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35 平凡な願い

   だが、離宮から出るなり、すぐさま甘い気持ちは掻き消された。  小柄な少年が、こちらへと向かって突進してきている。その姿を見て、ニアはとっさにフィルバートを自身の身体の後ろに押しやった。  少年が、まっすぐニアにタックルをかましてくる。その身体を受け止めるのと同時に、ドンッと小さな拳に胸を叩かれた。 「なんでだよッ! なんで母さまを連れていった!」 「ロキ様……」  何度もニアの胸を両手で叩きながら、ロキが大声で叫ぶ。きっと離宮から引きずられていく母親の姿を見たのだろう。その吊り上がった目は涙で潤み、顔は怒りで歪んでいた。  まるで杭でも打ち込むように胸を叩き続けるロキの両肩に、ニアはそっと手を置いた。 「ロキ様、貴方の母親は罪を犯しました。それは償わなくてはならないのです」  なだめる口調で言っても、ロキは納得できないようにブンブンと首を左右に大きく振った。ニアをまっすぐ睨み上げて、ロキが叫ぶ。 「おまえはおれの味方だって言ったのに、裏切りものっ!」  その言葉は、想像以上にニアの心を抉った。ニアに懐いていたロキがここまで言うほど、深く傷付けてしまったのだと思うと、心臓がひび割れたように痛む。  マルグリットは、フィルバートやニアにとっては憎い敵だとしても、ロキにとってはたった一人の母親だ。ロキは、まだ十一歳の子供なのだ。こうなることは解っていた。だが、解っていたとしてもどうしようもなかった。  胸を叩く両手を掴むと、ニアはロキと視線をあわせるようにしゃがみ込んだ。怒りで血走った瞳を見つめて、静かに囁く。 「俺は、ロキ様の味方です」 「うそだッ!」 「嘘じゃありません。俺はロキ様が道を間違えない限り、ずっと貴方の味方です」  そう繰り返すと、吊り上がっていたロキの目尻がくにゃりと下がった。じゃあ、一体誰を憎めばいいんだと問い掛けるような、途方に暮れた表情だった。 「おれから母さまを取っていったくせに……」 「大切な人を失う苦しい気持ちは、よく解ります」 「わかんないだろッ! わかんないくせに、いい加減なこと言うなッ!」 「解りますッ」  思わず強い口調で返していた。呆気に取られたロキを、ニアは苦しげに目を細めて見つめた。 「解りますから……」  目の前で家族を奪われる苦痛と絶望は、痛いくらい知っている。前の人生の出来事とはいえ、断頭台に並べられた家族の姿は一生忘れることはできない。 「貴方は何も悪くない……だから、傷付けてしまったことを心から謝罪します。申し訳ございません」  うめくように呟いて、ロキの小さな身体を抱き締める。ロキは一瞬呆然としていたが、すぐさまジタバタと四肢を振り乱して暴れ出した。だが、ニアがより強く抱き締めると、赤ん坊みたいに声をあげて泣き出した。 「お前なんかだいっきらいだっ!」 「俺は、ロキ様が大好きです」 「バカッ! ニアのバカぁああぁっ!」  もうそれ以外に罵る言葉が思いつかないのか、バカバカと叫びながらロキが泣きじゃくる。震える背中を掌で軽く叩いていると、少しずつロキの泣き声が小さくなってきた。  すると、フィルバートの声が聞こえた。 「ロキ、許せとは言わない」  フィルバートらしい素っ気ない声音だ。  ロキが涙で潤んだ瞳をキッと吊り上げて、フィルバートを睨み付ける。フィルバートはその眼差しを受けたまま、淡々とした口調で続けた。 「大切なものを守りたいなら、お前も戦え」  その言葉に、ロキはより顔を怒りに歪めた。フィルバートを射るように見据えてから、ロキがニアの二の腕をベシッと叩いてくる。  ニアが腕の力を緩めると、ロキはジリジリと後ずさった後、踵を返して走り出した。