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54 悪夢
四方八方から聞こえてくる断罪の声に、目が覚めた。目蓋を開いた瞬間、ガツッと額に硬いものが当たる。緩く視線を落とすと、小さな石が転がっていくのが見えた。どうやら石を投げ付けられたらしい。
ニアが顔を上げようとすると、まるで波のように何百何千もの怒号が全身に叩き付けられた。
「聖女様に害をなすとは死に値(あたい)する!」
「あの男は聖女様を陰湿に苛めていたらしいぞ! 心を病んだ極悪非道な男だ!」
「そのような卑劣な男を育てた家族も同罪!」
「一族郎党、死んで償え!」
聞き覚えのある罵倒に、全身の血の気が一気に下がっていく。
顔を上げると、城門前の広場が見えた。広場を埋め尽くさんばかりに溢れた群衆は、みな興奮した様子で腕を振り上げて罵詈雑言を喚いている。そして、己の姿を見やると、両腕と首が木枠にはめられて固定されていた。
――あのときと同じだ。前の人生で処刑されたときと、まったく同じ光景。
そう思ったとき、隣から啜り泣く声が聞こえた。視線を向けると、髪の毛をざんばらに切られたダイアナの姿が見えた。ニアと同じように木枠に固定されたまま、そのエメラルド色の瞳からぽろぽろと涙を零している。
「ダイアナ……」
震える声で名前を呼ぶと、ダイアナは涙で濡れた瞳でニアを見やった。
「お兄さま、どうしてこんなことになったの……?」
解らない。そんなの解るわけがない。だって、俺はずっとこの運命から逃れようとしてきたはずだ。二度と処刑台に送られることのないように、死に物狂いで運命に抗(あらが)い続けてきた。それなのに、どうしてまた同じ場所に辿り着いているのか。
あまりの恐怖に、心臓が凍り付きそうだった。カチカチと歯を鳴らしながら、視線を斜め上へと向ける。
そこには前の人生のときと同じように、断頭台を見下ろすような形で壇上が設けられていた。壇上には、フィルバートとサクラが寄り添うように立っている。
「フィル様……」
掠れた声で名前を呼ぶが、フィルバートはピクリとも表情を動かさない。こちらを見下ろすフィルバートの氷のような眼差しを見て、ニアはヒュッと咽喉を鳴らした。
――どうして、俺をそんな目で見る。いやだ、俺をそんな目で見ないでくれ。
置物でも眺めるようなフィルバートの空虚な視線に、全身が冷たい絶望で満ちていく。フィルバートが片手を軽く上げて、感情のない声で言い放つ。
「処刑執行」
呆気ない命令の後、ダイアナの鋭い悲鳴が響き渡った。
「いやぁあぁ、お兄さまッ!」
視線を向けると、ダイアナの横に立った処刑人が大斧を振り上げているのが見えた。その光景に、咽喉から絶叫がほとばしる。
「やめてくれッ! ダイアナは何も悪くない! 何も悪いことをしていない! だから、殺すのは俺だけにしてくれ……!」
涙ながらに喚き散らす。だが、無情にも大斧が振り下ろされるのが見えた。
斧が風を切る音に目を見開いた瞬間、誰かに強く肩を掴まれた。
「大丈夫ですかっ!?」
耳元で叫ばれて、硬く閉じていた目蓋をパッと開く。薄暗い空間の中で、こちらを心配げに覗き込む顔が視界に映った。見覚えのある顔だ。
「ミ……ミック……?」
ミック・ヘザー、確かダイアナとともに第二騎士団に入団した騎士だ。ニアが名前を呼ぶと、ミックは少し気弱そうな笑みを浮かべた。
「うなされているようでしたので起こしてしまいました。なにか悪い夢でも見ましたか?」
訊ねながら、ミックがニアの目から溢れる涙を指先で拭ってくる。恋人にでも触れるような親密な手付きに違和感を覚えながらも、ニアは掠れた声を漏らした。
「悪い、夢……」
先ほどの光景は、ただの悪夢だったのか。現実と悪夢が入り混じっているような感覚が抜けず、動悸が止まらない。呼吸を落ち着かせようと、深く息を吸い込む。だが息が整う前に、ダイアナが階段から転がり落ちる姿を思い出して、再び鼓動が乱れた。
