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49 守られたいんじゃない

   語尾が跳ね上がった声音に、一瞬ギクリと肩が強張る。ぎこちない動きで振り返ると、ぴょんぴょんとスキップじみた足取りでサクラが近付いてくるのが見えた。だが、なぜかサクラの傍にダイアナの姿は見えない。 「サクラ様、こんにちは」  胸に手を当てて敬礼をしてから、素早く辺りを見渡す。だが、ダイアナがサクラに付き添っている様子はない。ダイアナが護衛任務を放棄するとは思えないから、何かあったのだろうか。待機所の方を見ると、扉が閉められていて中の様子までは伺えなかった。 「恐れ入りますが、ダイアナは――」 「ええっと、こっちの人はだれですかぁ?」  訊ねようとした瞬間、サクラが自身の顎に人差し指を当てて訊ねてきた。その黒目がちな瞳は、両腕を組むロキへと向けられている。  ニアは、横目でロキを見やった。ロキは不愉快そうな表情をしているが、だからといって返答を止めるような様子もない。ロキの反応を確認してから、ニアは唇を開いた。 「こちらはエルデン王国の第二王子であられるロキ様です」 「えっ、それって王子様の弟くんってことですかぁ!?」  驚嘆したのか、サクラが片手を口元に当てながら大きな声をあげる。その甲高い声に、ロキが嫌そうに顔を顰めるのが見えた。  ロキの顔を覗き込むように背伸びをすると、サクラは明るい声で問い掛けた。 「じゃあ、ロキくんって呼んでもいいっ? それとも、ロキたむとか、ロキっちとかの方がいいかなぁ?」  気安いサクラの言葉に、ニアの方がとっさに目を剥いた。流石に王族であるロキに対して無礼すぎる呼び方だ。 「サクラ様、ロキ様をそのように呼ぶのは宜しくありません」 「えぇ~、でも王子様の弟ってことは、いつかわたしの弟にもなるってことですよねっ? だから、今から仲良くなりたいなって思ってっ」  無邪気な笑顔を浮かべて告げられた言葉に、ニアは自身の頬が引き攣るのを感じた。つまり、サクラはもう自分がフィルバートと結婚するのを確信しているのか。確かにあんな予言をされたらそう思うのも仕方ないかもしれないが、あまりにもポジティブというか、厚かましいというか……。  ニアが唖然としていると、ロキがぼそりと呟くのが聞こえた。 「何だ、この勘違いドブス女は」 「あっ、聞こえたぞ~! 人のことをブスって言うなんて悪い子だ~!」  サクラがぷっくりと頬を膨らませる。その姿を見て、ロキは嫌そうに眉を顰めた。 「そのうえ、エセ天然ぶりっこかよ」 「ぶりっこじゃないもんっ! ニアさんもなんとか言ってくださいよっ!」  サクラがロキを指さしながら、助けを求めるようにニアを見やる。その視線を受けながら、ニアは緩く息を吐き出した。 「サクラ様、どうかロキ様に失礼な態度を取らないでください」 「ニアさんっ! ニアさんは、わたしのことが嫌いなんですかっ?」  うるうるとサクラが目を潤ませて、こちらを見つめてくる。その瞳を見返して、ニアは小さな子に言い聞かせるように呟いた。 「好きとか嫌いとか、そういうお話ではありません。ロキ様にきちんと敬意を払って頂きたいのです。この世界に来たばかりでまだ難しいかとは思いますが、必要であれば私が一つずつお教えしますので」  教師みたいに言って、ロキを指さしたままのサクラの手へと手を伸ばす。その手を下げさせようとして指先がわずかにサクラの手の甲に触れた瞬間、突然強烈な眩暈が走った。  ぐわんっと視界が上下逆転するような激しい眩暈に耐えられず、ニアはとっさに地面に両膝をついた。凄まじい腐臭が全身を満たして、胃の中身が逆流して喉元まで一気に這い上がってくるのを感じる。ニアは両手で口元を押さえながら、必死に吐き気に耐えた。 「おい、どうした!」  頭上からロキの焦った声が聞こえてくる。その直後、ふと肩口に触れる掌を感じた。まるで腐った汚泥みたいに、ぐちゃりと重たく粘着いた感触がする。  そして至近距離から、ねっとりと絡み付くような声が聞こえてきた。 「ニアさんは、わたしのことが好きですよねぇ?」  脳髄へとずぶずぶと沁み込んでくるような、とろけた蜜じみた声音だ。