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53 魔女

   頭で考えるよりも早く、条件反射で身体が走り出す。だが、距離が遠すぎて、必死に手を伸ばすが間に合わない。  咽喉が絞められるような声が漏れたとき、ミーナの細い腕をギリギリで掴む手が見えた。ダイアナはほとんど階段へと倒れ込むような体勢でミーナの腕を掴むと、一瞬ニアへと視線を向けた。それらすべてが眼球にスローモーションに映る。 「お兄さまッ!」  ダイアナはそう叫ぶと、自身の身体の位置と入れ替えるようにしてミーナをニアへと向かってグンッと放り投げてきた。勢いよく投げられたミーナの身体を、両腕で受け止める。だが、その間もニアは眼前の光景から目が離せなかった。ダイアナの身体が斜めに傾いて、そのままドッと鈍い音を立てて階段へと倒れる。 「ダイアナッ!!」  自分の咽喉から絶叫が溢れた。ダイアナの身体が、階段をどんどん転がり落ちていく。その光景を見て、ニアはとっさに階段中腹へと視線を移した。 「ロキ様! 止めてくださいッ!」  悲鳴じみた声をあげたときには、階段中腹でロキがダイアナの身体を受け止めていた。階段に押さえ付けるようにしてダイアナの身体を止めて、ロキが大きな声をあげる。 「おいっ! 大丈夫か!」  ロキがそう声をかけるが、ダイアナが反応を返している様子は見えない。ロキの腕の中でぐったりと倒れているダイアナを、ニアは階段の上から呆然と見下ろした。  両腕の内側からしゃくり上げる声が聞こえる。視線を下ろすと、ミーナが両目からぼろぼろと涙を零しながら泣いていた。ニアが両腕の力を緩めると、そのままミーナは両親へと向かって駆けていった。ミーナを抱き留めた両親が、怯えた眼差しでサクラを見つめている。  サクラは階段の下を見下ろしたまま、薄らと微笑んでいた。罪悪感など欠片も感じられない愉しげな表情に、ぞわりと背筋に怖気が走る。 「どうして、こんなことを……」  ひどく強張った声が唇から零れる。ニアの問い掛けに、サクラはゆっくりと視線を向けてきた。その顔には、まるで物知らずな子供みたいな無邪気な笑顔が浮かんでいる。 「だってぇ、ムカついちゃったんだもん」 「ムカついたって……」 「お花をわたすべきなのは、ダイアナちゃんじゃなくてわたしでしょ。だって、わたしがこの国の聖女なんだから。それなのに、わたしのこと無視するから『もう、この子いらないなぁ』って思っちゃって」  そう言うと、サクラは下顎を人差し指で押さえたまま、緩く首を傾げた。語る台詞の悪辣(あくらつ)さに反してその仕草だけは稚(いとけな)くて、そのアンバランスさが余計に不気味だった。 「というか、王子様も他のみんなも、ダイアナちゃんばっかヒイキしておかしいよね。ぜんぜん聖女のわたしを一番大切にしてくれないんだもん。だから、わたしを一番にしてくれない邪魔なものは、ぜぇ~んぶ消しちゃうんだ」  何を言っているんだ、この女は。完全に何かが壊れている。いや、壊れているのではなく、生まれながらに善悪の基準というものを持ち合わせていないのかもしれない。  サクラがゆっくりとニアに近付いてくる。小柄な少女だというのに、ひどく巨大で忌々しい何かが近付いてくるような感覚がして、ニアは後ずさりそうになった。  必死に踏みとどまって、腰に携えた剣を右手でキツく握り締める。辺りへと素早く視線を動かすと、取り巻きの騎士たちはなぜか棒のように突っ立っていた。生気の抜けた蝋人形みたいに目を見開いたまま硬直している姿を見て、余計に悪寒が走る。 「それ以上、近付くな」  恐怖を押し殺して低い声をあげるが、サクラが足を止める様子はない。 「王妃様もひどいよねぇ。王子様の心を奪ったら、わたしにこの国の半分のヒトをくれるって約束してくれたから、わざわざこんなところまで来てあげたのに。王子様は心がからっぽだからすぐにわたしの思い通りになるとか言ってくせにさぁ、全然思うように進まないんだもん。いやになっちゃうよねぇ」  あーあ、とサクラが面倒くさそうにため息を漏らす。  その言葉に、ニアはひどく困惑した。『この国の半分のヒトをくれる』というのは一体どういう意味だ。王妃は、サクラを何のために呼び寄せたのか。