「ダイアナはッ! ダイアナは無事なのかッ!」
叫びながら、両手を伸ばしてミックの腕を掴もうとする。だが、その瞬間、ガチャと鈍い金属音が鳴って、両腕が動かなくなった。恐る恐る視線をやると、壁に鎖で繋がれた手錠が両手首にはめられているのが見えた。着ている服も、いつの間にか簡素な白服に着替えさせられている。
ぎこちなく首を動かして、薄暗い室内を見渡す。そこは窓一つない地下牢のようだった。床も壁も石でできており、床についた尻や壁にもたれた背中からじんわりと冷気が伝わってくる。牢の中を淡く照らすのは、鉄格子の向こう側の壁にかけられた一本の松明(たいまつ)だけだ。
自分が牢に閉じ込められていると気付いた瞬間、冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。ニアが硬直していると、ミックはゆっくりと唇を開いた。
「ダイアナ嬢はご無事です。少し頭を打っていましたが、大きな怪我は負っておりません」
ミックの返答に、少しだけ安堵が込み上げる。それでも今自分がいる場所を考えると、身体の強張りはとけなかった。
「俺は、どうしてここに……」
ニアがぽつりと漏らすと、ミックは不意に顔をくしゃりと歪めた。悲しげにニアを見つめたまま、ミックが静かに呟く。
「本当に、お気の毒です」
「気の毒って、何が……」
上擦った声を返すと、ミックは切なげに眉を寄せた。ミックの手が、慰めるようにニアの肩の丸みを撫でてくる。その物欲しげな触れ方に、薄く鳥肌が立った。
「聖女様を傷付けた罪により、ニア様には斬首が命じられました」
告げられた言葉に、一瞬息が止まった。呼吸を止めたまま、見開いた目でミックを凝視する。
「明日の朝には、民衆の前で刑が執行されます。ニア様がこのような終わり方をするとは……あまりにも痛ましくて言葉にできません」
沈痛な面持ちで語られるミックの言葉を、ニアは茫然自失のまま聞いた。冷たい石の床を見下ろして、無意識に呟く。
「フィル様が、認めるわけがない」
フィルバートが、ニアを見殺しにするわけがない。
頭ではそう解っているのに、唇が小さく震えた。戦慄く唇を噛み締めて、もう一度自分に言い聞かせるように言う。
「フィル様は、俺を見捨てない」
不安で心臓がざわつくのが苦しい。フィルバートを信じたいのに、どうしようもなく怖くて堪らなかった。運命はどう足掻いても変えられないなんて、そんなことは死んでも信じたくない。
うつむくニアを見つめて、ミックが哀れむような声を漏らす。
「いいえ、王子殿下は貴方の処刑を許可しました。それだけでなく聖女様と婚約し、幽閉していた王妃様も自由にすると……」
言いにくそうに視線を逸らしながらミックが言う。信じられない言葉の数々に、ニアは耐え切れず声を張り上げた。
「嘘だッ! フィル様は、俺を……俺を……」
そこから先が出てこなかった。
――フィル様は、俺を愛していると言ってくれた。俺を、一生離さないと約束してくれた。
そう言いたいのに、言葉が咽喉に詰まって出てこない。代わりのように、潤んだ瞳から一筋涙が溢れ出した。
静かに涙を零すニアを見つめて、ミックがなだめるような声をあげる。
「お可哀想に。愛する人に、裏切られたのですね」
違う。裏切られてなんかない。そんなのは信じない。死んでも信じたくない。
頭の中で否定を繰り返すのに、牢に閉じ込められた自分の現状を思うと、信じたくないという気持ちが容易く折れていくのを感じた。この七年間築き上げてきたフィルバートとの信頼も愛も、すべて無意味だったのか。結局、自分は断頭台で首を斬り落とされる運命からは逃れられなかったのか。そう思うと、咽喉から惨めな嗚咽が小さく漏れた。
「フィル様……」
こんなときですら、縋り付くみたいにフィルバートの名前が口から零れてくる。
