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43 ニアの酒癖
ブロッサムバンケットの夜、会場となった庭園には例年と同じくざわめきで溢れていた。
食べ物やアルコール、そして咲き乱れる花の匂いをゆっくりと吸い込みながら、ニアは三階のバルコニーから庭園を見下ろした。いくつものランプで淡く照らされた中庭で、多くの貴族たちが語らっているのが見える。みな先ほどの謁見の緊張から解放されたように、アルコール片手に楽しげな様子だった。
その貴族たちの警護のために、庭園の至るところには騎士団の面々が散らばっている。ダイアナも植え込みの前に立って、周囲を警戒するように眺めていた。腰に剣をたずさえ、騎士団の隊服を隙なく着こなすダイアナの凛々しい姿を見て、貴族令息だけでなく令嬢までうっとりとした眼差しを向けている。
「下は問題ないか」
ふと背後から声が聞こえてきて、ニアは肩越しに振り返った。バルコニーに置いた丸テーブルの前に座って、白ワインのグラスを揺らしているフィルバートが見える。
「ええ、特に問題ありません」
そう答えると、フィルバートはわずかに首肯して、白ワインを一口飲んだ。
「今年も良い出来だな。お前の父は腕が良い」
「フィル様のお言葉を聞いたら、父も喜びます」
ワイン作りは父の道楽で始めた事業だが、もしかしたら全事業の中で一番好評かもしれない。貴族たちの中でも味が良いと評判になっているし、最近は他国に向けて輸出もしようかという話にもなっていた。
「確かワインの名は『マイロード(私の君主)』か」
小さく笑いながら、フィルバートが呟く。その言葉に、ニアはかすかに頬が熱くなるのを感じた。父が考えたワイン名だが、何だかニアのフィルバートへの気持ちを見透かされているような気がして妙に気恥ずかしくなる。実際、ワインが完成したときに父が一番に上納したのもフィルバートだ。
ワインをもう一口飲んでから、フィルバートが緩く首を傾げてくる。
「お前も飲んでみるか?」
「俺が下戸(げこ)なことはご存知ですよね?」
「ああ、もちろん。酒癖が悪夢のように悪いこともな」
面白がるようにフィルバートが咽喉の奥で笑い声を漏らす。面白がるような笑い声にニアは唇をへし曲げると、困惑した声をあげた。
「そんなに悪いんですか?」
フィルバートはニアの酒癖が悪いと言ってくるが、ニア自身は酒を飲んだ後のことはまったく覚えていなかった。だから、いまいち自覚がないというか、そんな自分は想像もできないというのが本音だった。
ニアが首を傾げると、フィルバートは呆れたように椅子にもたれかかった。
「俺が成人した日に、部屋を半壊させたことを忘れたのか?」
その言葉に、一瞬ギクリと身体が強張った。とっさに両手を組み合わせて、フィルバートからぎこちなく目線を逸らす。
フィルバートが成人を迎えた日に、祝いとしてその夜に二人で酒を飲んだのだ。そして翌朝、フィルバートの膝の上で目覚めたときには私室がめちゃくちゃに荒れていた。壁には穴が空き、家具はなぎ倒され、ベッドの天蓋の柱は一本折れて傾いているという、まるで大熊が暴れたかのような悲惨な状況だ。
フィルバートは片手で額を押さえたまま、疲れたようにソファに腰掛けていた。そして、その膝に頭を乗せたまま硬直しているニアを見下ろすと、こう一言呟いたのだ。
「お前を酔わせるとどうなるか、よく解った」
その日から、ニアは一滴たりとも酒を飲んでいない。そういえば、前の人生でも今世でも、両親から『お前は人前で酒を飲むな』と口酸っぱく言われていたのだった。それがどうしてなのか、ようやく理解できた。
「その際は、大変申し訳ございませんでした」
ニアがもごもごと謝罪を述べると、フィルバートは楽しそうに目を細めた。
