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39 蜜月のような日々

   その日、ニアとフィルバートは東部地区で突如起こった干ばつの対応を行っていた。普段は雨が多い土地なのに、雨期に雨がまったく降らず多くの畑が枯れてしまったのだ。 「ニア、南部からの東部への水と食料の輸送はどうなった」 「運輸担当者にすでに依頼済みです」 「先日、土砂崩れで東部への道が塞がれていただろう。到着はいつだ」 「遠回りをして七日後の予定です」 「ギリギリだな。同時に、東部で弱っている者の輸送も開始しろ。輸送した民は、西部に受け入れさせろ。西部が文句を言ってくるようなら、以前河川工事に東部が協力したことを持ち出せ。そのおかげで前年度に起きた豪雨の際に、西部に甚大な被害が出なかったのだからな」 「承知しました。そのように命じます」  互いに目線も合わせず、書類を渡しながら早口で言い合う。目が回るような忙しさの中、積み上がっていく政務をひたすらこなしていく。  三年前にマルグリットを幽閉してから、ますますフィルバートとニアの仕事は山積みになっていた。国の最終決定権を持つ者が、実質フィルバートひとりになってしまったのだから、それも当然かもしれない。  当初は義母とはいえ、母親を塔に閉じ込めるとはあまりにも第一王子は残忍過ぎると責める声もあったが、それらすべてをフィルバートは黙殺した。そうして、これまでマルグリットの陰に隠れて好き放題やってきた貴族たちに対して処罰を与えたり、裏から手を回して没落させたり、利用できそうな者に対しては甘い餌をチラ付かせて味方に引き込んだりした。  一年経つ頃には、フィルバートは全貴族を配下に収め、自身の地位を盤石にした。正しく優秀な者には褒美を与え、嘘偽りを述べて成果を出さない者は即時降格させるという、単純明快かつ容赦のない政(まつりごと)を行っている。おかげでエルデン王国は、以前よりもずっと安定し、民たちも愚かな領主に振り回されることもなく暮らしているように見える。  だが、フィルバートの父親である王は、未だに復帰していなかった。長い間、ユリアナの毒を服用させられていたせいか、あの呪術師から聞き出して作った解毒剤を飲ませても、完全な回復には至れなかったのだ。時折目が覚めることはあるが、自身の意志で立ち上がるまでにはまだ数年は時間が必要というのが医師の見立てだった。  その説明を聞いても、フィルバートは顔色一つ変えなかった。ただしばらく黙り込んだ後、ぽつりとこう呟いた。 「父の唯一の失敗は、あの女の色香に惑って王妃の座につかせたことだ。毒花と見抜けず手元に飾り続けた代償は、身を持って払うしかない」  それは実の父親に向けるものとは思えないほど冷淡だった。  マルグリットは、城内でも一番端にある古びた塔の頂上に、三年経った今でも閉じこめられている。窓一つない暗く湿った塔の中で、マルグリットが何を考えて日々を過ごしているのか、ニアには想像もつかない。  王も王妃もいない城の中、フィルバートは誰の言葉にも揺らぐことなくまっすぐ立ち続け、迷いなく進み続けた。決して誰にも侮られたり、足下をすくわれたりしないよう、ニアも全力を尽くしてフィルバートを支えた。  そうしている内に、流れるように時が過ぎ、三年の月日が経っていた。ニアは、今年で二十三歳になる。前の人生で、処刑された年齢だ。  干ばつ対応の処理が一段落ついたときには、昼をとうに過ぎていた。決裁した書類をトン、トンと机の上で揃えながら、どうりで腹が減ったと上の空で考える。  フィルバートの方に視線をやると、朝から何百枚もの書類を確認し続けていたせいか、疲れたように眉間を揉んでいる姿が見えた。フィルバートの執務机の上には、未だ書類が山積みになっている。 「そろそろ昼食にしますか?」  訊ねると、フィルバートはうつむいていた顔を上げて、ニアを見やった。 「ああ、こっちに来い」  少し気怠さを滲ませた艶っぽい声音に、妙な予感が走って背筋がピクリと跳ねそうになった。椅子から立ち上がって、ゆっくりとフィルバートへと近付いていく。  ニアが傍らに来ると、フィルバートは静かな声で囁いた。 「ニア」  その声に促されるようにして、ゆっくりと床に片膝をついて顔を上げる。すると、すぐさまフィルバートの顔が近付いてきた。  ニアの下顎を優しく掴んで、何度もついばむように柔らかな唇が押し付けられる。その感触に、まどろみにも似た心地よさが込み上げてきて、目がとろりと潤む。  ニアが目蓋を閉じた直後、唇の隙間からぬるりと舌が潜り込んできた。いたわるように舌同士をゆっくりと絡められる。互いの唾液が絡まり合って、舌の間でぺちゃぺちゃと淡い水音を立てているのが隠微に聞こえた。ニアの咥内を散々味わってから、フィルバートの舌がゆっくりと引き抜かれる。  潤んだ目をゆっくりと開くと、フィルバートが緩んだ表情でニアを見下ろしていた。冷酷さなど欠片も感じられない慈愛に満ちた表情に、ニアは何度でも見惚れてしまう。  フィルバートも先日二十歳を迎えた。その美貌は衰えることもなく、ますます輝きを増している。少年らしい危うさは完全に消え、大人としての精悍さがその顔には滲んでいた。骨格もしっかりとして、着痩せはするが、脱ぐとまるで彫像のような完成された体躯が現れる。  目の前の顔にぼんやりと見とれていると、フィルバートが唾液で濡れたニアの下唇を親指の腹でなぞりながら呟いた。 