柔らかな笑みを讃えてこちらを見つめている。  現王妃は、元々は数多くいる寵妃(ちょうひ)の一人だったはずだ。だが、第一王子を産んだ後に当時の王妃が病気で亡くなって、寵妃から王妃に格上げされたと聞いたことがある。第二王子も生まれているはずだが、生まれつき身体が弱いと聞いた覚えがあるから、この場にはいないのかもしれない。  王の左側には、両腕を後ろに組んだ第一王子が立っていた。その姿を視界に映した瞬間、心臓がドクリと跳ねて、ニアはとっさに視線を伏せた。イヤな感じで心臓が脈打って、呼吸が上手くできなくなる。  十三歳になったばかりの第一王子の姿が、そこにあった。白い礼服を身にまとい、深い青色の瞳でこちらを見下ろしている。処刑台からニアたちを見ていたときと同じ、冷たく無感情な眼差しで。  これは、前の人生で見たのと同じ光景のはずだ。それなのに、今は全身が凍えそうなくらい恐ろしくて堪らなかった。目の前に、自分を殺した人間がいる。  カチカチと鳴りそうになる歯を、必死に噛み締める。じっとりと汗を滲ませた手のひらを痛いくらい握り締めて、ニアはただ足下だけを見て足を進めた。  階段から数メートル離れた位置で、家族とともに膝をついて顔を伏せる。 「名乗れ」  王の低い声が響く。その命令に、はっ、と父が声をあげた。 「ライアン・ブラウン、王の元へ参りました」 「エヴァ・ブラウン、王の元へ参りました」  淀みなく続けられる両親の挨拶を聞いて、強張った唇を無理やり動かす。 「ニア・ブラウン、王の元へ参りました」 「ダイアナ・ブラウン、王の元へ参りました」  全員の挨拶が終わると、わずかな沈黙の後、王の声が聞こえた。 「立って、顔をあげよ」  立ち上がって、ゆっくりと顔を上げる。まっすぐ玉座を見上げると、王がわずかに和んだ眼差しで父を眺めていた。 「ブラウン伯爵、家族ともども健勝だったか」 「はい、我が王。勿論でございます」 「子供たちも大きくなったな。ああ、娘はずいぶんと美しく育った。まるで花の妖精のようだ」  厳格な見た目にそぐわず、その声には親愛が滲んでいた。この会話には覚えがある。前の人生では『顔は怖いけど、王様って意外と親しみやすい人なんだな』とのんきに思った覚えがある。  王に褒められたダイアナが、むふーっと鼻から大きく息を吐いて、スカートを摘んで深く会釈をする。その頬は、淡い桃色に染まっていた。  ダイアナの動作を微笑ましそうに眺めてから、王は懐かしむような声を漏らした。 「伯爵が大斧を振るう姿も、まさしくこの国の象徴のような力強く、美しい姿だった。その姿をまた見たいものだ」  王の言葉に、感動のあまり声を詰まらせながら父が答える。 「有り難いお言葉です。ですが、私の大斧は息子に譲り渡しました」  父が手のひらでニアを示す。その仕草を見て、とっさにニアは左拳を右胸に押し当てて唇を開いた。 「ブラウン家・長子のニアです。私が大斧を継承しました」  硬い声で発言すると、王は鷹揚な眼差しでニアを見下ろした。数秒ニアの体躯を見つめてから、問い掛けてくる。 「騎士団に入るのか?」 「はい。十八になりましたら」 「今はいくつだ」 「十六歳です」  噛まないように気を付けながら、即座に返答する。すると、王は満足げにうなずいた。 「見所があるようであれば、特例で入団を早めてもよい。ハイランド公爵の息子は、二年前の十六歳のときに入団試験に受かったはずだ。今は騎士団で鍛錬を積みながら、王子の付き人も任せている。確か名は――」  王が第一王子の方へと視線を向ける。すると、第一王子が無表情のまま唇だけ動かした。 「ヘンリーです」  温度を感じない、抑揚のない声だ。息子の冷めた声を気にする様子もなく、王が和やかな声で続ける。 「そうだ、ヘンリー・ハイランド。あれも父親に負けず劣らずの双剣使いだ。そういえば父親のハリー・ハイランドは、ブラウン伯爵とは騎士団の同期だったな」  確かめるような王の言葉に、父はかすかに頬を引き攣らせた。王が首をねじるようにして、背後のカーテンの方を見やる。 「なぁ、ハリー。旧友と会えて、お前も懐かしいだろう」  王がそう声をかけると、カーテンの後ろから長身の男がのっそりと姿を現した。  男は金色の甲冑を身にまとい、両腰にそれぞれ剣を吊り下げている。金色の長い髪を後ろで一本で括っており、斜めに吊り上がった細い目をしていた。手足が長く、どこか大蛇のような印象を受ける。  それはハイランド公爵の現当主であり、父が焦がれてやまなかったロードナイトの座につく男、ハリー・ハイランドだった。