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10 ひとめぼれ

   ガラス張りの温室の中は、中庭よりも濃い花の匂いで満ちていた。広々とした温室内は、一列ずつ花びらの色が違う薔薇が植えられており、まるで迷路のようにも見える。  ランプは吊されておらず、温室内を照らすのは月明かりだけだ。射し込む月明かりが、しっとりと濡れた薔薇の花びらを照らしているのがより美しく見えた。  眩暈が起こりそうなほど芳(かぐわ)しい香りの中、ニアは温室内を見渡した。だが、薔薇の中に紛れてしまったのかダイアナの姿は見つからない。 「ダイアナ」  小さな声で囁きかけるが、応える声は聞こえない。身体を屈めて、植え込みの陰に隠れるようにして温室の中をゆっくりと進んでいく。 「ダイアナ、どこにいるんだ」  そう声をあげる間も、心臓がドクドクと大きく脈打っていた。 ――まさか、もう第一王子に出会ってしまったのか?  嫌な予感に、じわりと舌の上に苦い唾液が滲む。  咽喉を鈍く上下させたとき、不意に視界の先で黒い影が動くのが見えた。ダイアナかと思って、一瞬ほっと息が漏れそうになる。だが、月明かりに照らされたその姿を見た瞬間、ニアは呼吸を止めた。  数メートルほど離れた先に、第一王子の姿があった。第一王子はこちらに気付いていない様子で、青薔薇をじっと見つめている。柔らかな花弁に触れる指先はひどく繊細で優しいが、その眼差しはやはり置物でも眺めるような無機質なものだった。  その姿を見た途端に、身体が硬直して動かなくなった。薔薇の陰に隠れたまま、第一王子に気付かれないように必死で息を殺す。  早く動かなくては。ダイアナを見つけて、ここから出なくては。でないと、また―― 『処刑執行』  耳の内側で、あの冷酷な声がよみがえる。途端、血の気が引いて、全身がガクガクと情けなく震えそうになった。震えている場合ではないと解っているのに、恐怖にすくんで身体が動かない。  ニアが地面にうずくまりそうになったとき、不意に遠くから破裂するような音が聞こえてきた。反射的に振り仰ぐと、温室のガラス越しに夜空に花火が打ち上がっているのが視界に入る。  暗い空を鮮やかに彩る花火に、一瞬目を奪われる。だが、視線を正面へ戻した瞬間、ニアは悲鳴を上げそうになった。  第一王子の後方十メートルほど先に、ダイアナの姿が見えた。ダイアナも第一王子も花火を見上げており、まだ互いの姿には気付いていない様子だ。だが、視線を下ろせば、すぐに互いの姿が目に入ってしまうだろう。 ――どうすればいい。どうすれば……  花火の音に頭の中がめちゃくちゃに掻き回されて、上手く思考が回らない。両手で頭を抱えたまま、ニアは鈍いうめき声を漏らした。  だが、情け容赦なく、花火の最後の一発が終わってしまう。その音が消えた瞬間、第一王子とダイアナがゆっくりと顔を下ろすのが見えた。二人の視線が交わってしまう直前、ニアは勢いよく立ち上がった。  どんなことをしてでも、第一王子の気を逸らさなくては。確か、第一王子の名は―― 「フィルバート様!」  場違いなぐらい大きなニアの声に、第一王子――フィルバートは、怪訝そうな眼差しをこちらへと向けた。どうやら背後にいるダイアナには気付いていない様子だ。  フィルバートの青い瞳が、ニアをじっと見つめている。その冷え切った眼差しを見ていると、不意に自身の眼球が燃えるように熱くなるのを感じた。身体の奥底から耐え難い衝動がわき上がってきて、握り締めた拳に痛いぐらい力が篭もる。  ここまで近い距離で、第一王子と顔を合わせたのは初めてだ。近くで見ると、その完成された容姿により驚かされた。まるで神が手ずから作り上げたように、顔のパーツが完璧な位置に配置されている。