「酔ったお前も面白かったがな」
「勘弁してください。あのあとクロエさんにこっぴどく叱られたんですから」
思い出して、思わず片手で頭を抱える。荒れた私室を片づけながら、クロエに「この家具の修繕に金貨一枚はかかりますね。ああ、この柱は銀貨三枚でしょうか。最高級の木材を使っていたからかなり高くつきますね」とチクチクと嫌味を言われたのだ。あのときのことを思い出すと、胃がじくじくと痛む。
ニアの半泣きな返答を聞いて、フィルバートがまた笑い声を漏らす。
悠々とワインを飲むフィルバートの顔を恨みがましく眺めていると、ふとバルコニーに続くガラス戸が叩かれるのが聞こえた。視線を向けると、ガラス戸の向こう側にクロエの姿が透けて見える。
フィルバートがうなずくと、クロエがガラス戸を開いて唇を開いた。
「ニア様にお会いしたいという方がいらっしゃいますが、いかがなさいますか?」
「俺にですか?」
「はい。ヘンリー・ハイランド様とクリスタル様です」
告げられた名前に、一瞬身体が強張るのを感じた。
ヘンリー・ハイランドとクリスタルに直接言葉を交わすのはあの騒動以来、四年ぶりかもしれない。当主であったハリーの反逆行為によって、ハイランド家が公爵から男爵まで爵位を下げられたというのは知っていた。実際、今日も全貴族の中でも一番最後にハイランド家の謁見があったほどだ。それほどまでに、ハイランド家の地位は凋落してしまった。
ハイランド家を継いだヘンリーは、今も第一騎士団に所属しているはずだ。実の父親が反逆者ということで周りの目は相当厳しいだろうが、ヘンリーが騎士団を辞めたという話は聞かない。
クリスタルはハリーが捕まった後、母親の生家がある領地へと下がったと聞いた。ひっきりなしに入っていた縁談の話はすべて絶ち消え、お茶会やパーティーでその可憐な姿を見ることも一切なくなっている。
そして、ハリーは四年前から遠く離れた辺境の地にある牢に投獄されていた。おそらく死以外で、彼が牢から出てくることは一生ない。
今日の謁見では、久々にヘンリーとクリスタル、そして二人の実母の姿を見て、ニアは少しだけほっとしたのだ。見る限り、ヘンリーもクリスタルも痩せ細ったり、自暴自棄になっている様子はなかった。前年と同じく、淡々とフィルバートに挨拶をし去っていったはずだ。それなのに、なぜ今更ニアに会いたがっているのか。
ニアが考え込んでいると、フィルバートが声をかけてきた。
「お前が会う理由を感じないのであれば断れ。必要であれば、俺も同席する」
「いえ、それは……ひとりで大丈夫です」
フィルバートの気遣いに、緩く首を左右に振って答える。ニアはクロエへ視線を向けると、事務的な口調で告げた。
「俺の代わりに、フィルバート様の護衛として騎士を五人ほど呼んで頂けますか?」
「もうこちらに呼び寄せております」
クロエが自身の後方を掌で示す。その先で騎士たちが五人並んでいるのが見えて、ニアは淡く笑みを浮かべた。
「流石です、クロエさん」
「お褒めに預かり光栄です」
全然光栄に思ってなさそうなスンッとした声でクロエが答える。その声音が面白くて小さく笑い声を漏らした後、ニアはクロエに訊ねた。
「お二人はどちらにいますか?」
「下の会場でお待ちです。ご案内します」
そう言って、クロエが先に歩き出す。その後ろを追いかけようと足を踏み出したとき、フィルバートがニアの左手首をパシッと掴んできた。
「ニア」
視線を向けると、フィルバートが軽く身を乗り出してニアの右頬に口付けてきた。頬を掠める柔らかい唇の感触に、パッと顔に熱が散るのを感じる。
「すぐに戻ってこい」
そう囁く声に、ニアは顔を赤くしたまま小さくうなずいた。
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