ロードナイトは王の専属騎士だから、今日も隠れて警護をしていたのだろう。  ハイランドは父をちらりと流し目で見やると、平坦な声をあげた。 「久しぶりだな、ライアン」 「ああ、そうだな。ハリー」  憎々しげな声で父が答えると、ハイランドは口角をねじるようにして笑った。その笑みから滲むのは、紛れもない嘲りだ。  睨み合う父とハイランドを交互に眺めて、王は朗らかに肩を揺らした。 「楽しみだな。お前たちの息子のどちらが次のロードナイトに選ばれるのか」  王の発言を聞いた瞬間、父とハイランド公爵の視線が一斉にニアに向けられた。父からは『何がなんでもお前が選ばれろ』という圧力と、ハイランド公爵からは『お前如きが選ばれるものか』という侮蔑を感じる。  二人の眼差しを受けながら、ニアはとっさに王を見上げた。王はゆったりとした笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。まるで飼育小屋の動物でも眺めているような、のどかな表情だ。  その笑みを見て、ニアは『この王は食えない人だ』と腹の内で考えた。過去に戻る前の自分は気付けなかったが、二十年以上生きた記憶がある今なら解る。  目の前の王は、悪意がないように振る舞いながら、貴族同士を牽制し合うように仕向けている。貴族同士が連携して、万が一にでも王の地位を脅かさないように、力のバランスを取っているのだ。この年一回の謁見は、貴族たちに『お前たちは王の掌の上にいる』ということを解らせるための舞台か。  王のしたたかさにかすかな寒気を覚えていると、王がニアに訊ねてきた。 「お前は、ロードナイトになりたいか?」  その問い掛けに、ニアはわずかに咽喉を上下させた。  前の人生では、この挑発にどう答えただろうか。「自分はまだ実力不足です」だとか「まさか、恐れ多いです」と上擦った声で答えた気がする。  だが、他愛もない玩具でも眺めているような王の視線を見ていると、体内がじわりと熱くなるのを感じた。鉄をゆっくりと溶かすような青い炎が、腹の底でじりじりと燃え始めている。込み上げてきた熱に操られるようにして、唇が勝手に動いた。 「私は、この国にとって『決して失うことのできない人材』になりたいと望んでおります」  その言葉は、ニアの本音だった。  処刑されるまで、あと七年。あと七年の間に、ニア自身がこの国にとって『殺すには惜しい存在』になる必要があった。そのためには、地位を固め、味方を作り、発言権を持たなくてはならない。だから、今ここで臆するわけにはいかない。  ニアの返答が意外だったのか、王がパチリと大きく目を瞬かせる。だが、すぐさま満足そうに笑みを浮かべた。 「ブラウン家の長男は『堅実で大人しい少年』だと聞いていたが、存外に野心家か?」  ニアの情報も事前に仕入れていたのか。やはり恐ろしい人だ。  ニアは頭を下げると、淡々とした口調で告げた。 「いいえ、私が望んでいるのは平和と安寧だけです」  直後、短い沈黙が流れた。だが、すぐさま頭上からハッハッと高らかな笑い声が聞こえてくる。楽しげに笑いながら、王がニアへと声をかけてきた。 「私も平和を望んでいる。だが、お前も解っているだろう? 平和を守るためには力が必要だ。圧倒的な力だけが、揺らぐことのない平和を生み出すのだと」 「はい、承知しております。だから、戦うのです」  即座に答えると、王は確かめるようにニアを見つめた。その瞳を、逸らすことなく見返す。すると、王は深くうなずいた。  王が両手をパンッと打ち鳴らす。すると、ニアたちが入ってきた後方の大広間扉が開かれた。謁見終了の合図だ。 「前途有望な若者がいることは素晴らしいことだ。みな、今後とも我がエルデン王国のために尽くしてくれ」  王の言葉に、父が、はっ、と声をあげる。それを合図に家族全員で拝礼する。  顔を上げて最後に玉座の方を見やったとき、ニアは思わず息を呑んだ。第一王子が、ニアを凝視している。先ほどまでの無機質な視線とは違う、場にそぐわない異物を見つけたような冷徹な眼差しだった。  その射るような視線に、顔が歪みそうになる。臓腑が震えるような感覚を覚えて、ニアは反射的に第一王子から視線を逸らした。 「ニア」  母の声が聞こえて、慌てて玉座に背を向けて歩き出す。だが、扉が閉まる瞬間まで、背中にあの視線が突き刺さっているような気がして、息ができなかった。

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