ニアが鈍く顔を上げようとした瞬間、鋭い声が鼓膜を貫いた。 「そいつから離れろ!」  泥の底に沈みかけていた思考が、その声によって現実に引き戻される。  声の方へ顔を向けた瞬間、二の腕を掴んで引っ張られた。立ち上がるなり、ニアの腕を掴んだ相手の背中側へと身体を押しやられる。 「こいつに触るな」  そう吐き捨てる声が聞こえる。ぐらぐらと揺れる視界の先に、フィルバートが立っているのが見えた。その尖った眼差しは、まっすぐサクラへと向けられている。 「え、えっ、わたし、ニアさんがいきなりしゃがんじゃったから心配して……」  サクラが戸惑った様子で答える。フィルバートはしばらくサクラを睨み付けた後、周囲を緩く見渡して唇を開いた。 「ダイアナはどこにいる」  フィルバートがそう吐き捨てるのと同時に、待機所の方から凄まじい轟音が聞こえてきた。視線をやると、待機所のレンガに大穴があいているのが見えた。パラパラと崩れた壁の内側から、戦鎚(せんつい)と呼ばれる巨大なハンマーの頭が覗いていた。  一度引き抜かれてから、ハンマーが再び壁に叩きつけられる。数度繰り返された後、崩れた穴から進み出てきたのはダイアナだった。長い髪を振り乱して、悪鬼のような表情を浮かべている。  ダイアナは無造作にハンマーを地面に放り投げた後、猛烈な勢いでこちらへと駆け寄ってきた。ダイアナへと向かって、フィルバートが低い声をあげる。 「お前は何をしていた」 「申し訳ございません。中に閉じ込められておりました」  髪も整えないまま、ダイアナが答える。ダイアナはそのまま怒りが滲んだ眼差しで、サクラを見やった。サクラがビクッと肩を震わせて、怯えた声で呟く。 「だ、だって……ずっと後ろにピッタリくっついてるから、なんだか怖くって……騎士さんにお願いしたら、ちょっとだけひとりの時間をくれるって言ってくれて……」  クスンとこれ見よがしにサクラが鼻を鳴らす。サクラは涙目でダイアナを見上げると、弱々しい声で問い掛けた。 「きっと、嫉妬してるんですよね……わたしに王子様を奪われるって思って……」 「は? 何言ってんだ、このクソ●●」  ボソッとダイアナがものすごい悪口を言っているのが聞こえた。脳味噌が怒りで沸騰しそうなのか、ダイアナのコメカミにはクッキリと血管が浮いているのが見える。  フィルバートは待機所を見据えた後、苦々しい声で呟いた。 「任務の阻害をした者は、後ほど処罰する。お前は、そいつをしっかり見張っておけ」 「承知いたしました」  ダイアナがフィルバートへと敬礼を向ける。だが、その間もダイアナの目線はサクラへと向けられていた。  ニアの腕を掴んだままフィルバートが大股で歩き出す。だが、まだ眩暈が残っているのか、足がふらついた。よろめくニアに気付いたのか、フィルバートが気遣うように歩調を緩める。  フィルバートに連れられるままに城内に入る。そうして人気(ひとけ)のない来賓室に入るなり、無理やり椅子に座らされた。ニアの顔を覗き込んで、フィルバートがかすかに切迫した声で訊ねてくる。 「気分はどうだ」 「あ、はい、先ほどよりかは良くなりました。申し訳ございません、寝不足だったせいか眩暈が――」 「だから、城から出ろと言ったんだ」  言葉を遮って、苛立った声をぶつけられる。その言葉に、また一気に全身が冷たくなるのを感じた。  フィルバートが片手で自身の髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら、落ち着きのない犬みたいに小さな円を描いて歩いている。そのどこか焦燥した様子を見て、ニアはぽつりと訊ねた。 「フィル様は、俺に何を隠してるんですか」  問い掛けた瞬間、フィルバートの足がピタリと止まった。見開いた目が、ニアを凝視している。 「サクラ様が現れてから、フィル様はずっとおかしいです。突然俺を突き放して、ダイアナと恋人みたいなフリをして、無理やり俺を遠ざけようとしてる。俺は……もう貴方にとって必要ありませんか?」  情けない言葉が、次々と口から溢れてくる。死んでも泣きたくなんてないのに、眼底がかすかに湿り気を帯びるのを感じて、余計に息が詰まった。 