その完成された冷たい美貌は、どこか他人を突き放すような神々しさすら感じさせた。  青い瞳に見据えられて、心臓が破裂しそうなぐらい激しく脈動していた。頭は熱くて堪らないのに、首から下は氷のように冷たい。それなのに、皮膚からじっとりと汗が滲み出してくる。 「何だ、ニア・ブラウン」  フィルバートの口から自分の名前が出たことに、ニアは驚いた。まさか一貴族の息子の名前まで覚えているとは思ってもいなかった。  とっさに手を胸に当てて敬礼の姿勢を返しながら、ニアは上擦った声をあげた。 「突然声をかけてしまい申し訳ございません」 「それは構わん。ヘンリーはどうした」  誰も入れるなと言っていたはずだが。と呟きながら、フィルバートが温室の扉の方へと視線を向ける。その仕草を見て、ニアはとっさに言葉を偽ることも忘れて答えていた。 「気絶させました」 「気絶?」 「はい、首を、絞めて……」  自分がものすごくまずいことを言っていることに気が付いて、サーッと体温が下がっていく。もしかしなくても、第一王子の付き人を気絶させたというのは、非常にまずいことではなかろうか。  ニアの尻すぼみな返答に、フィルバートは驚いたように目を瞬かせた。 「ヘンリーの首を絞めて気絶させたのか?」  確かめるように、フィルバートが懇切丁寧に繰り返す。その言葉に誤魔化すこともできず、ニアは小さくうなずいた。  うつむいたまま、まずいまずいと頭の中で繰り返す。混乱していたとはいえ、なにを馬鹿正直に答えてしまっているのか。せめて、ヘンリーが突然すっ転んで倒れたとか言っておけばよかったものを。  頭の中で自分自身を罵倒していると、不意に押し殺したような笑い声が聞こえてきた。視線を上げると、フィルバートがかすかに肩を震わせて笑っているのが見えた。  子供の悪戯でも聞いたような楽しげな笑みに、ニアは思わずぽかんと口を開いた。フィルバートが笑い声混じりに訊ねてくる。 「何のためにだ?」 「え?」 「ヘンリーを気絶させてまで、俺に声をかけた理由は?」  それは咎める口調ではなかった。むしろ面白がっているようにすら聞こえる。  理由を訊ねられて、ニアは身体を硬直させた。貴方を妹に会わせないためです、なんて本当の理由は言えるわけがない。なら、どう言い訳をすればいいのか。  思考をぐちゃぐちゃにもつれさせながら考えていると、不意に前の人生でダイアナが言っていた言葉が脳裏を過ぎった。 『目があった瞬間にこの人が運命の相手だって解ったわ!』  それはダイアナがフィルバートに一目惚れしたときに話していたことだ。思い出した瞬間、唇が無意識に動いていた。 「ひとめぼれ」  ぽつりと独り言みたいに言葉が零れ落ちる。フィルバートは訝しげに目を細めて、首を傾げた。 「ひとめぼれ?」  フィルバートの口から繰り返された言葉に、ニアはハッと息を呑んだ。自分の失言に、また脳内がパニックになってしまう。  思い浮かんだことをそのまま口に出してしまうなんて自分は馬鹿じゃないのか。しかも、よりにもよって言ったのが『一目惚れ』という言葉なんて……。  だが、いくら後悔しても一度吐き出した言葉はもう戻ってこない。それならば、無茶苦茶だろうがこのまま強引に突き進むしかない。  腹を括ると、ニアはほとんどヤケクソのように叫んだ。 「フィルバート様にっ、一目惚れしたからですっ!」  音程がめちゃくちゃな、ひどく調子っ外れな声だった。まるで気がおかしくなった鳥の叫び声みたいだと自分でも思った。  唐突なニアの告白に、フィルバートが目を丸くしている。前の人生でも見たことがない、呆気に取られた表情だった。  更に最悪なことに、フィルバートの十メートルほど後ろに、口元に両手をあてたダイアナの姿も見えた。