声も出さずに泣くニアの肩を、ミックはなだめるように撫でていた。だが、ふとその手が腰のラインへと滑らされる。そのまま腰骨をグッと掴んでくる掌の感触に、ニアは伏せていた顔を上げた。
至近距離でニアを見つめて、ミックが思い詰めた声で言う。
「ニア様……俺と一緒に逃げましょう」
「……は?」
「俺が貴方を自由にします。ですから、俺と一緒にこの国から出ましょう。どこか遠いところで二人だけで暮らすんです」
どこか熱に浮かされたようなミックの口調に、ぞわりと背筋に悪寒が走る。ニアを覗き込むミックの瞳には、かすかに澱んだ欲望が滲んでいるように見えた。
ニアの右手を両手で包み込むと、ミックは上擦った声で続けた。
「ニア様、おっ、俺は、貴方をお慕いしています。大斧を振るう姿はとても美しく、魅力的で……俺は、俺は、ずっと貴方を……」
興奮のせいか、ミックの呂律が回らなくなっている。どんどん近付いてくるミックの顔を、ニアは目を見開いて凝視した。瞳孔が開き切ったミックの眼球の奥で、ぬるりと赤黒い何かが蠢いている。サクラの眼孔の奥で見えたものと同じだ。
それを見た瞬間、ニアはミックの手を振り払っていた。
「触るなッ!」
鋭い声で叫んで、後ずさろうとする。だが、背後はすぐ壁で、それ以上下がることもできなかった。
ニアを見つめるミックの瞳孔は、すでに赤黒く染まり切っている。サクラに操られているのか。それとも己の欲望を増長させられているのか。少なくとも正気の様子ではない。
視線を左右に動かして、どうにか逃げ出せないかと思考を巡らせる。だが、考える間もなく、突然強い力で首を鷲掴まれた。首に触れられる感触に全身が総毛立った直後、背中を勢いよく床へと叩き付けられる。そのまま、真上から押し潰すように咽喉を絞められた。
「グ、ぅヴぅ……ッ!」
気道を塞がれる息苦しさに、四肢がバタバタと暴れた。両手首に繋がれた鎖が床や壁にぶつかって、ガチャガチャとけたたましい音を立てているのが聞こえる。
ニアの首を両手で掴んだまま、ミックはどこか恍惚とした声をあげた。
「俺は、ずっと貴方を――グチャグチャにしてやりたかった」
必死に藻掻くニアを見下ろして、ミックが溶け崩れるような笑みを浮かべる。その笑みに、一気に全身の体温が下がっていく。
「清廉潔白な貴方をどろどろに汚しきって、俺だけのものにしたかった。ああ、こんなチャンスがあるなんて、なんて僥倖(ぎょうこう)だ。まさに神の恵みだ。貴方が手に入るなんて」
ニアの首を絞め上げながら、ミックがペラペラと早口で独りごちる。だが、その声も次第に遠くなっていった。酸欠のせいで意識がぼやけて、視界が暗く狭まっていく。身体に力が入らなくなり、暴れていた四肢が床の上に落ちて、時折痙攣するようにピクッと跳ねた。
こんなところで終わるのか。この二度目の人生は、すべてをやり直すために神が与えてくれたチャンスだと思っていたのに、こんな終わり方はあんまりだ。
絶望と諦念が全身に広がっていって、走馬灯のように今までの記憶が次々と浮かんでは消えていく。両親にダイアナ、ロキ、そしてフィルバートの姿が目蓋の裏に浮かんで、また涙が頬を伝っていくのを感じた。
『私の命はお前のもの』
ニアの左薬指にはめた指輪に口付けて、フィルバートがそう囁いてくれたことを思い出す。その美しい記憶が、今は悲しかった。だが、もういい。もう十分だ。自分は、あのとき確かに幸せだった。あの瞬間の幸福な気持ちだけを抱き締めて、この二度目の人生を終わらせてしまおう。
だけど、もう三度目の人生は御免だ。もう、こんな辛い終わり方は二度としたくない。だから、もし神がいるなら、どうかこれで終わりにしてください――
細い糸が切れるように、意識が途絶えていく。だが、完全な暗闇へと呑まれる瞬間、頭上から鈍い音が響いた。同時に咽喉に食い込んでいた手が外れて、圧迫感が消える。
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