遠ざかっていく小さな背を見つめていると、フィルバートが嘆息混じりの声をあげた。 「悪かったな」 「何がですか?」 「俺の代わりにロキに殴られただろう」  その言葉に、ニアは苦笑いを浮かべた。 「全然痛くなかったから大丈夫ですよ」 「だが、心は痛んだだろう」 「痛みましたが……それは、どうしようもないことです」  憂いを帯びた声で呟くと、フィルバートは同意を示すように小さくうなずいた。  わずかに押し黙ってから、ニアはフィルバートに切り出した。 「もし良ければ、ロキ様を我が家でお預かりしてもいいでしょうか?」 「ブラウン家にか?」 「はい。しばらくの間、ここはロキ様にとって居心地が良い場所ではなくなるでしょうから……」  マルグリットが罪人として幽閉された今、周りからロキが腫れ物のように扱われることは目に見えていた。もしくは一部の貴族が、マルグリットの代わりにロキを傀儡(かいらい)にしようとする可能性もある。  フィルバートは一瞬考えるように視線を伏せた後、すぐさま言葉を返してきた。 「そうだな。ロキはお前の妹とも仲が良かったし、ブラウン家であれば安全だろう」  あれは仲が良かったと言えるのだろうか。むしろ火と油な関係だったような気もしなくもないが。  曖昧な笑みを浮かべていると、フィルバートはニアの腰裏を軽く叩いてきた。 「まだこれからだ。王妃派閥に入っていた貴族共の裏を探って、全員弱体化させるぞ」 「また国をガラガラポンするつもりですか」  箱でも振るように両手を上下に動かしながら、呆れた口調で返す。すると、フィルバートは口元に底意地の悪そうな笑みを浮かべた。 「楽しみだな、ニア」 「何がですか」 「俺は、必ずこの国にいる人間全員にお前を認めさせるぞ。誰にも決して文句は言わせない」  フィルバートの言葉に、ニアは一瞬唖然と口を開いた。その直後、かすかに頬が熱くなるのを感じた。  フィルバートが言っているのは、おそらくニアとフィルバートの関係を周りに認めさせるということなのだろう。そんなことが実現可能だとは、ニアには未だに思えなかった。だが、それでも堂々と口に出すフィルバートを見ていると、胸に安らぎめいた幸福感が押し寄せてきた。 「恐い王様だ」  茶化すような口調で呟くと、フィルバートは、ふ、ふ、と鼻がかった笑い声を漏らした。 「俺は独裁者になるつもりはない。できるだけ公明正大な国政を心がけ、正しき者が報われる国になるよう努力するつもりだ。だからこそ、たった一つの我が侭ぐらい許されるべきではないか?」 「そのたった一つの我が侭が型破りすぎるんですよ」 「愛する者と結ばれたいというのは、平凡な願いだろう」  当たり前のように『愛する者』と口に出されて、一気に体内が熱くなった。ニアが赤らむ頬を隠そうと手を伸ばすと、その前にフィルバートの指先がニアの左頬に触れた。 「血がついているな」  その言葉に、あぁ、とニアは小さく声を漏らした。先ほどハリーの腕を叩き切ったときに飛び散った血だろう。すでに血は乾いているのか、ぬるついた感触もしない。  ニアの頬を数回撫でてから、フィルバートが呟く。 「湯浴みをしてから、俺の部屋に来い」  念押しするような口調だ。その言葉が意味することが解って、ニアはとっさに身体を硬直させた。目を丸くして凝視していると、フィルバートが薄っすらと唇を吊り上げた。情欲が透けて見える、まるで誘い込むような蠱惑的な微笑みだ。その笑みを見て、耳の先まで燃えるように熱を帯びていく。  固まったニアの耳裏を、フィルバートが指先でくすぐってくる。その淫靡な刺激に、身体がピクリと跳ねた。 「待っている」  そう囁く声に、ニアは顔面を紅潮させたまま、か細い声で「はい」と答えた。

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