無骨な兄の告白劇を見て、その目はあからさまな好奇心に輝いている。驚いた表情でニアを見つめた後、ダイアナはスススッと植え込みの陰に隠れてしまった。  まさか妹にこんなトンチンカンな姿を見られてしまうとは、と思うと、顔がカーッと一気に熱くなった。 「ひっ、ひとめぼれ、と言っても、あの、少々語弊がありまして……その、フィルバート様のお顔……いえ、お人柄というか……高貴なたたずまいに、好意を抱いたっ、と言いますか……」  ああ、もう何を言っても失言にしかならない。  何とか挽回できないかとニアがわたわたと言葉を重ねていると、不意に高らかな笑い声が響いた。目を見開いて見やると、フィルバートが両手で腹を抱えて笑っていた。その冷淡な顔立ちからは想像もできないほど、溌剌とした笑い声だった。  ニアが唇を半開きにしたまま硬直していると、ようやく笑いを止めたフィルバートが口を開いた。笑いすぎたせいか、目尻に浮かんだ涙を指先で拭っている。 「そうか。つまり、俺に惚れたと言いたいのか」 「いえ、はい、いえ……その、つまり……」  ぐだぐだと否定と肯定を繰り返すニアを見て、フィルバートがスッと目を細める。その鋭い眼差しに、ニアは肩を強張らせた。 「『はい』か『いいえ』で答えろ」  退路を塞ぐように言い放たれる。白か黒かはっきりさせろと言わんばかりのフィルバートの口調に、ニアは咽喉を小さく上下させてから答えた。 「はい」  ニアの返答を聞くと、フィルバートは満足そうに微笑んだ。まるで雪が溶けて春の新芽が覗くような柔らかな笑みに、ニアは一瞬見惚れた。だが、すぐさま正気に戻って、首をぶんぶんと左右に振る。  油断してはいけない。この人は、七年後に現れる聖女を愛し、その聖女を傷つけた者を家族ごと処刑するような冷酷非情な人間だ。だから、決して目の前の王子に気を許してはいけない。  うつむいたまま唇を噛んでいると、胸元にスッと近付いてくる手が見えた。慌てて顔を上げると、手が触れる距離にフィルバートが立っていた。足音がまったく聞こえなかったが、いつのまに近付いたのか。  ニアの左胸に、フィルバートの掌が無造作に押し付けられる。その無遠慮な手付きに、ニアは思わず後ずさりそうになった。 「心臓がうるさいな」  確かめるようにフィルバートが呟く。顔を強張らせるニアを、頭一つ分低いところからフィルバートが見上げてくる。月明かりに照らされて鮮やかに輝く碧眼が、まるで囚(とら)えるようにニアの瞳を見据えていた。 「お前の目」 「……目、ですか?」 「気付いてないのか?」  面白がるようにフィルバートが、片頬を歪める。先ほどまでは感情のない機械のようだと思っていたが、こうやって対峙すると存外に人間らしい表情を浮かべるのだなと思った。 「俺を呼んだときのお前の目は、恋しい相手というよりも、殺してやりたくて堪らない相手を見ているようだった」  その指摘に、ニアは息を呑んだ。恐怖で顔が引き攣りそうになるのを堪えて、無理やり唇に笑みを浮かべる。 「それは……フィルバート様への想いの強さの現れでしょうか」 「面白い戯れ言を言うものだな。ニア・ブラウンは斧を振るうだけでなく、軽口まで得意か?」  フィルバートが、戯れるようにニアの胸を拳でドンと叩いてくる。十三歳の少年のものとは思えない強い力に、ニアは一瞬咳き込みそうになった。  ニアが息を詰めていると、フィルバートはゆっくりと温室内を見渡してから和やかな声で言った。 「俺に惚れてると言うなら、まずは俺を守ってみろ」  それはどういう意味でしょうか、とニアが問い返す前に、温室のガラスが破られる音が鳴り響いた。

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