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18 冷酷王子の愛人
ニアが大きなため息を漏らすと、フィルバートがふと立ち止まった。振り返ったフィルバートが、面白がるような口調で言う。
「番犬という二つ名が嫌なら、こっちの方がいいか――冷酷王子の愛犬」
フィルバートの口から出てきた言葉に、ニアはピキッと身体を硬直させた。固まったニアを見て、フィルバートが唇に弧を描く。
「冷酷非情な王子が唯一手元に置いて可愛がっている愛犬か」
どこか揶揄(やゆ)するような口調で言いながら、フィルバートが緩く首を傾げて続ける。
「一部の下衆(ゲス)な輩は、お前は俺の愛人だと噂しているらしいぞ」
「あっ……あいじっ……!?」
ニアが素っ頓狂な声を出すと、フィルバートは不意に相好(そうごう)を崩して、ははっ、と声をあげて笑った。その屈託のない笑い声に、騎士たちが驚いた様子でフィルバートを凝視している。フィルバートの柔らかな表情を見て、ニアは沸騰するように顔が熱くなるのを感じた。
ニアがフィルバートのお気に入りというのは、すでに公然の事実だった。だが、まさか愛人とまで噂されているとは知らなかった。
しかし、それもやっぱりフィルバートのせいな気がする。フィルバートは冷酷王子の呼び名に相応しく、普段は凍り付いたような無表情をしている。だが、ニアを前にしたときだけ、花が綻ぶような柔らかな笑みを浮かべるのだ。それは雪解けの下から純白の花が現れたような、神秘的な美しさがあった。
自分だけに向けられるフィルバートの表情を見る度に、ニアは心臓が打ち震えるような感覚を覚える。そしてその直後に、フィルバートの笑顔に見惚れてしまう自分を、無性にひっぱたきたくなるのだ。
顔が緩まないように唇を思いっきりへし曲げるニアを見て、フィルバートが咽喉の奥で小さく笑い声を漏らす。その左腕が当たり前のようにニアの腰に回された。グッと腰骨を掴んでくる手のひらの感触に、ニアは目元を引き攣らせた。
「俺の愛人は不服か?」
深い青色の瞳が、至近距離でニアの瞳を覗き込んでくる。あまりにも近すぎる距離に、ニアは上擦った声をあげた。
「ですから、こういう冗談はよしてください」
早口で言い返しながら、失礼にならない程度に両手でフィルバートの胸を押し返す。
「冗談? お前はこれを冗談だと言うのか? お前の方が、俺に一目惚れしたと言ったのに」
「だから、それは誤解だと何回も説明したじゃないですかっ」
四年前に温室で、ニアはフィルバートに『一目惚れした』と告げたが、それは言葉のあやだったと何度も説明したはずだ。それなのに、未だにフィルバートは事あるごとに話を蒸し返しては、ニアをからかってくる。
「いい加減、俺を縁談避けの理由に使うのをやめてください!」
ニアがムキになって叫ぶと、フィルバートは口元に人の悪い笑みを浮かべた。
数年前から、フィルバートには婚約の話がいくつも上がっていた。
「早急にしかるべき令嬢を妃を迎えて御子を作り、王家を安定させてください」
そう進言している大臣たちの姿をこれまで何度見たことか。だが、大臣にそう言われると、決まってフィルバートはニアに目配せしてこう答えるのだ。
「今はこの犬を可愛がるので手一杯で、妃と子にまで手が回りそうにない」
明らかに面白がっている声だ。『誤解されるようなこと言わないでください!』とニアは喚きたかったが、その度にフィルバートに横目で射すくめられて何も言えなくなってしまうのだ。
そして、目を白黒させる大臣を見据えて、フィルバートはこう続けた。
「それにお前の目には、妃と子がいなければ俺の足下はグラついているように見えるのか? そんな節穴な目玉は必要か?」
脅しかけるようなフィルバートの問い掛けに、大臣が顎肉をぷるぷると震わせながら首を左右に振る。大臣の額から流れる冷汗を眺めて、フィルバートは満足そうにうなずいた。