そして、目の前の『少女の形をしたモノ』は一体何なのか。 「ねぇ、この世界にわたしのことを好きな人しかいなくなったら、きっとすごく素敵な場所になるよね。ニアさんもそう思わない?」  夢見る乙女のように語って、サクラがうっとりと両手を組み合わせる。  その胸元で揺れる赤いペンダントが、また仄暗い光を放つのが見えた。同時に、サクラの黒い眼球がどろりと赤黒く濁って蠢く。まるで赤黒いミミズが眼孔でのたうっているかのような不気味な光景だ。それを見た瞬間、唇が勝手に動いていた。 「お前は――聖女なんかじゃない」  ようやく確信が持てた。目の前の少女は、聖女なんかじゃない。もっとおぞましく、邪悪な存在だ。  交戦体勢に入ったニアが剣を引き抜くと、とろりと緩んでいたサクラの顔から一切の表情が消えた。サクラがそっと両手を胸元のネックレスにかざす。同時に、突然ネックレスが激しく輝き出して、赤い宝石の内側から錆びた金属を引っ掻くような、数百人の断末魔が折り重なったような不協和音が響いてきた。 「ぅ、グッ」  不協和音が鼓膜を貫いて、激しい頭痛と吐き気が一気に押し寄せてくる。三半規管がぐらぐらと揺れて、まともに立っていることができずに膝が崩れた。地面に片手をついて必死に立ち上がろうとしていると、ふと手の甲にひたりと冷たい指先が触れた。白くぼやけた視界に、干からびた樹皮のように所々がドス黒くひび割れた手が映る。同時に凄まじい腐臭が鼻腔に潜り込んできて、息ができなくなった。 「おかしいなぁ。なんでニアさんの心には潜り込めないのかなぁ? 女よりも男の方がずっと頭の中に入り込みやすいはずなのに」  朦朧とした意識の中、独り言のようなサクラの声が聞こえてくる。 「あれぇ……もしかして、魂が二重になってる? これって一回死んじゃってるってことぉ?」  怪訝そうに呟くと、サクラはニアの顔を覗き込んできた。その瞳を見た瞬間、一気に全身が総毛立った。サクラの眼球は白目部分がなくなって、すべてが真っ黒に染まっている。まるで底なしの穴みたいになった眼球を見て、あまりの恐怖に脂汗が滲み出るのを感じた。  直視することができず目を伏せると、ちょうど視線の先にあの赤い宝石がついたネックレスが揺れていた。金切り声を放つ宝石の内側を、何百もの小さな手が『ここから出してくれ』と訴えるようにドンドンと叩いているのが見える。その光景を凝視していると、突然脳みそを貫くように誰かの声が響いた。 『お願い、魔女を殺して!』  叫び声が頭に響いた瞬間、ニアは全身に力を込めて剣を振り上げていた。だが、避けられたのか剣先はサクラの左腕をわずかに掠めた程度だった。立ち上がったサクラが、自身の切り裂かれた左腕をじっと見下ろしている。その腕から溢れている血は赤色ではなく、まるで泥のように澱(よど)んだ黒色をしていた。 「魔女」  ひとりごちるように、ぽつりと口をついて溢れた。その声が聞こえたのか、サクラがゆっくりと顔を上げてニアを見つめてくる。黒く塗り潰された眼球を見て、ニアは両手に剣を構え直した。  だが次の瞬間、サクラは切られた左腕を右手で押さえると、甲高い悲鳴をあげた。 「キャアァアアッ! 助けてッ、助けてぇッ! 殺されちゃうぅ!」  サクラが叫ぶのと同時に、棒立ちになっていた騎士たちがハッとしたように動き出すのが見えた。状況が解らず狼狽している騎士たちの後ろに隠れて、サクラがニアを指さしてくる。 「ニアさんが突然わたしに切りかかってきたんです! お願いだから、はやく捕まえてぇ!」  サクラが泣き喚く声を聞いて、騎士たちが躊躇しながらも剣を掴む。それを見て、ニアは鋭い声をあげた。 「従うな! そいつは聖女じゃない!」  そう叫んだ瞬間、先ほどの眩暈が残っていたのか、ぐわんっと頭が大きく揺れるのを感じた。脳みそがシェイクされるような感覚に立っていられず、身体が地面に崩れ落ちる。すると、ここぞとばかりに騎士たちが背後からニアの両腕を取り押さえてきた。 「ダメだ……それは……ま、じょ……」  眩暈のあまり舌が回らない。騎士たちに引き摺り起こされながら、うつろな視界を巡らせる。白く濁った視界の先に微笑むサクラの姿が映った直後、プツンと意識が途絶えた。

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