「俺を、一生離さないって言ったのに……」  ああ、本当に無様だ。惨めな恨み言が口から零れて、心底自分を嫌いになりそうだった。  震えそうになる唇を噛み締めていると、フィルバートの掠れた声が聞こえてきた。 「お前を、誰よりも愛している」  愛を語る言葉なのに、その声はどことなく悲しげに聞こえた。まるで心臓を絞って吐き出したような声音だ。  顔を上げると、フィルバートは苦しげな表情でニアを見つめていた。フィルバートのこんな顔は見たことがなかった。まるで手から零れ落ちていく宝物を見ているような、切なげな眼差しをしている。 「それなら、どうしてですか。どうして、俺に何も言ってくれないのですか」  追い立てるように訊ねると、フィルバートは目元を歪めた。 「言えない。お前には、絶対に言えない」 「なぜですか」 「言えば、お前は俺を一生許さないだろう」  フィルバートの言葉の意味が解らなかった。こんなにも想っているのに、なぜニアがフィルバートを許せなくなるのか。  理解できないことがもどかしくて悔しくて、ニアは勢いよく立ち上がるとフィルバートの両肩を掴んだ。 「フィル様、お願いですから……俺を信じてください……」  懇願するように囁く。息苦しさに耐えるために、うつむいたままギュッと目を閉じる。  長い沈黙の後、フィルバートが静かな声で言った。 「俺が信じられないのは、お前じゃない」  奇妙な言葉の直後、フィルバートが淡々とした口調で続ける。 「すべて終わったら、城に呼び戻す。それまで、家に戻っていろ」  そう命じる声に、一瞬で心臓がバラバラに砕け散るのを感じた。  顔を上げると、氷のように冷え切った眼差しがニアを見ていた。前の人生で処刑されるニアを見下ろしていたときと同じ、感情の失せた瞳だ。その瞳を見た瞬間、恐怖が全身に駆け巡って、直後煮え滾るような怒りが込み上げてきた。腹の底で憤怒のマグマが暴れ狂って、目がこれまでないほどに吊り上がる。 「嫌です」 「ニア」  フィルバートがニアの腕に手を伸ばしてくる。その掌を、ニアは勢いよく振り払った。 「嫌だって、言ってるじゃないですかッ!」  激怒のあまり、抑え切れず癇癪を起こした子供みたいな声が迸った。ニアの怒鳴り声に、フィルバートが驚いたように目を見開いているのが見える。その目を見据えたまま、ニアはありありと怒りを滲ませた声をあげた。 「俺は、ロキ様の護衛として城に残ります」 「ロキの護衛だと?」 「ええ、そうです。ロキ様にも許可を頂いています」 「待て、俺は許可していない」 「貴方の許可は必要ありません。ロキ様も王族ですから、ご自身で護衛を選ぶ権限があります」  そう言い返すと、フィルバートは片目を眇(すが)めた。苦々しい表情を見据えたまま、ニアは突き放すような口調で告げた。 「貴方が俺を蚊帳の外に置こうとするなら、俺は勝手にひとりで戦います」  宣言するように言い放って、ニアはスタスタと部屋の扉へと向かって歩き始めた。後ろからフィルバートの声が聞こえてくる。 「ニア、頼むから」  どこか悲しげな声に、ニアは肩越しに振り返ってフィルバートを睨み付けた。フィルバートは捨てられる子犬のような目をして、ニアを見つめている。らしくないぐらい傷ついた子供の瞳に、胸がズキリと痛んだ。 「俺は守られたいんじゃない。貴方と一緒に戦いたいんです」  たとえ行き着く先が地獄でも、フィルバートとともにいられるのなら良い。それなのに、この人はいつだって黙ったまま一人で毒杯を飲み干そうとするのだ。決してニアに毒を分けてはくれない。愛する人が目の前で毒を呷る姿を、ただ眺めることしかできないのがどれだけ辛いことかも知らずに。  そう思うと、また眼球に涙が滲んで、ギッと目尻が吊り上がった。唇をわなわなと震わせた後、ニアはフィルバートへと向かって叫んだ。 「フィル様のバカッ!」  とっさに思い付く悪態がそれしかなくて、両肩をいからせて罵りを吐く。  呆気に取られたフィルバートの表情から目を逸らして、ニアは顔を赤くしたまま足早に部屋から出て行った。

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