そんな光景を目の当たりにする度に、ニアはひどい眩暈を覚えた。何だか自分がどんどんドツボにはまっているような、執念深い蛇に暗く深い穴の奥へと追いやられているような気がして、怖くて堪らなくなる。
前の人生では、十五歳のときにはフィルバートはダイアナと婚約していたはずだ。それなのに今世のフィルバートは婚約するどころか、仲の良い令嬢を作る気配もない。たとえ婚約したとしても、あと三年後には聖女が現れて、どうせ婚約破棄になるだろうからいない方がいいのだろうが――
腰を強く抱くフィルバートを、ニアはじっと見つめた。その和らいだ表情を見て、ぼんやりと考える。
――フィルバートは、三年後に現れた聖女に一瞬で心を奪われる。今はニアに向けられているこの表情も、きっといつかは聖女だけのものになってしまうのだ。
そう思うと、無意識に唇が動いた。
「貴方はいつか妃をお迎えしなくてはいけないんですよ。そのときに俺みたいな男が愛人だったという噂が残っていたら、妃となる御方に失礼じゃないですか」
ニアが諭すように告げると、フィルバートは浮かんでいた笑みを一瞬で消した。感情が凍り付いた瞳が、ニアを見据えてくる。その無機質な眼差しに、ニアは思わず身体を強張らせた。
ニアの腰からするりと腕を外すと、フィルバートは冷淡な声で言い放った。
「ニア・ブラウン」
「はい」
「余計なことを言うな」
「申し訳ございませんでした」
ニアが頭を垂れると、フィルバートは無言で自身の右手を差し出した。その手を両手で捧げ持つと、ニアは薬指にはめられた指輪に唇を落とした。指輪の冷たい感触に、唇が小さく震えそうになる。
これも、いつものやり取りだ。フィルバートはニアに忠誠を思い出させるように、時折指輪に口付けさせる。その度に、ニアはフィルバートに永遠に縛られていることを再認識して、息が苦しくなる。今世でも、結局ニアの命はフィルバートの手のひらの上だ。一歩でも足を踏み外せば、簡単に握り潰されてしまう。
ゆっくりと顔を上げて、フィルバートを見やる。フィルバートはしばらく無言のままニアを見つめた後、唇を薄く開いた。
「お前は――」
「敵陣に降伏旗があがりました!」
フィルバートが言い掛けた言葉が、自陣からあがった声でかき消される。視線を向けると、土煙と穴ぼこと大量の死体で彩られた敵陣に降伏を示す旗が立てられているのが見えた。
それを見て、フィルバートが短く呟く。
「攻撃を止めろ」
「攻撃やめ!」
自陣に向かって、ニアは声を張り上げた。途端、鳴り響いていた砲撃の音がピタリと止まった。
フィルバートが、第二騎士団の団長を目で呼び寄せる。ニアの直属の上司でもある、四十代のガッシリとした体格の男性だ。前の人生でも、ニアはこの団長の下で働いていた。笑い声が大きく、やや大雑把で豪快過ぎるところはあるが人柄の良い男性だ。
ロードナイトに選ばれた後、ニアは正式に騎士団に入団することになった。訓練などには時折参加するが、基本的にはフィルバートに付きっきりなので騎士団との付き合いは薄い。それでも第二騎士団の団長は、ニアを疎外することもなく、一団員として公平に接してくれるから有り難かった。
第二騎士団の団長が素早く近付いてくると、フィルバートは事務的な口調で言い放った。
「ここの後処理は第二騎士団に任せる。賠償交渉が終わるまでは、捕虜はガラナドの城に幽閉しておけ。怪我を治療し、平等に食料を与えろ。無駄な拷問は決してするな。だが、こちらに害を為(な)す者には容赦をするな。見せしめにしても構わん。責任はすべて私が負う」
フィルバートはもう敵陣へ視線を向けることもなく、近くにいた騎士に馬を用意させた。灰毛の馬に乗ったフィルバートが、ニアに声をかけてくる。
「城に戻るぞ」
「承知いたしました」
答えると、ニアも栗毛の馬に飛び乗った。
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