「このままだと別のものが食いたくなるな」  そう囁く声音にわずかに情欲が滲んでいるのを感じて、ニアはハッとして手の甲で口元を押さえた。そのまま上擦った声で言う。 「ひ、昼間から、やめてください」 「夜ならいいのか?」  意地悪く訊ねてくる声に、じわじわと顔に血がのぼっていくのを感じる。逃げようとして立ち上がると、すぐさまフィルバートの両腕がニアの腰に回された。グッと引き寄せてくる両腕の強さに、ニアは突っぱねるようにフィルバートの両肩に手を置いた。 「きっ、昨日もしたじゃないですかっ」 「俺は毎晩でもしたいが」 「俺の腰が死にますっ!」  素っ頓狂な声で叫び返すと、フィルバートはニアの下腹に頬を当てたまま笑い声を漏らした。その甘ったるい笑い声にますます身体が熱くなって、ニアはへにょりと眉尻を下げた。  フィルバートと心を通じ合わせてからもう三年経つというのに、ずっと蜜月のような日々が続いている。流石に一年も経てば飽きられるだろうと怯えていたのに、予想を裏切ってフィルバートからニアへの寵愛は増していくばかりだ。  氷のような冷たい顔立ちに反して、フィルバートの愛情表現は熱烈かつ単純明快だった。毎晩のようにニアを抱いて眠り、ベタベタとくっつこうとしてくる。特にフィルバートはキスが好きなのか、わずかでも隙があればニアに口付けてきた。仕事中は主君と従者という厳格でドライな関係なのに、そこから外れると一転して恋人として甘えてくる。そのギャップに、三年経っても慣れることなくニアは振り回され続けている。  顔を真っ赤にしたニアを見上げて、フィルバートが口角をニヤリと吊り上げる。 「食うのは夜まで我慢するから、ニア、もう一度」  そう言って、顔を上に向けてくる。望みが叶えられるまでは一歩も引かない、と言うような様子だ。それに根負けして、ニアは真っ赤になったままゆっくりとフィルバートに顔を近付けた。  だが、唇が重なる直前、冷め切った声が聞こえてきた。 「恐れ入りますが、睦み合いでしたら私室でやって頂けませんか?」  その声に、バッと勢いよく顔を向けると、扉の前に呆れた顔をしたクロエが立っていた。クロエの姿を見た瞬間、混乱と羞恥が同時に込み上げてきて、目がぐるぐると回りそうになる。 「ぅ、ぇあ、クッ、クロエさん?」  完全に舌がもつれた声をあげるニアを見て、クロエが哀れむように首を小さく左右に振る。 「何度も扉をノックしたのですが……まぁ、そちらの方はお気づきのようでしたけどね」  申し訳なさそうな口調で言った後、クロエはフィルバートをチラと見やって寒々とした声をあげた。相変わらずニアの腰を両腕で抱いたまま、フィルバートがうんざりとした声を返す。 「俺は『入っていい』とは答えてないが」 「お客様を待たせておりますから急いでいたんです」  悪びれる様子もなくクロエが答える。その返答に、フィルバートがわずかに眉を跳ねさせた。 「客?」 「はい。ダイアナ・ブラウン様です」 「ダイアナ?」  クロエの口から出された名前に、ニアは思わず驚きの声をあげた。  ダイアナが登城するなんて珍しいことだ。なにか家で問題でも起きたのだろうか。  フィルバートの腕をペイッと外して、ニアはクロエへと足早に近付いた。途端、フィルバートがムスッとした表情を浮かべるのが視界の端に映ったが、とりあえず今は無視しておく。 「ダイアナが城に来てるんですか?」 「はい。今は庭園でフィルバート様とニア様をお待ちです」 「え、フィル様もですか?」  ますます珍しい。ダイアナがニアだけでなく、フィルバートにまで謁見を申し入れるなんて。  ニアが目を瞬かせていると、クロエが訊ねてきた。 「宜しければ、皆様で昼食をお取りになられますか?」  甲斐甲斐しいクロエの申し出に、ニアはパッと笑みを浮かべた。 「そうして頂けると有り難いです」 「承知いたしました。すぐに準備いたします」  そう言って、クロエが足早に部屋から出て行く。クロエの姿が見えなくなると、背後から不機嫌そうなフィルバートの声が聞こえた。 「お前は相変わらず妹第一だな」 「それは、ダイアナはたった一人の妹ですから」 「たった一人の恋人は大事にしないのか?」  不貞腐れたフィルバートの口調に、思わず笑いが込み上げてくる。 「何を言ってるんですか。大事ですよ」 「どれぐらいだ」 「もちろん、命よりもです」  当たり前のように答えると、ようやくフィルバートは機嫌を直したようだった。口元に薄く笑みを浮かべて、フィルバートが椅子から立ち上がって近付いてくる。そのまま流れるようにニアの腰に腕を回すと、唇に軽く口付けてきた。  唇を離すと、フィルバートは小さな声で囁いた。 「お前の言葉は、いつも俺を天に昇る気持ちにさせてくれる」  褒めるように言って、フィルバートがニアの腰裏を軽く叩いてくる。ニアは口元を緩めると、誇らしげな声で答えた。 「それは、光栄です」 「光栄なだけか?」 「ものすごく、とっても、非常に、丸一日跳ね回りたいぐらい光栄で堪らなくて――フィル様が喜んでくださると、俺も嬉しくなります」  冗談めかして付け加えた後に、ぽつりと子供みたいな言葉を付け加える。すると、フィルバートは目を細めて笑った。その笑みを見て、また胸の内側を押し広げるように温かな幸福感が広がっていくのを感じた

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